しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年10月9日日曜日

説教#137:「あなたのもとに返ってくるもの」

「あなたのもとに返ってくるもの」
聖書 マタイによる福音書7:1-6、イザヤ書33:22、
2016年 10月 9日 礼拝、小岩教会

【「人を裁くな」と主は言われる】 
自分の語った言葉が、ブーメランのように自分にそのまま返ってくる。 
きっと、そのような経験は誰にでもあると思います。 
誰かの過ちを指摘したとしても、実は、
自分も同じ過ちを犯していることさえあります。
また、他人の欠点に気づき、それを指摘したとき、 
それが自分の欠点であることだってあります。 
もしも私たちが誰かのミスや弱さといったものに対して、
強烈な批判や攻撃をするならば、
その言葉が自分のもとに返ってきたときに、
私たちが受ける痛みは相当なものです。 
このように、自分の語った言葉がブーメランのように
自分のもとに返ってくることは、よくわかっているのに、
私たちは、人の弱さにつけこんだり、欠点や足りない部分、過ちなどを、 
必要以上に指摘し、傷つけることを、なかなかやめられずにいます。 
だから、イエス様は私たちにこのように語りかけられたのです。 
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
ここでイエス様が語っていることは、裁判における法的な裁きではありません。
イエス様は、私たちが日常的に周囲の人々に対して行なう裁きに対して、
「人を裁いてはいけない」と命じているのです。
イエス様がこのような命令を私たちに語るのは、当然のことだと言えます。
というのも、私たちは、目の前にいる人のすべてを知ることが出来ないのに、
気に入らないことや欠点などを見つければ、指摘したり、
影で裁いたり、ときには直接、攻撃的に批判したりもします。
その上、そのように人を裁く一方で、
私たちは人間は、すべての人を公平に裁くことなどできません。
先入観や感情の変化などで、その裁きの内容はころころと変わってしまいます。
いや、そもそも、他人を裁くことが出来るほど、
完璧で善い人間など一人もいません。
ですから、本来、私たちが人を裁いても良いという正当な理由などないのです。
だから、イエス様は「人を裁くな」と命じられるのです。

【兄弟の目にあるおが屑、あなたの目にある梁】
しかし、悲しいことに、このような事実を
私たちはあまりにも簡単に忘れてしまいます。
ですから、そのようなときにこそ、この話を思い出して欲しいと願って、
イエス様はひとつの例を語り始めました。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。(マタイ7:3-5) 
このように語ることによって、自分自身を省みることなしに、
他者を裁くことがどれほど愚かなことかを、イエス様は指摘されました。
イエス様が語ったこの話の中で、目の前の兄弟の目にあるものは「おが屑」です。
おが屑は、米一粒よりは大きいものですから、
確かに、目の中にあったら、目立つでしょうし、指摘したくもなります。
それに対してイエス様は、兄弟に向かって、
そのように指摘をするあなたのその目には「丸太がある」というのです。
ここで「丸太」と訳されている言葉は、「梁」を意味します。
それは、刺すと痛いあの針ではなく、建物の柱の上に横に渡して、
建物の上からの荷重を支える部材である「梁」です。
梁は明らかに、おが屑よりも大きいものです。
ですから、梁のある目は、ほとんど見えない目といえるでしょう。
しかし、梁があることによってほとんど見えていないのにも関わらず、
ほんの少し自分の目に映った他人のおが屑が気になってしかたない。
そのおが屑が見えるために、その人の欠点や性質などが
すべて自分には見えていると思い込み、
「おが屑が目に入ってますよ」と指摘してくるというのです。
何だか、とっても質の悪い、嫌な人の姿を
イエス様は語っているように感じます。
でも、それが人を裁いているときの、私たち自身姿であると、
イエス様は指摘されているのです。
イエス様は、2節まで「あなたがた」と語っていたのに、
ここでは「あなた」と語りかけることによって、
より力強く私たち一人一人に迫り、語りかけているのです。

