説教#154:「向こう岸に行きなさい」

「向こう岸に行きなさい」
聖書 マタイによる福音書 8:18-27、創世記 8:1-5
2017年 2月 12日 礼拝、小岩教会 

【「人生の海の嵐に」】 
先ほど一緒に歌った讃美歌「人生の海の嵐に」のように、 
私たちは、生きる上で経験する苦しみや困難を、 
「嵐」と表現することがあります。 
それは、日々の歩みの中で私たちが経験する出来事が、
自分では抵抗することが出来ないものと実感しているからです。
傘も全く役に立たないような、激しい嵐の中では、
風に吹かれ、雨に打たれるまま、その身を任せなければなりません。
「人生の嵐」と呼びたくなるような、そのような出来事が起こるとき、
私たちは嵐が吹き荒れる状況に流されるしか道がなく、
自分には為す術など何もないと思い知らされます。 
そのような中では、たとえ信仰をもって歩んでいたとしても、
「助けてください、主よ」と叫び、神に祈るのだけで精一杯です。
イエス様の弟子たちも、この時、
まさにそのような状況に立たされていました。
彼らは、ガリラヤ湖を舟で横切って、その向こう岸へと行くため、 
イエス様と一緒に舟に乗りました。
いざ舟を漕ぎ出し始めると、突然の激しい嵐に襲われ、
彼らの乗っていた舟は、波にのまれそうになりました。
ここで「嵐」と訳されているもともとの言葉は、
「地震」という意味を持っています。
そのため、波と共に、彼らの乗っていた舟が激しい地震のように揺れ、
高波が何度も何度も舟を襲い、舟が沈みそうになっている。
そんな様子が、この言葉からよく伝わってくるでしょう。
弟子たちは、このような激しい嵐の中、怯えながら、舟に乗っています。
そこに、安全な場所はなく、逃げることも出来ず、
彼らは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんでした。
そんな、人間の力では制御できない、抵抗することも不可能な力に 、
弟子たちは巻き込まれ、生命の危険に晒されたのです。

【神の御心とこの世の主張のぶつかり合い】
それにしても、そもそも何故、弟子たちは舟に乗り、
ガリラヤ湖の「向こう岸」を目指したのでしょうか。
それは、「向こう岸に行きなさい」とイエス様から命じられたからです。
そのため、激しい嵐に襲われたこのとき、弟子たちの心には当然、
イエス様に対する不満や疑問が生まれたと思います。
「向こう岸に行きなさい」というイエス様の言葉に従った結果、
彼らは激しい嵐に巻き込まれたのですから。
でも考えてみると、同じようなことが、
私たちの日常でも起こっているのではないでしょうか。
神から私たちに与えられた信仰は、
私たちに安全や豊かさを保証するものではなく、
寧ろ、この世の価値観や社会の常識とは真逆のことを、
時には求める性質を持っています。
使徒パウロは、ローマの教会に宛てて書いた手紙の中で、
キリストの弟子として生きようとする、
私たちに求められている、信仰者の姿勢をこのように述べています。

あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。(ローマ12:2)

「あなたがたは、この世界の常識や価値観に合わせて生きるべきではない」
と言って、パウロは、ローマの教会の人々を説得しています。
私たちが合わせるべきなのは、
この世界の常識や価値観、家の伝統や慣習ではなく、
「神の御心」であると、パウロは確信をもって語っています。
そうであるならば、価値観や常識といった、この世界の主張と、
「神の御心」とが激しくぶつかり合うことから引き起こされる、
嵐の中を私たちは旅をしているといえるでしょう。

【信仰者は、嵐の中を旅する】
イエス様に従って生きることに嵐が伴うことは、
イエス様が語られた言葉からも明らかです。
弟子たちがイエス様と共に、舟に乗るその少し前に、
ある一人の律法学者が近づいて来て、「あなたがおいでになる所なら、
どこへでも従って参ります」(マタイ8:19)と言ったとき、
イエス様はこう言われました。

狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。(マタイ8:20)

