しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年1月15日日曜日

説教#150:「驚きに満ちた旅」

「驚きに満ちた旅」
聖書 ルカによる福音書2:41-52、サムエル記 上 2:18-21
2017年 1月 15日 礼拝、小岩教会

【トラブルに溢れる日々】
事故やトラブルには、出来る限り遭いたくありません。
でも、私たちが生きる限り、
事故やトラブルに遭遇することは、どうしても避けられません。
どれだけ注意を払ったていたとしても、怪我はしますし、失敗もします。
私たちはたった一人で生きているのではなく、
様々な人と日々関わり合って、助け合いながら生きています。
だからこそ、人との関わりの中で起こるトラブルは、
よく耳にしますし、私たち自身も経験します。
大切な約束を忘れてしまったり、
何気ない一言で目の前にいる人を傷つけ、悲しませてしまったりすることで、
私たちはトラブルを引き起こしてしまいます。
時に口論になったり、
また時には、お互いに理解し合えずにすれ違い合ってしまったりします。
このようなトラブルに巻き込まれたり、事故を引き起こしてしまったとき、
私たちはそれらを何とか解決しなければと、焦り、心を奪われます。
ですから、そういった面倒事は
出来る限り避けたいというのが、正直なところです。
そんな誰も望んでいないようなトラブルが、 
イエス様の両親に訪れたことを、ルカはきょうの物語を通して報告しています。 

【過越祭に参加した12歳の主イエス】
それは、「過越祭」と呼ばれる、
ユダヤの人々にとって重要なお祭りが行われる時期のことでした。
過越祭とは、「ユダヤ人の先祖であるイスラエルの民が、
かつてエジプトで奴隷とされていたとき、神の救いの御手が伸ばされて、 
エジプトから救い出された」という出来事を記念するユダヤのお祭りです。
この時代のユダヤの人々は、年に1回、
この過越祭の時期にあわせて、エルサレムの都へと向かいました。 
イエス様の両親は信仰的な人たちだったので、
当然この家族も同じ村で暮らす人々と一緒に、 
過越祭に参加するためにエルサレムへと旅をしました。 
イエス様の家族が暮らしていたのは、
エルサレムから北に100kmほど離れた場所にある、ナザレという名の村です。 
ナザレからエルサレムへ実際に移動するとなると、3-4日ほどかかりましたが、
この旅は、ユダヤの人々にとって、
そしてイエス様の家族にとっても、嬉しい、喜びに溢れた旅でした。
このお祭りに参加することは、大きな喜びだったからです。
ところで、このときイエス様は12歳になっていました。 
ユダヤの社会では、13歳から成人として扱われます。
そのため、その1年前にあたるこの時期は、
「バル・ミツバー」と呼ばれるユダヤの成人式を迎えるための準備として、
「律法」つまり旧約聖書のことをたくさん教え込まれる大切な時期でした。
イエス様の両親のマリアとヨセフは、自分たちの大切な息子に、
この過越祭の大切さを知識としてだけでなく、 
経験としてもしっかりと受け止めて欲しいと期待して、
来年から大人として扱われることになるイエス様を連れて、
一緒にエルサレムへと旅立ったのです。
まさにこの旅は、彼らにとって大きな喜びであり、楽しみであったのです。
彼らは予定通りエルサレムに到着し、
エルサレムの神殿や町の中で、7日間かけて過越祭をお祝いしました。
そして、お祭りが終わると、
彼らはナザレの村から一緒にやってきた仲間たちと共に、 
キャラバンを組んで、自分の家のあるナザレの村へと戻ります。
今回のこの旅が、何の問題もなく、喜びのうちに終えようとしていると、
ヨセフとマリアは感じて、神への感謝の気持ちで溢れていたことでしょう。 

