しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年4月2日日曜日

説教#161:「神はあなたに問いかける」

「神はあなたに問いかける」
聖書 ヨナ書 4:1-11、ヘブライ人への手紙 3:7-11
2017年 4月 2日 礼拝、小岩教会

【ヨナの「不満」】 
「こんなこと初めから望んでいなかったし、信じたくもなかった」。 
ヨナ書に記されている、この一連の出来事を通して、
ヨナはきっとこのような不満を抱き続けていたと思います。 
そして、4章になって、ついに彼の不満が怒りとなって爆発したのです。 
一体なぜヨナは、急に怒りを露わにしたのでしょうか。 
それは、3章で描かれている、ニネベの町で起こった出来事が関係しています。 
このとき、悪の象徴として知られていたニネベの町の人々が、
ヨナの言葉を聞いたとき、神の前に悔い改め、悪の道を離れました。
そして、そんなニネベの人々を見た神が、
ニネベの町を滅ぼすことを思い直したため、ニネベは滅びを免れたのです。
この出来事こそ、ヨナの怒りを引き起こした原因です。 
ヨナにとって、悪の象徴であるニネベの町に住む人々は、
彼らがたとえその悪の道から離れたとしても、
神によって滅ぼされるべき人々でした。
彼らが神の憐れみの対象になることなど、あり得ないのです。
そのように考えていたため、ヨナは最初に「ニネベの都へ行きなさい」
という神の命令を聞いたとき、神に背き、
ニネベに背を向けて、タルシシュへ向かいました。
「自分が預言者として、神によってニネベへ遣わされたら、
ニネベの人々が悔い改めて、神を信じてしまうかもしれない。
そのようなことが、万が一でも、あってはいけない。
悪の象徴である彼らは、滅びるべきだ」とヨナは考え、神に抵抗したのです。
しかし、最終的に神によってニネベへ遣わされたヨナの目の前に広がった光景は、
ニネベの人々の悔い改めと、彼らに示された神の憐れみでした。
だから、ヨナは怒りを覚え、神に訴えたのです。

「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。」(ヨナ4:2)

【ニネベの「悪」とヨナの「不満」】
ヨナ書の著者は1節で、このときのヨナの様子を、
「このことは大いに不満で」あったと記しています。
ここで「不満」と訳されているもともとの言葉は、
ヘブライ語で「ラーアー」といいます。
「ラーアー」は「悪」を意味する言葉です。
つまり、悪(ラーアー)の道を歩んでいたが、神の前に悔い改め、
神を信じたニネベの人々を憐れみ、彼らを滅ぼさなかった神の行いが、
ヨナの目に悪(ラーアー)に映ったため、
彼は不満(ラーアー)を感じたのです。
ヨナにとって、神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、 
慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」(ヨナ4:2)です。
「ニネベに住む人々にとっても、神はそのような方なのではないか?」
と私たちは感じますが、ヨナはそのようには考えていませんでした。
ヨナはこう考えました。
自分たちイスラエル人に対してのみ、
神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、 慈しみに富み、
災いをくだそうとしても思い直される方」(ヨナ4:2)である、と。
そのため、悪の象徴であるニネベの人たちに対して、
神がそのような方である必要などないし、
そうであってほしくもない、というのがヨナの本音なのです。
しかし、ヨナの思いとは違い、
神はニネベの人々に対しても、憐れみを示す方でした。
これこそが、ヨナが不満を抱き、怒った原因です。
ヨナは、憐れみ深い神の行いを見たとき、理解できず、苦しみました。
そして、神がニネベの人々を滅ぼさず、憐れまれたという、
この神の行いこそが、彼にとって「悪」(ラーアー)であると映ったのです。

【ヨナ書における「悪(ラーアー)」】
でも、それは、ヨナの全くの思い違いです。
神は、すべての人々を愛し、すべての人々を憐れんでおられるお方です。
しかし、ヨナはそれを理解できませんでした。
受け入れられないから、ヨナは「ラーアー」を抱いたのです。
不満や怒りで、心が溢れてしまったのです。
その意味で、この物語において、「悪」がニネベの人々だけの問題ではなく、
ヨナ自身の問題にもなっていることに気付かされます。
「悪」と通常訳される、ラーアーという言葉に注目してみると、
ヨナ書全体を通して、そのことは明らかです。
1章で、神がヨナに向かって、
「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」(ヨナ1:2)
と命じた際、神は「彼らの悪はわたしの前に届いている」と続けて言いました。 
ヨナ書の冒頭において、神がニネベの悪(ラーアー)を認識したのです。
しかし、ニネベの人々を愛さないