しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年11月13日日曜日

説教#141:「主の御名によってなすべきこと」

「主の御名によってなすべきこと」
聖書 マタイによる福音書 7:21-23、出エジプト記20:7
2016年 11月 13日 礼拝、小岩教会

【神の御心を行え】 
「誰が天の国に入ることが出来るのだろうか」。
このような議論が私たちの間でなされるために、
イエス様はきょうの言葉を語ったわけではありません。 
そうではなく、イエス様の言葉を聞いた私たち一人ひとりが、 
私たちの天の父である、神の御心を行う者となるようにと願って、
イエス様はこのような厳しい言葉を語られたのです。 
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。 
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」 (マタイ7:21)と。
では、天の父である神の御心を行なうとは、どのようなことなのでしょうか。 
それは、神の言葉を聞いて、その言葉に従って行動することです。
「山上の説教」と呼ばれている、マタイによる福音書の5−7章の
この文脈で読むならば、イエス様が語った言葉のひとつひとつを
真剣に受け止めて、行動することだと言えるでしょう。
イエス様が語られる神の言葉を聞いて、感謝しているだけでは、
生きた信仰とは言えません。
新約聖書の時代、使徒ヤコブはこのような言葉を教会の人々に書き送りました。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)
イエス様の言葉を聞いて、それを行なうときにこそ、
信仰者は信仰者らしく生きることが出来ます。
ですから、イエス様は「わたしの天の父の御心を行う者だけが
(天の御国に)入るのである」と言って、
イエス様が人々に語った一つ一つの言葉を思い起こし、
それらの言葉を真剣に受け止めて生きるようにと促されたのです。
この言葉をもう少し広く捉えるならば、「聖書に立ち帰り続けなさい」
というメッセージとして受け止めることが出来るでしょう。
【聖書と出会う「私」が神の御心を行なう者へと変えられていく】
ところで、神の言葉である聖書と出会う「私」とは、
どのような存在なのでしょうか。
私たち人間は、誰もが周囲から様々な影響を受けています。
自分が生きた時代の価値観や、経済状況、
育った国や地域、また家庭の文化や、教育などから、
長い時間を通して様々な影響を受け続け、
それらを自分の基準、揺るがない基盤とします。
やっかいなことに、時には、それらのものが自分の信仰と
分かちがたく結びついていることだってあります。 
そのため、このように様々なものから影響を受け続けてきた、
私たち自身が当たり前と思っている自分の基準や基盤こそが、
私たちひとりひとりにとって、正しいことであり、正義です。
ですから、私たちは自分が抱えている歪みや、
神に喜ばれない問題に、簡単には気づくことができません。
いや、自分の基準が誤っていて、
確固たる自分の土台が揺り動かされることを、
私たちは簡単に認めることができません。
だから、キリスト者として生きるようにと招かれている私たちは、
神の言葉である聖書に立ち帰り続ける必要があるのです。
神の言葉によって、神は、私たちの暗い部分に福音の光を照らし、
相応しく取り扱おうとされているのですから。
ヘブライ人への手紙の著者は、
神の言葉が持つそのような鋭い側面について、このように語っています。
……神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブライ4:12)
神の言葉の力は、まさに、外科手術のようなものです。
私たちの汚い部分、人には見せたくない醜い部分、
変わりたくない部分、変わろうと思ってさえもいなかった部分を、
神の言葉が貫き、神の福音によって新しく造り変えるのですから。
このようにして、神の言葉が語られることによって、
神の御心が私たち一人ひとりに真実な形で示されるのならば、
神が望み、神が喜ぶ姿へと私たちは変えられていきます。
また、私たち自身、神の言葉と神のなさる業に応答して、
ひたすらに変わっていかなければならないのだと思います。
私たちが、神の言葉と出会うというのは、そういうことなのです。
神の言葉との出会いの中で、罪に染まりきった私たちは打ち崩されます。
しかしそれと同時に、私たちは神の業によって、新しく造り変えられていき、
決して揺らぐことのない神の言葉に拠って立ち、
そして、神の御心を行なう者とされていくのです。