また、弟子の一人が「主よ、
まず、父を葬りに行かせてください」(マタイ8:21)と願い出たとき、
イエス様は彼に答えて、こう言いました。

わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。(マタイ8:22)

イエス様はここで、住む場所を失うことになるかもしれないという困難と、
亡くなった自分の父親の葬りのために、
十分に時間を割かないという非常識を語っています。
一体どのようなことを意味して、
イエス様はこのようなことを語ったのでしょうか。
ご自分に従って生きることが、一体何を意味するのかを、
イエス様は、明確に示されたのだと思います。
イエス様に従うことは、社会の非常識であり、
周囲の人々の価値観とは正反対のことを選ぶことになるため、
周囲の人々から後ろ指をさされるような苦しみが付き纏うかもしれません。
「それが、キリストの弟子の姿なのだ」と、
イエス様は語っているかのようです。
そのような状況に囲まれるならば、
イエス様に従って生きることは、まさに嵐の中を歩むことといえます。

【神が私たちを導きたい場所がある】 
でも、だからといって、勘違いをしてはいけません。
私たちを激しい嵐の中に巻き込み、私たちを苦しめることが、
神の目的というわけでは決してありません。
イエス様が私たちに「向こう岸に行きなさい」と命じるときには、
そこには、いつも神の計画があります。
そして、イエス様が、私たちを導きたい場所があります。
だから、「向こう岸に行きなさい」とイエス様は言われたのです。
それでは、神が、私たちを導きたい場所とは、一体何処なのでしょうか。
弟子たちにとって、それは「宣教の地」でした。
この嵐の先に待っていた、ガリラヤ湖の向こう岸は、ガダラ人の住む地方でした。
そこには、悪霊に取りつかれた、二人の人がいたそうです。
たった二人の人と出会い、彼らを癒やすために、
イエス様は嵐を越えて、弟子たちと共に向こう岸を目指して行かれたのです。
また、旧約聖書の時代、エジプトでの奴隷状態から解放された、
イスラエルの民にとって、神が導きたい場所とは、
「カナン」と呼ばれる地でした。
しかし、イスラエルの民は、エジプトから解放されて、
すぐに約束の地であるカナンの地に辿り着いたわけではありません。
彼らは、40年もの間、荒れ野を彷徨い続けました。
その当時のイスラエルの民にとって、
この荒れ野での経験は、まさに「嵐」でした。
水も食料も、満足には手に入らない。
そして、この旅がいつまで続くかさえもわからなかったのですから。
しかし、神には目的がありました。
エジプトを解放されたばかりのイスラエルの民の、
生活や価値基準、物の考え方は、「エジプトの奴隷」のままでした。
だからこそ、イスラエルの民を
「エジプトの奴隷」から「神の民」に変えるために、
神は、彼らに荒れ野で過ごす40年もの時間を与えたのです。
それによって、イスラエルの民の存在が、
「神の民」と呼ばれるに相応しく整えられました。
神が、私たちに引き起こす「嵐」や「試練」にも、同じような意味があります。
私たちに目指して欲しい姿があるから、
「神の民」と呼ばれるのに、相応しい者となって欲しいから、
だから、神は「向こう岸に行きなさい」と言って、
時に、私たちが嵐の中を歩んで行くことを許されるのです。
そして、神が、あなた方を招きたい場所があるから、
出会って欲しい人がいるから、
取り組んで欲しい仕事があるから、
神はきょうも私たちに「向こう岸に行きなさい」と語られるのです。