【迷子の主イエス】
しかし、物語はここで大きなトラブルの到来を告げます。 
1日分の道のりを歩き終えたので、家族で合流して休もうと思い、
ヨセフとマリアは、エルサレムからナザレへと向かう、
自分たちのキャラバンの中でイエス様を探し始めました。
子どもたちのグループの中に自分の子も一緒にいて、
彼らと共に移動していると、ヨセフもマリアは思い込んでいたのでしょう。
でも、どういうわけか、我が子の姿は何処にも見当たりませんでした。
いるべきところに、自分たちの子がいないことを知り、
親戚や知人にも聞きまわって探しますが、見当たりません。
このとき、事態の深刻さに彼らは気づきました。
「自分たちの愛する子が、何処にもいない」と。
急いで荷物をまとめて、彼らは来た道を戻る決心をします。 
「なぜ、自分の子が一緒にいるかをしっかりと確認してから、
エルサレムを出なかったのだろうか。
いや、来年成人を迎えるといえども、彼はまだ子どもなのだから、 
自分たちのそばに置いて、一緒に移動すべきだったのではないか。」
彼らは親としての欠けを感じ、自分自身を責め、涙を堪えながら、
来た道を必死に探し回りながら、エルサレムへと引き返したのだと思います。 
過越祭を祝う、喜びに満ちたその旅は、
このトラブルによって一転してしまいました。
エルサレムへと戻るその旅は、辛く、悲しい旅でした。

【両親が見た驚きの光景】
ルカによれば、マリアとヨセフがイエス様を見つけるまで、
3日もかかったそうです(ルカ2:46)。
彼らは、エルサレムの神殿の境内で、イエス様を見つけました。 
どうやらイエス様は、過越祭が終わっても移動をせずに、
ずっとエルサレムの神殿の中にいたようです。
でも、彼らがイエス様を見つけたとき、
そこには予想外の光景が広がっていました。
家族や親戚とはぐれたことにより、
自分の子に辛く悲しい思いをさせてしまったと、両親は思っていました。
両親を探してどれだけエルサレムの都の中を探し回っただろうか、と。
しかし、彼らの目には、まったく違う光景が飛び込んできました。
何と、イエス様は、律法の専門家たちと一緒に座り、
彼らの話を聞いたり、彼らに質問をしているではありませんか。
たしかに、来年成人する12歳の子の行動としては、自然な行動でした。
でも、親とはぐれた子どものする行動としては、おかしなものです。
そのため、ヨセフもマリアも、この光景を見て驚きました。
でも、驚いてばかりはいられません。
迷子になっていた自分の子を、ようやく見つけたのですから、
安心して、彼らはイエス様のもとへ駆け寄ります。
でも、我が子を見つけて安心したけども、 
親として言うべきことは、当然言わなければいけません。
ですから、もう二度とこのようなことが起こらないようにと願って、 
マリアは自分の子にこう言いました。

「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2:48) 

「心配かけてごめんなさい、お父さん、お母さん」。
ただそのような言葉が聞ければ良かったのです。
でも、マリアの言葉に対するイエス様の返事は、 
彼らの予想を遥かに越えていました。
イエス様はこう言いました。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)

イエス様の父親はヨセフですから、
「自分の父の家」とはイエス様にとって、
ナザレにあるヨセフの家を指すはずです。
でも、イエス様はこのとき、
「エルサレムの神殿」を「自分の父の家」と呼びました。
神の子であるイエス様にとって、神殿は父なる神の家だからです。
ルカは、このときのイエス様の言葉を聞いた両親の反応を、
このように記しました。

しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。 (ルカ2:50)

マリアとヨセフにとって、迷子の自分の子を探すのは当然のことです。
でも、イエス様は「どうしてわたしを捜したのですか」と言ってのけます。
この二人が、イエス様の言葉を理解できないのは、当然だと思います。

【「どうしてわたしを捜したのですか」】 
それにしても、このときのイエス様の言葉を、
私たちはどのように理解すれば良いのでしょうか。
ギリシア語聖書を開いて、もともとの言葉を確認してみると、
イエス様の言葉は、こんな風にも訳すことが出来ることがわかります。

どうしてわたしを捜したのですか。私の父の事柄のうちに、私がいるのは当然であることを、あなた方は知らなかったのですか。(ルカ2:49、私訳) 

日本語訳の聖書で「家」と訳されている単語は、
実は「家」とは素直に訳せるものではありません。
文脈上、「家」という訳は適切ではあると思いますが、
「事柄」という意味も含めて、イエス様はここで語っていると思います。
「私の父、すなわち神の事柄のうちに、私がいるのは当然である」と。
つまりイエス様は、「わたしは父なる神の事柄を行っている」
と言いたいのだと思います。
「神の御心を行うために、神の事柄のうちに、私はいる。
だから、私を探す必要はありません。
私は、神のために働く必要のあるところにいるのだから」
とイエス様は、この時にエルサレムの神殿で宣言されたのです。
この時のイエス様にとって、「父なる神の事柄」とは、
神殿で律法、すなわち神の言葉を学ぶことでした。
イエス様の人生の礎であり、イエス様の宣教の指針であった、
神の言葉を学ぶことこそ、イエス様がこの時に、
神の事柄として行うに相応しいことだったのです。
このような目的のために、神の計画が実行されるために、
イエス様の両親、ヨセフとマリアは「トラブル」に巻き込まれたといえます。
でも、彼らは単にトラブルに巻き込まれたわけではありませんでした。
そのトラブルは、最終的に驚きへと変えられました。
もちろん、マリアもヨセフもすべてをわかった上で驚いたのではありません。
わからないことだらけでした。
しかし、イエス様が神の事柄を実行したこのとき、
イエス様の周囲には驚きが起こったのです。

