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11月, 2016の投稿を表示しています

説教#143:「おめでとう、恵まれた方」

「おめでとう、恵まれた方」 聖書 ルカによる福音書 1:26-34、創世記 18:9-10 2016年 11月 27日 礼拝、小岩教会  【天使ガブリエルの挨拶】  ある日、神がガブリエルという名の天使を、ナザレという田舎の村にいる ひとりの女性のもとに遣わしたことから、きょうの物語は始まります。 マリアという名の女性のもとに天使ガブリエルは現れて、 このように言いました。  「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28) 「おめでとう」と訳されている言葉は、 「喜び」という意味をもつギリシア語が使われています。 ただ、この言葉はごく普通の挨拶の言葉で、 出会ったときにも、別れるときにも用いられるものでした。 そして、「主があなたと共におられる」という表現も、 当時のユダヤの人たちにとっては慣用的な挨拶です。 ですから、ギリシア語聖書を読むと、 天使ガブリエルはマリアに単に挨拶をしただけのようにも受け取れます。 しかし、突然、自分のもとに現れた天使が語り始めたこの言葉を、 マリアは単なる挨拶とは受け取ることが出来ませんでした。 まさにこれらの挨拶が本来持っていた意味として、 彼女はこれらの言葉を受け取ったのです。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28) 突然、神の使いから祝福の言葉を告げられたのですから、それは当然驚きます。 ですから、「マリアはこの言葉に戸惑い、考え込」んでしまいました。 「いったいこの挨拶は何のことか」(ルカ1:29)と。 【「おめでとう」とは決して言えない状況に立つマリア】  「なぜ神は天使を遣わして、自分に祝福の言葉を語るのだろうか」と、 マリアが考え込んでいると、天使ガブリエルは 神から預かったメッセージを彼女に告げました。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:31) 婚約期間中であるマリアは、ガブリエルの語ったこの言葉を聞いた後、 「わたしは男の人を知りません」(ルカ1:34)と答えました。 彼女はどう考えても子どもを身ごもるわけがないのです。 いや、それどころか、ガブリエルの語

説教#142:「人生の土台は何ですか?」

「人生の土台は何ですか?」 聖書 マタイによる福音書7:24-29、イザヤ書54:9-13 2016年 11月 20日 礼拝、小岩教会  【私たちの土台は簡単に崩れ去る】 「あなたの人生の土台は何でしょうか。 何を日々の喜びとし、生きる糧としているでしょうか。」 もしもこのように問い掛けられたならば、 改めて自分自身の土台が何なのかを確認することだと思います。 何を人生の土台としているかは、きっと人それぞれ違うと思います。 家族や友人たちから、毎日たくさんの支えや助けを受けながら、 私たちは日々の生活を送っています。 毎日生きていくのに必要な分のお金や食べ物も必要ですし、 少し余裕があれば、ちょっとくらい贅沢をする。 それは生活の中で味わえるひとつの喜びともいえるでしょう。 また、社会的な地位が与えられているから、  自分の役割を見出し、相応しく働くことが出来るのだと思います。 そんな今の自分たちの生活のあり方を見つめると、 自分という存在は様々なものに支えられていて、 自分を支える大切なものが土台となっていることに気付かされます。 そんな大切な土台の上に、私たちは毎日の生活を通じて、 知識や財産、人間関係など、様々なものを積み重ねているのです。 だからこそ、私たちが日々積み重ねてきたものが、 その土台から崩れ去っていくことは、 すべての人にとってあってはならないことですし、 何とかして避けなければいけないことと言えるでしょう。  しかしそれにも関わらず、私たちが積み上げてきたものが、 あまりにも脆く崩れ去り、 土台から根こそぎ奪い去られる出来事が時として起こります。 阪神・淡路大震災や、まだ記憶にも新しいであろう東日本大震災など、 自然の脅威は、私たちが当たり前に思っていた生活を、 簡単に押し流し、私たちの土台を揺り動かします。 また、2002年9月11日起こった、アメリカでの同時多発テロ以来、 世界はテロリズムの脅威に怯えています。  人間の悪に晒されるとき、 私たちがこれまで当然と考えていたことは、 あまりにも簡単にも揺り動かされ、土台は崩れ、 そして失われてしまうのだということを世界中の人々が痛感しました。

説教#141:「主の御名によってなすべきこと」

「主の御名によってなすべきこと」 聖書 マタイによる福音書 7:21-23、出エジプト記20:7 2016年 11月 13日 礼拝、小岩教会 【神の御心を行え】  「誰が天の国に入ることが出来るのだろうか」。 このような議論が私たちの間でなされるために、 イエス様はきょうの言葉を語ったわけではありません。  そうではなく、イエス様の言葉を聞いた私たち一人ひとりが、  私たちの天の父である、神の御心を行う者となるようにと願って、 イエス様はこのような厳しい言葉を語られたのです。  「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、 天の国に入るわけではない。  わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」 (マタイ7:21)と。 では、天の父である神の御心を行なうとは、どのようなことなのでしょうか。  それは、神の言葉を聞いて、その言葉に従って行動することです。 「山上の説教」と呼ばれている、マタイによる福音書の5−7章の この文脈で読むならば、イエス様が語った言葉のひとつひとつを 真剣に受け止めて、行動することだと言えるでしょう。 イエス様が語られる神の言葉を聞いて、感謝しているだけでは、 生きた信仰とは言えません。 新約聖書の時代、使徒ヤコブはこのような言葉を教会の人々に書き送りました。 行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17) イエス様の言葉を聞いて、それを行なうときにこそ、 信仰者は信仰者らしく生きることが出来ます。
ですから、イエス様は「わたしの天の父の御心を行う者だけが (天の御国に)入るのである」と言って、 イエス様が人々に語った一つ一つの言葉を思い起こし、 それらの言葉を真剣に受け止めて生きるようにと促されたのです。 この言葉をもう少し広く捉えるならば、「聖書に立ち帰り続けなさい」 というメッセージとして受け止めることが出来るでしょう。

説教#140:「良い実が豊かに結ばれる日」

「良い実が豊かに結ばれる日」 聖書 マタイによる福音書7:15-20、創世記5:1-5 2016年 11月 6日 礼拝、小岩教会 【偽預言者を警戒しなさい】 イエス様は人々に警告をすることから、きょうの言葉を語り始めています。 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ7:15) 旧約聖書の時代から、偽りの預言を語る人々は何度も現れています。 たとえば、預言者エレミヤの時代に現れた偽預言者たちは、平和がないのに、 「平和、平和」と語り(エレミヤ6:14)、人々を惑わしました。 イエス様はそのような人々が、これからあなた方の交わりの中にも 現れるだろうから注意するようにと促しておられるのです。 実際、イエス様が天に昇られた後、初期の教会の中では、 何度も偽預言者と呼ばれる人々が出てきたようです。 それを見据えていたため、イエス様は人々に警告したのでしょう。 「偽預言者を警戒しなさい」(マタイ7:15)と。 そのように人々を惑わす偽預言者たちの見分け方について、 イエス様は15-16節でこのように語りました。 彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(マタイ7:15-16) 偽預言者と呼ばれる人々は、外見や語る言葉から判断するなら、 同じ信仰をもち、神に養われる羊のひとりのように思えました。 しかし実際のところは、内面は神に背いている、 「貪欲な狼である」と、イエス様は指摘します。 でも、その外見は自分たちと同じように、 羊の皮を身にまとっている者であるため、 誰が偽預言者なのかを判断することは難しいことでした。