【嵐の中で眠る主イエス】
しかし、このように、私たちを襲う嵐に意味があり、
そこに神の計画があるのだと受け止めることが出来たとしても、 
もう一つ、別の不満が弟子たちを襲ったと思います。
それは、嵐の中で、イエス様が眠っているということです。
自分たちが嵐で戸惑い、溺れてしまいそうになり、
生命の危険を感じるているそのときに、
イエス様は何事もないかのように眠っているのです。
弟子たちにとって、そばで眠っているイエス様は、
自分たちの苦しみや困難、そして生命の危機に対して、
まるで無関心であるかのように感じたことでしょう。
私たちも同じように、神が私たちに対して、
あまりにも無関心であるかのように錯覚してしまうことがあります。
苦しみや困難を経験し、嵐の中にいる今、この時に、
なぜ神は手を差し伸べて助けてくれないのだろうか。
そのように、神に対して疑いの心が沸き起こることがあります。
だからこそ、私たちは弟子たちと同じように、
神に向かって何度も、何度も叫ぶのです。
「主よ、助けてください。おぼれそうです」と。
しかし、イエス様は弟子たちのことになど関心がないから、
眠っていたわけではありません。
イエス様を遣わした、父なる神は、この世界を造り、
この世界のすべてを治めておられる方です。
また、ノアの時代、神は、箱舟に乗っている人々を心に留め、
洪水を終わらせ、世界を覆っていた水を減らしてくださいました。
そのため、イエス様は確信していました。
ガリラヤ湖で嵐に巻き込まれている、この舟に乗る自分たちを、
神は心に留めてくださっている、と。
だから、イエス様はこの激しい嵐の中でも、
安心して眠ることが出来たのです。
その上、イエス様は、神から与えられた権威によって、
この嵐を治めることの出来る力を持っていました。
そのため、私たちが目を向けるべきなのは、
この世界を治めておられる方が、弟子たちを心に留めておられたこと。
そして、嵐を治めることの出来る方が、
弟子たちと同じ舟に乗っていたということです。
同じように、神は私たちのことをしっかりと心に留めておられますし、
イエス様は今、私たちとも一緒にいてくださっています。
だから私たちは、信頼して、神の業に希望を抱いて良いのです。
でも、わかっていても、嵐には慌てふためいてしまいます。
苦しみや困難の中で、神に信頼しきれず、叫びたくなります。
そんな私たちの姿をイエス様は見たとき、
私たちに対して失望するのではなく、優しい言葉をかけてくださいます。
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」と。
イエス様はこのとき、「信仰のない者よ」とは言いませんでした。
「信仰の薄い者よ」と呼びかけています。
嵐が起こるとき、恐れに支配されて、慌てふためき、
ただただ「助けてください」と祈ることしか出来ない。
そんな私たちのちっぽけな信仰でも受け入れてくださって、
「なぜ怖がるのか」と声をかけてくださるのです。
そして、私たちを取り巻く状況を叱りつけ、 嵐を止め、
風も波もない状態にしてくださるのです。
私たちに平和を与えるのは、いつも神ご自身なのです。
だから、私たちは足を踏み出して進んだその先に、
嵐があると、たとえわかっていたとしても、 
それでも、神に信頼して歩むことが出来るのです。
最終的には、神は平和を与えてくださると信じているからです。

【教会は、向こう岸へと漕ぎ出していく】
いつの時代の教会も、きょうの福音書の物語に登場し、
嵐にさらされている舟を「教会」の姿と受け止めてきました。
教会は、いつの時代も、激動の中を歩んで来たからです。
でも、そのような中で、私たちがいつも心に留めておくべきことは、
教会はいつも、希望をもって、歩むように招かれていることです。
私たちは、「嵐の中を歩みなさい」と招かれているのではありません。
イエス様が示してくださった、
「向こう岸」を目指して歩むようにと、招かれています。
教会にとって、それは、神が私たちに与えてくださると約束してくださった、 
希望に溢れる場所、天の御国です。
ですから、天の御国をしっかりと見つめて、
共に支え合いながら、歩んで行きましょう。 
嵐の中で教会は、向こう岸を目指して歩むことが出来ます。
嵐の中でも共にいてくださり、
私たちのために嵐をおさめることさえも出来る、神に信頼して、
希望を置くとき、私たちは嵐の中でも、
何とか立ち上がって、旅を続けることがができるのでしょう。
ですから、さぁ、「向こう岸に行きなさい」。
神が「行きなさい」と私たちに示される場所へ、今週も出て行きましょう。

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