【驚きに満ちた旅への招き】 
私たちもヨセフやマリアと同じような旅に出ることがあります。 
それは、トラブルに巻き込まれて、喜びを奪われ、
辛い思いを抱え、焦りを覚えながらも、
解決や平和、そして安全を求めて歩む旅です。
またそれは、自分に降りかかる悪いことを受け止めるとき、 
自分の行いが悪かったからだと、必要以上に自分を責めながら歩む旅です。 
私たちは、この人生という名の旅の中で、
心あたたまる友情に出会うこともあれば、争いも経験します。
トラブルが起これば、解決策を求めて、探し回ります。
喜びの日もあれば、涙を流す日もあります。
嬉しい出会いも経験すれば、悲しい別れも経験します。
私たちの歩むこの旅が、どのようなものであったとしても、
イエス様は私たちにいつも語りかけてくださっています。

どうしてわたしを捜したのですか。私の父の事柄のうちに、私がいるのは当然であることを、あなた方は知らなかったのですか。(ルカ2:49、私訳) 

イエス様は、私たちにこのように語りかけてくださるだけでなく、
私たちのために、神の事柄を実行してくださいます。
マリアとヨセフのトラブルが驚きへと変えられたように、
私たちが日々抱える様々なトラブルに、イエス様は関わってくださいます。
いや、私たちの人生に、いつも、いつまでも関わり続け、
私たちと共に歩んでくださるのが、イエス・キリストという方です。
そして、神の子であるイエス様が、いつも私たちと共にいるということは、
私たちに対して神の救いの手がいつも伸ばされているということです。
神は私たちが悲しむところに、喜びを与えることの出来るお方です。
争いのあるところに、平和を生み出すことの出来るお方です。
そして、神は、死の先に復活の命があるという希望を、
イエス様によって示してくださいました。
神が私たちのために行う救いの業は、いつも驚きに溢れているのです。
その驚きを、私たちはこの旅の中で見ることがゆるされています。
たしかに、私たちの旅は、トラブルが絶えないものかもしれません。
でも、私たちが日々直面する様々な出来事の中で、
イエス様は私たちとともにいてくださり、
神は私たちに救いの手を伸ばし続けてくださっています。
神の救いの業が起こるとき、私たちは圧倒されることでしょう。
「こんなことにも、こんな場所にも、私たちの神は働いておられるのか!」
「まったく期待していなかった、いや諦めさえしていた、
こんなことにも神は関わってくださるのか!」
そして、「こんな私にも救いの手を伸ばしてくださるのか!」と。
私たちが招かれている旅とは、イエス様と共に歩み、
神の手によって引き起こされる「驚き」を見る旅なのです。
この旅は決して一人で、孤独のうちに歩む旅でも、
イエス様とだけ一緒に歩む旅でもありません。
神の救いの業を目の当たりにして、嬉しい気持ちを抱いているのに、
それを一緒に分かち合う人がいなかったら悲しすぎます。
この旅の途中で、私たちが経験する喜びには、更に喜びが増し加わるように、
そして悲しみは一緒に分かち合って励まし合えるように、
神は、共に旅をする人々を私たちに与えてくださいました。
それが、教会と呼ばれる信仰者の群れです。
あなたがたは、いつもこの教会の交わりに招かれ、
教会に集う愛する人々とこの旅を一緒に歩んで行くようにと招かれています。
ですから、神の引き起こされる驚きの業に、期待して、
天の御国へと向かうこの旅を共に歩んで行きましょう。
どうか、神があなたがたの踏み出すその一歩一歩を、
守り、導いてくださいますように。
さぁ、イエス様と共に生き、神によって引き起こされる
この驚きに満ちている旅へと、今週もまた出て行きましょう。