説教#160:「この都を愛する神」

「この都を愛する神」 
聖書 ヨナ書 3:1-10、コリントの信徒への手紙 二 5:16-21
2017年 3月 26日 礼拝、小岩教会 

【神に愛される人とは?】 
私たちの教会で、毎月1回行っている
子ども向けの集会「小岩ワーシップタイム」で、 
今月は集まった子どもたちに、ひとつの質問をしてみました。 

「神さまに愛されるためには、どうすればよいでしょうか?」

4つの選択肢を用意して、子どもたちに
「これかな?」と思うものに手をあげて答えてもらいました。
私が用意した4つの選択肢は、このようなものでした。

①神さまに愛されるためには、何もしなくても良い。
 神さまはすべての人を愛している。
②神さまに愛されるためには、良いことをたくさんすれば良い。
 お手伝いをしたり、学校の宿題を忘れずにしたり、
 親や先生の言うことを聞く「良い子」を神さまは愛してくれる。
③神さまに愛されるためには、優秀な人になれば良い。
 良い子でいるなんて、当たり前。
 優秀にならなきゃ、神さまからは愛されない。
 優秀な人だけを神さまは愛してる。
④神さまに愛されるためには、悪いことをすれば良い。
 神さまは寧ろ、悪い子を愛している。

このような4つの選択肢をあげて、
その日集まった子どもたちに「神さまに愛されるためには、
どうすればよいか」と尋ねてみたところ、
ふたつめの選択肢で手をあげた子どもたちが、とても多くいました。
その場にいた子どもたちの多くは、このように思ったのです。
「良い人間こそが、神に愛されるべきだ」と。
……本当にそうなのでしょうか?
私たちの神は、自分好みの人間だけを偏って愛する方なのでしょうか?
そのようなことは、絶対にありません。
私たち人間は皆、神に愛されるために、神によって造られました。
その意味で、私たちが神に愛されるために出来ることは何もありません。
私たちは、既に、神に愛されている存在だからです。
しかし、それにも関わらず、私たちは、心の何処かで思ってしまうのです。 
「善い人間こそが、神に愛されるべきで、 
悪い人間は皆、神によって滅ぼされるべきだ」と。
私たちが心の何処かで思い、また時には願ってやまない、
このような考えに対して、「ヨナ書」に記されている物語は、
真っ向から反対意見を表明しています。 
「そうではない、すべての人が神に愛されているのだ」と。

【ニネベの滅びを願うヨナ】 
さきほど読んで頂いた、ヨナ書3章に記されている物語は、
これを読む多くの人々に大きな驚きを与えてきました。 
そこには、驚くべき事件が記されています。
ヨナが神の命令に従って、ニネベの町へ行き、その町に住む人々に向かって、
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)と呼びかけただけで、 
ニネベの町の人々が、身分の高い人も低い人も
神を信じ、悔い改めたというのです。
彼らは、断食を呼びかけ、粗布をまとい、
神の憐れみを求めてひたすら祈ったというのです。
現代に生きる私たちにとって、ニネベの町に起こったこの出来事は、
何よりも、神を信じて、悔い改めた人のその多さに驚いてしまいます。
どれほどの人数が神を信じたのかは記されていませんが、
ニネベの王から断食をするようにとの布告が出たことも考えると、
ニネベの町のほとんどの人が、神を信じ、 悔い改めたのでしょう。
しかし、古代の人々、特にイスラエルの人々にとって、
このとき悔い改めに導かれた人の多さではなく、
「あの」ニネベの人たちが悔い改めたということこそが、
まさに驚くべきことでした。
というのも、ニネベといえば「悪の象徴」だったからです。
ニネベという町は、アッシリア帝国の首都として知られていました。
アッシリア帝国といえば、イスラエルの人々にとっては、
敵の国であり、悪の象徴です。
預言者ナホムによれば、ニネベの町は「流血の町」でした。
ナホムはニネベの町に向かって、このように語りました。

災いだ、流血の町は。
町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち
人を餌食にすることをやめない。(ナホム3:1)

ナホムが告発するように、まさに悪の象徴ともいえるニネベで暮らす人々が、
このとき、ヨナの預言を通して、
神の前で悔い改めてしまったというのですから、それは驚きです。
しかし、この出来事を、ヨナはあまり喜べませんでした。
いや、そもそもニネベに行くこと自体、彼は乗り気ではありませんでした。 
思い出してみましょう。
神がヨナに語りかけたとき、はじめに、彼は神の前から逃げ出しました。 
そのため、彼は神の働きによって大嵐に巻き込まれ、
最終的には海に投げ込まれ、強引に呼び戻されることになったのです。
そして、再び「さあ、大いなる都ニネベに行って、
わたしがお前に語る言葉を告げよ」(ヨナ3:2)と、
神から命じられたとき、彼は神に従ってニネベへ行きました。
けれども、彼がこのとき、ニネベの人々に向かって語った言葉といえば、 
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)という言葉だけでした。
このヨナの言葉は、ヘブライ語では、たった5つの単語だけです。
本当は、神に遣わされた預言者として、
もっと語るべきことが他にもあったのではないでしょうか?
ヨナは、ニネベの町が「なぜ滅びるのか」について、何も述べていません。
「ニネベの都は滅びる」とは語りましたが、
「悔い改めなさい」と、ニネベの人たちに促すことはしていません。
ニネベの人々の心を、主なる神に向ける努力もしていませんし、
ヨナの口からは、神の名前さえ出てきません。
ヨナの語った言葉が、預言者としてどれほど異常であったかは、 
他の預言書に目を向けてみるとよくわかります。
なぜヨナは、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)とだけ、
ニネベの人たちに語ったのでしょうか。
きっと、ヨナはニネベの町が滅びてほしかったのだと思います。
彼らが、憎むべき敵であり、悪の象徴だからです。
だから、彼は最小限の言葉で、ニネベの滅びのみを語ったのです。
しかし、ヨナの思いとは裏腹に、ニネベの町に大回心が起こり、
ニネベの人々は、神を信じたのです。
この物語は、何て皮肉に溢れていることでしょうか。