【偽預言者たちへの警告】
もちろん、中には厳しい指摘をする必要のあるときもあるでしょう。
そのため、イエス様は人を裁くことについて、
6節で限定的な側面を語りました。
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。(マタイ7:6)
解釈が難しい言葉ですが、恐らく、
新約聖書の時代に教会の内部に度々現れた「偽預言者」の存在について、
イエス様は語っています。
イエス様は偽預言者たちのことを、
当時人々から忌み嫌われていた「犬」や「豚」と表現し、
彼らを警戒するようにとの警告を、人々に与えているのだと思います。
偽りの預言を語る人々を裁き、
その偽りの預言から距離を置くようにすべきである、と。
このような厳しい言葉が語られたのは、
偽預言者と呼ばれている、彼らの教えが
間違っていることが問題だったからというよりは、
教会の交わりのあり方を破壊していることが、彼らの問題だったからです。
だから、イエス様は、この6節の言葉を語ることを通して、
「人を裁くな」という言葉に、一言加える必要があったのです。

【教会の交わりの破壊者とならない】
それを思うと、イエス様がここで「人を裁くな」と言った理由が、
より鮮明になってくるかと思います。
「あなた方が人々にする指摘や批評が、教会の交わりを壊すような、
破壊的なものであってはならない」というのが、
イエス様が何よりも伝えたいことなのだと思います。
というのも、イエス様はここで「兄弟」という言葉を使っています。
兄弟とは、教会で一緒に交わりを持つ人々や、
イエス様を信じている同じ信仰者を指す言葉です。
もし、私たちが目の前にいる人の弱さや欠点を攻撃し、裁くとき、 
その相手を必要のない存在、価値の無い存在とみなしてしまっています。
いや、私たちの側にそのようなつもりがなくても、
私たちの言葉を受け取った相手が、「自分が攻撃されている」だとか、
「自分は必要のない、価値のない存在なのだ」と感じてしまうことがあります。
そのようなとき、イエス様は「あなたの目の中には梁があるのだ」と
語りかけることによって、私たちを促します。
「あなた自身も、同じように弱さを持ち合わせていることに気づきなさい」と。
事実、誰もが何らかの弱さや欠点を抱えながら生きています。
そのため、私たちがお互いのおが屑や梁について、
裁き合うならば、その争いは永遠に終わることがありません。
私たちは、お互いの弱さに目を向けるとき、
使徒パウロがコリントの教会に宛てて書いた言葉を
思い起こすように招かれているのだと思います。
パウロはコリントの信徒への手紙第一の12章で、
教会の人々にこのように語りかけました。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(Ⅰコリント12:27)
教会が「キリストの体」であることを、
パウロはこの箇所で丁寧に語っています。
手には手の役割があり、足には足の役割があります。
そのため、足に手の役割を求めることなど出来ませんし、
手が耳のように、耳が口のように動くことなど、当然できません。
体の各部分には、与えられた役割があり、
それゆえに出来ることもあれば、出来ないこともあるのです。
体はひとつの体として機能することに、大きな意味があるのですから。
それぞれの部分がもつ弱さや欠点に見えることを、
攻撃し、傷つけるのは、おかしなことです。
いや、からだのある部分が、他の部分を傷付け、攻撃するなら、
同時に、他の部分も傷つきますし、自分自身も痛みを覚えるのです。
ですから、体の各部分は、お互いに弱さを受け入れ、
お互いに助け合い、補い合うのです。
パウロによれば、それは「キリストの体」である、
教会にもいえることなのです。
教会には様々な人々がいますし、
抱えている弱さや欠点も、皆それぞれ違います。
人によっては、それが大きく目立つこともあるでしょう。
でも、だからといって、排除し、攻撃し、
傷つけるようには、招かれていません。
相手の弱さを受け入れ、互いに受け入れ合う。
それが、キリストのからだである教会の姿であると、
パウロは私たちに語り掛けるのです。
目の前にいるキリストにある姉妹たちや、兄弟たちは、
攻撃の的ではなく、お互いの弱さを補い合う存在です。
だから、「キリストの体」である教会について語った12章の後に、
あの有名な「愛の讃歌」と呼ばれる言葉を、パウロは記したのです。
愛について語る中で、パウロは13章7節でこのように述べています。
(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(Ⅰコリント13:7)
キリストの体である教会の内に見られるべき愛とは、
すべてを忍び、信じ、望み、すべてに耐えるものなのだと、パウロは語ります。
たとえ、人の欠点や弱さ、過ちがあったとしても、
すぐさま裁きにかかるのではなく、忍びなさい。
神がその人の内に働きかけてくださることを信じ、
神の業を待ち望みなさい。
そのようにして、すべてに耐えるのが、キリスト者の愛なのだと、
パウロはコリントの人たちに、
いや、教会に集うすべての人々に語り掛けているのです。
私たちが、キリストの体として、このようにお互いに愛し合うならば、
教会はこの世界に神の愛を宣言する場所となります。
私たちが裁き合ってしまう現実は、神の愛によってでしか止まりません。
だから、主キリストにある神の愛を知った私たちは、
「人を裁く」という道を放棄するのです。
このような教会のあり方そのものが、
この世界に対する宣教となり、人々に対する伝道となります。
それが出来ていなければ、何をしても空しいのです。
パウロは言います。
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。(Ⅰコリント13:2)
だから、「神の愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)と。

