しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年11月6日日曜日

説教#140:「良い実が豊かに結ばれる日」

「良い実が豊かに結ばれる日」
聖書 マタイによる福音書7:15-20、創世記5:1-5
2016年 11月 6日 礼拝、小岩教会

【偽預言者を警戒しなさい】
イエス様は人々に警告をすることから、きょうの言葉を語り始めています。
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ7:15)
旧約聖書の時代から、偽りの預言を語る人々は何度も現れています。
たとえば、預言者エレミヤの時代に現れた偽預言者たちは、平和がないのに、
「平和、平和」と語り(エレミヤ6:14)、人々を惑わしました。
イエス様はそのような人々が、これからあなた方の交わりの中にも
現れるだろうから注意するようにと促しておられるのです。
実際、イエス様が天に昇られた後、初期の教会の中では、
何度も偽預言者と呼ばれる人々が出てきたようです。
それを見据えていたため、イエス様は人々に警告したのでしょう。
「偽預言者を警戒しなさい」(マタイ7:15)と。
そのように人々を惑わす偽預言者たちの見分け方について、
イエス様は15-16節でこのように語りました。
彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(マタイ7:15-16)
偽預言者と呼ばれる人々は、外見や語る言葉から判断するなら、
同じ信仰をもち、神に養われる羊のひとりのように思えました。
しかし実際のところは、内面は神に背いている、
「貪欲な狼である」と、イエス様は指摘します。
でも、その外見は自分たちと同じように、
羊の皮を身にまとっている者であるため、
誰が偽預言者なのかを判断することは難しいことでした。


【私たちが抱える偽預言者的な側面】
そのため、偽預言者を見分ける方法をイエス様は語りました。
あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(マタイ7:16)
「実」という言葉は、私たち人間の行動の結果として
結ばれるものとして、理解できます。
良い行いの結果として、人は良い実を結び、
悪い行いの結果として、悪い実を結ぶというように。
偽預言者たちが抱えていた大きな問題とは、
彼らが語っていたことと、彼らのその行いが一致していないことにありました。
彼らの語ることは信仰的で、
人々が良い実を結ぶために必要ななことだった一方で、
それを語る彼ら自身の行いは、イエス様の命令に背く、悪い実を結ぶものでした。
復讐するなと人々には語りながら、影でこそこそと復讐の計画を練り、
隣人を愛せ、敵を愛せと語りながら、
特定の人だけを偏って愛することをやめられずにいる。
そのように、言葉と行いの不一致、信仰と生活の不一致が
偽預言者と呼ばれる人には明らかに見られました。
でも、そのような考えで人を判断しようとするとき、
イエス様が語った言葉を改めて思い起こすことになり、難しさを覚えます。
イエス様は少し前の箇所で、このように語りました。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:2-3)
そう、何も言葉と行いとが一致しないのは、偽預言者たちだけではないのです。
私たちも言葉と行い、信仰と生活との間に、不一致を抱えながら生きています。
神を愛し、神に喜んで従う自分がいる一方で、神に従えない自分がいます。
ですから、私たち自身も、偽預言者と呼ばれる人々と同じ側面を持ち、
また彼らと同様に、悪い実を結んでしまう側面を持っていると言えるでしょう。

【人間は「神のかたち」と「アダムのかたち」をあわせ持つ】
ですから、きょうのイエス様の言葉を聞くとき、
私たち自身の抱える偽預言者的な側面に光が当てられるため、
ある種の危機感を覚えるかもしれません。
イエス様は17-19節でこのように語ります。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マタイ7:17-19)
19節の言葉を読むたびに、私は自分に問い掛けたくなります。
「自分は良き実を結んでいるのか。
それとも、悪い実を結んでしまっているのか」と。
でも、聖書は人間を「悪い存在」と「良い存在」というように、
完全に二つに分ける理解はしていません。
きょう一緒に開いた創世記5章に目を向けてみると、
それがはっきりとわかります。
創世記5章は、「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ」と語り、
神に最初に造られた人間アダムは、神に似た者であることを明らかにします。
しかし、その後アダムの子について、このように記されています。
アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名付けた。(創世記5:3)
私たち人間が神のかたちに造られた存在であるならば、
最初の人間であるアダムの子セトもまた、
「神のかたち」をもつ者として描かれるのが自然な流れだと思います。
しかし、ここで、アダムの子であるセトは、
「アダムにかたどった男の子」と記されています。
つまり、セトは、神に似ている部分と、
アダムに似ている部分の両方をあわせ持っているのです。
では、アダムに似ている部分とはどういうところでしょうか。
あの有名なエデンの園の物語において、
アダムは神の命令を破り、罪を犯してしまい、
そこから人間の罪人としての歴史が始まりました。
ですから、セトが「アダムにかたどった男の子」であるということは、
彼は、神に背いてしまう性質を持ち合わせていたということです。
つまり、この創世記5章の記述は、
アダム以降のすべての人間は、神のかたちをもっているという良い側面と、
神に背を向けて生きようとする悪い側面を
持ち合わせていることを主張しているのです。
イエス様によれば、一方は良い実を結ぶことで、
もう一方は、悪い実を結ぶことです。
悲しいことに、私たち人間は、良い実も、悪い実も、
どちらの実も結びながら生きている存在だと、
聖書はその初めの書物から明らかにしているのです。