【神の言葉に聞き従うことの難しさ】
しかし、神の言葉を聞いて、実際に行動に移すことは、
時にはとても難しく、苦しいことだと思います。
行きたくない場所へ「行け」と神から命じられるかもしれませんし、
赦したくない相手を赦し、
愛したくない人を愛するようにも促されます。
このようなことを実際に行動に移していくことに、困難を伴うからこそ、
私たちは神の介入を求めて、「主よ」と神に語り掛け、
祈りながら、歩んで行くのだと思います。
でも、22−23節に目を移してみると、イエス様は、 
「主よ、主よ」と呼びかける人々のことを批判していることに気づきます。
イエス様は人々にこのように語りかけました。
かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』(マタイ7:22−23)
「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」という最後の言葉は、 
詩編6篇9節からの直接引用です。
そのため、イエス様はとても強い警告として、この言葉を語っています。
ここでイエス様は、「偽預言者」と呼ばれる人たちを意識して、
この言葉を語り、人々に警告を与えています。
「偽預言者」たちこそ、まさに神の御心を行わない人たちだったからです。 
でも、この箇所を読んでも、
彼らのことを批判する要素は特にないように思えます。
預言をすることも、悪霊を追い払うことも、奇跡を行うことも、
別段悪い行いというわけでも、
禁じられていた行為であったわけでもありません。
いや、それどころか、イエス様自身も行っていることでした。
それなのに、イエス様はなぜ彼らを強く批判したのでしょうか。
彼らの言葉を注意深く読んでみると、その問題が見えてきます。
22節に記されている、偽預言者たちの言葉にもう一度目を向けてみましょう。
彼らは、イエス様に向かってこのように言います。
『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』(マタイ7:22)
ここで、「御名によって」という言葉が3度も繰り返し用いられています。
主の御名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行なう。
何だか、とても信仰深い人のように見えてきます。
でも、山上の説教の言葉を思い返してみると、彼らの姿は、
6章の前半でイエス様が批判していた人々の姿と重なります。
自分が他人から立派な信仰者だと見てもらいたいがために、
人前で施しを行い、路地で祈り、目に見えて辛そうに断食をする。
神のため、隣人のためと口では言いながら、
本当のところは自分のことしか考えていない。
そのような人々の姿が、
ここで批判されている偽預言者と呼ばれる人々の姿と重なるのです。
彼らは、人の注目を集める信仰深い行為ばかりを誇りに思っています。
神のために行っていると言いながら、
彼らもまた、自分の行いを誇っていることに問題があったのです。
彼らは「主の御名によって」預言し、悪霊を追い出し、
奇跡を行なうことによって人々の注目を集めているのですから、
更に質が悪いと思います。
まるで、自分が行ったことを誇るように、「主よ、主よ」と祈り求め、
主の御名を用いて、行動している。 
それはまさに「主の名をみだりに唱え」(出エジ20:7)、
主の御名を自分のために用いている状態といえるでしょう。
だから、イエス様は偽予言者たちに強い警告を語ったのです。