【主イエスにある神の愛を追い求めよ】
ところで、イエス様は「人を裁くな」と命じた後、
続けてこのように語られました。
あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1) 
1節の後半に記されているこの言葉が、
受動態の形を取っていることに注目してみましょう。
ここにおいて、裁きを実際に実行するのは誰なのでしょうか。
私たちが裁いた誰かでしょうか。
それとも、その現場に居合わせた、他の誰かでしょうか。
確かに、そういった場合もあるでしょう。
しかし、イエス様が見つめるようにと促す現実は、そうではありません。
神が、あなたを裁く方なのだ、ということです。
イエス様は続けてこのように語ります。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(マタイ7:2) 
預言者イザヤが語ったように、
私たちの「主は我らを正しく裁かれる方」(イザヤ33:22)です。
この裁き主である神こそ、私たちの欠点をすべて知っておられます。
そのため、もしも裁き手である神が、この2節の言葉のように、
私たちに対する裁きを実行したなら、
私たちは神の裁きを耐えることなど出来ないでしょう。
しかし、驚くべきことに、私たちの欠点や弱さ、罪深さを知っている神は、
私たちを見つめるとき、いつも、私たちを非難しているわけではありません。
そうではなく、この罪深く、悩み多く、欠点だらけで、
過ちの多い、私たちの抱えるこの現実を悲しみながらも、
寛大な愛の心をもって、神は私たち一人ひとりを見ておられるのです。
その上、私たちに解決の道を、神が用意してくださいました。
神は、ご自分の独り子を十字架にかけることによって、
私たちに罪の赦しを与えてくださいました。
だから、自分の弱さ、欠点、過ち、罪、そういったすべてのものを、
私たちは十字架に架けられたイエス様のもとへ
持っていくことが許されています。
そこで、すべての罪や過ちは赦され、
私たちの抱える弱さや欠点は、取り扱われるのです。
この神の愛ゆえに、その出来事は確かに私たち一人一人のうちに起こります。
いや、それは、既にあなたのうちに起こっている出来事です。
神があなたを愛しているから、この出来事は起こりました。
その確固たる証しが、主イエスが十字架に架かったということです。
そうであるならば、この神の愛と赦しに基づいて、
私たちは生きるべきなのでしょう。
「人を裁くな」というイエス様の言葉を受け取って生きること。
それは自己保身のためでなく、神の愛と赦しに基づいて生きることです。
そして、それは同時に、私たちがかつて愛してやまなかった、
人を裁き、批判し、攻撃し、傷つけるという生き方を放棄することです。
神の愛のうちに、私たちにはそれが出来る者とされています。
それは、喜びであるけれども、それと同時に困難な道です。
愛せない現実と何度も何度も出会い、
人を裁いてしまう自分と何度も何度も出会うのですから。
しかし、この道を歩み続けることを選ぶ人は幸いです。
神の愛と憐れみが、ますます豊かに私たちのもとに注がれるのですから。
私たちが私たち自身のことを諦めることはありますが、
それでも、神は決して諦めません。
だから、神は、私たちに愛と憐れみを注ぎ、
私たちがキリストの愛に基づいて生きることが出来るように、
日々造り変えてくださるのです。
そして、お互いに傷つけ合うかもしれないけど、
それでも、お互いに赦し合い、愛し合える教会という交わりへと
神は私たちを招いてくださいました。
だから、この場所で、私たちは愛を知り、愛を携えて出ていくのです。
主キリストにある愛する皆さん、
主キリストにあって、私はきょう、あなたがたに命じます。
「人を裁くな」。
キリストにある「愛を追い求めなさい」。