【神はこの町を愛しておられる】 
さて、このヨナの物語に記されている出来事を通して、
私たちは考えを改めざるを得ないのは明らかです。
「神に愛されるためには、どうすれば良いのでしょうか?」
「神に愛されているのは誰なのでしょうか?」
神の言葉を聞いて、神に心から従い続ける、
誰の目から見ても善良な、良い人だけでしょうか?
いいえ、そうではありません。
ヨナの物語を通して、神は明らかにしているではありませんか。

神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。(ヨナ3:10)

神の前で心から悔い改めた、あのニネベの人たちを神は愛されたのです。
では、ということは、神は悔い改めた人だけを愛するということでしょうか?
いいえ、それも違います。
悔い改める前から、神はニネベの人々を愛する計画をしていました。
だから、預言者ヨナをニネベに何としてでも遣わそうとしたのです。
そうであるならば、神に愛されているのは、すべての人です。 
当時のイスラエルの人々にとって、悪の象徴であり、
また、諸悪の根源としか思えない、 
滅びて当然のこのニネベの都の人々を、神は愛されたのです。
ヨナ書を通して、著者は私たちに語り掛けているのです。
「この悪の象徴ともいえるニネベの人が神に愛されているならば、
神に愛されていない人など、この世界の何処にもいないだろう?」と。
ヨナ書の著者は、ニネベの町の人々が悔い改め、
神がこの町を滅ぼすことを思い直されたことを記すよりも先に、
3節で、ニネベの人々が神から愛されていることを示しています。
著者は、ニネベの町を紹介するときに、
「ニネベは非常に大きな都」と言っています。
もともとの言葉を確認してみると、「非常に」と訳されている言葉は、
直訳すると「神にとって」という意味だとわかります。
つまり、「ニネベは〈神にとって〉大きな都」なのです。 
イスラエルの人々にとっては、敵国であり、悪の象徴であり、
滅びて当然の町でしたが、
神にとっては、ニネベの人たちもまた、救いを必要とする、
「神にとって、大きな都」なのです。
だから、神はヨナを用いて、救いの手をニネベへと伸ばされたのです。
そして、感謝すべきことに、
神にとって、大きな都はニネベだけではありません。
この世界を造られ、この世界で生きるすべてのものを造られた主なる神は、
この世界のすべての町を、そこに生きるすべての人々を愛しておられます。 
私たちが暮らし、私たちの教会が建てられているこの「小岩」という町を、
この町で生きる人々を神は心から愛しておられます。
都心で暮らす人も、田舎町で暮らす人も、
路上で生活するしか手段がない人も、
一人で孤独を抱えて暮らす人も、神は愛しておられます。
この日本という国で生きる人も、他の国で生きる人も、
分け隔てなく、すべての人を神は愛しておられます。
たとえ、新聞やニュースで悪い報道ばかりされている人々や国であったとしても、 
神は彼らを心から愛しておられます。
それは、ニネベという大きな都と同じように、 
すべての人が、神にとって大きな大きな存在だからです。
神は、この町を、そしてすべての町を、この世界を、
そこで暮らす、すべての人々を愛しておられるのです。 

【私たちは「和解の使者」】
そのため神は、イエス様を信じ、イエス様に従う人たちに、
ある特別な任務を与えられました。
それは、「和解の使者」という任務です。
神に愛されているすべての人々が、
罪にまみれ、神に背き続ける歩みをし続ける現実を、
神は悲しんで見ておられます。
ですから、すべての人々が神に愛されていることを知り、
神に愛されている者らしく歩むことが出来るようにと願って、
神は、私たちキリスト者を「和解の使者」に任命されたのです。
このことについて、使徒パウロは、
コリントの教会に向けて書いた手紙の中でこのように語っています。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。 (Ⅱコリ5:17-19)

パウロによれば、神と私たち人間との間には、和解が必要です。
それは、私たちが神から愛されているにも関わらず、
神に喜ばれないことを行い、神を裏切り、
神に対しても、また周囲の人々に対しても、罪を犯し続けているからです。
私たちすべての人間が抱える、この罪の問題を解決するために、
イエス様は十字架にかけられ、血を流されました。
イエス様によって罪の赦しを与えれたことによって、
私たちは神との間に和解を得たのです。
この事実を喜び、神と共に生きる人々が、キリスト者と呼ばれる人々です。
そして、パウロによれば、私たちキリスト者は、
神の和解の福音を委ねられ、神の国から送り出されている使者なのです。 
イエス様によって神との間に和解を与えられたこの喜びを、
送り出された場所、送り出された人たちに伝えるように招かれているのです。
それでは、神は私たちを一体どこに送り出しておられるのでしょうか。 
それは、神が愛しておられるすべての場所、すべての人々のもとに、です。 
神は、あなたがたが行く全ての場所を愛しておられます。
あなたがたが出会うすべての人を愛しておられます。
ですから、どうか、神の和解の言葉を携えて出て行ってください。
主キリストにあって、私はきょう、あなたがたにお願いします。
神があなたがたを赦し、愛してくださったように、 
あなたがたも人を赦し、愛することができますように。 
あなたがたを通して、神の愛と恵みが広がっていきますように。 
それが、神から私たちに委ねられている務めなのですから。 
神はあなたがたの働きを通しても、
この世界に対して愛の手を伸ばしておられます。
ですから、さぁ、行きなさい。
神の和解の使者として、神が愛する町へと出て行きなさい。

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