【主イエスの焼き印を身に受けている】 
それでは、私たちは、どのように主の御名を用いるべきなのでしょうか。 
それについて考える前に、私たちにとって
主の御名とはどのようなものなのかを知る必要があります。
使徒パウロはガラテヤの教会に書き送った手紙の中で、 
自分自身と主イエスの関係についてこのように語っています。
「わたしは、イエスの焼き印を身に受けている。」(ガラテヤ6:17)
「焼き印」は、動物や奴隷に対して、主人の所有を証明するための印でした。
つまり、パウロはイエス様の所有するものであって、
彼にはイエス様の名が刻まれていました。
もちろん、実際にイエス様の名前がついた焼き印が押されていて、
身体に見える形でイエス様の名前が刻み込まれているわけではありません。
ここでパウロは、「焼き印」というイメージを用いて、
イエス様を信じ、彼に従って生きる者と、
イエス様との間に既にある、強い結びつきを語っているのです。
それは私たちの力で消すことのできるものでもありませんし、
時間が経てば消えるものでもありません。
確かにパウロの身体と心、そして魂に、主イエスの名が刻み込まれ、
生涯、主イエスの名を帯びて生きるようにと彼は招かれたのです。
それは決して他人事ではありません。
キリスト者とされている私たち一人ひとりも、
パウロと同じように、主イエスの焼き印を押されていて、
主イエスの名が刻まれているのです。
そうであるならば、口先だけで、「主の御名」を用いることなど出来ませんし、
また、口先だけで「主よ、主よ」と祈ることなど出来ません。
主の御名を刻まれている者にとっては、
考え、人々に語ることのすべても、その行いのすべても、
主の御名によってなされることなのです。
それは、私たちの生涯のすべてに主の御名が刻まれているということです。
ですから、私たちはその生命のすべてを用いて、
主の御名によって生きるようにと招かれているのです。

【主の御名によってなすべきこと】
それでは、主の御名を帯びて生きる私たちは、何をなすべきなのでしょうか。
偽預言者たちは、自分の信仰深さを誇るために、
預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行いました。
もちろん、それらひとつひとつは良いことです。
しかし、預言をして、人々に神の言葉を語り、 
それを解釈し、キリスト者らしい生き方をするように促すよりも、 
私たちは自分の語った言葉に相応しく行動すべきでしょう。
「愛しなさい」と語るよりも、実際に愛するべきです。
「赦せない」理由をあれこれ述べるよりも、
出て行って、赦しを求めるべきです。
他人が自分の理想通りに動くことに満足するよりも、
誰かが求める小さなことを助けるために、
私たち自身が動くべきなのでしょう。
誰かの至らないところや欠点を見るたびに、すぐに裁きたくなってしまいます。
受け入れられないことがあれば、すぐに拒絶してしまいたくなります。
でも、裁いたり、叱りつけるのではなく、
一緒に手を取り合い、助け合って生きるべきです。
それが、何よりも主の御名によって生きる、ということです。
悪霊を追放して、人々に自分の力を見せつけるよりも、
この世界の悪や私たち人間の苦しみが解決へと導かれるように、 
主の御名によって祈るべきです。
不平不満の声を上げている虐げられている人々や、
少数派の人々の声を聞いて、
共に生きていくために必要なことは何かを求めて、
私たちは神の前にとりなし祈るべきです。
それが、平和を求めるということです。
奇跡を行うことが出来たら、それは確かに驚くべきことですし、
神の行なう業に感謝すべきことです。
たしかに、それが主の御名によるならば、
信じる者も多く現れるかもしれません。
しかし、神によって与えられた力を人々に見せつけるよりも、
あなたの隣人を愛し、彼らに仕えなさい。
イエス様ならきっとそのように語るでしょう。
私たちが持ち合わせている能力、技術、財産、人との関係など、
様々な賜物を用いて、私たちは人に仕えることが出来ます。
そして、私たちの働きを神が用いて、
誰かが神に目を向けることが出来るようになる。
それこそが、主の御名によって私たちがなすべきことです。
神は私たち一人ひとりにいつも語りかけておられます。
ですから、私たちに語り掛ける神の言葉を真剣に聞いて、
主イエスに従い続けることを通して、私たちは、
主の御名を帯びて生きる者として、相応しい生き方を学び続けましょう。
私たちは、主イエスに従って歩む、キリストの弟子なのですから、
神の言葉を聞いて、神の言葉に従って生きることをやめてはいけません。
……神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。(ヘブライ4:12)
神の言葉が私たち一人ひとりを、そして私たちの教会を刺し通し、
日々少しずつ、しかし確実に、神の喜ばれる姿に変えてくださる。
そのことに期待しつつ、神が働かれるときに起こる現実を喜びながら、
神の言葉に耳を傾けようではありませんか。