【かしこ(天の国)より来たりて、主イエスはこの地を裁かれる】
このような理解の下で、
19節のイエス様の言葉にもう一度目を向けてみましょう。
良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。(マタイ7:19)
終わりの日の裁きのときにおいて、
私たちは皆、神の前に立たされ、そして裁かれます。
私たちは毎週の礼拝において、「使徒信条」によって信仰を告白し、
この出来事が確かに来ることを待ち望んでいます。
「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。」(「使徒信条」より)
「かしこより」、すなわち「神の国より」、イエス様が来て、
すべてのものを裁く日が来ることを告白する言葉です。
私たちはこの日のことを「終わりの日」と呼びます。
イエス様は、その日、「良い実を結ばない木はみな、
切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ7:19)と語られました。
その日、悪い実を結ぶ者や罪人たちは火に投げ込まれ、
良い実を結ぶ者は天の御国へと入れられるのでしょうか。
もしもそうであるならば、誰が火に投げ込まれないで済むのでしょうか。
私たちは、自分が悪い実を結んでしまうことを良く知っています。
だから、キリスト者として生きるとき、
私たちは自分の中にある悪い実を育てないように、必死に戦います。
でも、罪人である私たちは、悪い実を結んでしまうのです。
このように、良い実を結ぶと同時に、悪い実も結んでしまう私たちは、
その裁きの日を迎えたら、どちらの側に判断されるのだろうかと、
怯えながら暮らさなければならないのでしょうか。
もしもそうであるならば、苦しすぎます。
しかし、恐れることはありません。
イエス様は、私たちすべての人間の罪を赦し、
私たちの結んでしまう悪い実を取り除くために、
十字架にかけられたのですから。
この私たちに対する愛に満ちておられる方が、
終わりの日に、この地上のすべてのものを裁くために来られるのです。
だから私たちは希望をもって、終わりの日を待ち望むことができるのです。
その日、イエス様は、私たちを愛と憐れみに基づいて裁かれます。
その日は、私たちの良い実を結ばない部分や、
罪深く汚れた部分を、神が捨て去り、根絶やしにしてくださる日です。
そのとき、悪い実へといってしまっていた栄養が、良い実に集中します。
そうすることによって、私たちは終わりの日に、
良い実を豊かに結ぶことができるのです。
私たち一人一人が持ち合わせていた悪い実を結ぶ木は、
神によって切り倒され、捨て去られ、
私たちの内には良い実を結ぶ木だけが残るのです。
そのようにして残された木から、良い実を豊かな収穫する。
そんな喜びに溢れる日として、
私たちは終わりの日を待ち望むことができるのです。
そして、私たちの悪い実だけではなく、
この地上に溢れるすべての悪は裁かれ、取り除かれ、新しくされます。
このようにして、神の救いの業は完全に完成し、
すべてのものは神の国へと引き上げられるのです。
この世界のすべての生ける者と死んだ者とが、良い実を豊かに結ぶ日として、
イエス様が再び来られる日を待ち望むようにと私たちは招かれているのです。

【天の御国で豊かに結んだ良い実を分かち合う】
それでは、私たちは自分が結んだこの良い実を
どのように用いるべきなのでしょうか。
私たちが生きる中で結び続ける良い実は、
私たちがこの地上においてお互いに分かち合うためにあります。
そして将来、私たちが天の御国に迎えられるとき、
ますます豊かなものとされた自分の良い実を、
私たちは天の御国においてお互いに分かち合うのです。
ですから、私たちが結ぶ実は、自分一人で楽しむためのものでも、
今この場所にいる私たちだけで分かち合うものでもないのです。
将来、天の御国において、
私たちよりも先に、この地上での旅を終えた、
愛する人々と共にこの実を分かち合うことが許されているのです。
お互いに良い実を携えて、天の御国において、
私たちは愛する人々と再会するという希望が与えられているのです。
さて、きょうはこれから、礼拝の中で聖餐式を行ないます。
天の御国での食卓を希望をもって待ち望むことが出来るように、
イエス様が私たちのために整えてくださったものが、
このテーブルの上に置かれているパンと杯です。
やがて来る日、天の御国の食卓で、
私たちはすべての聖徒たちとともに、交わりをもつことが許されています。
そのとき、お互いに与えられた豊かな良い実を分かち合う日を待ち望みつつ、
主キリストが私たちに差し出してくださるパンと杯を受け取りましょう。
そして、天の御国に希望を抱き、
イエス様と共に、そして教会の交わりと共に、
天の御国を目指して日々歩んで行きましょう。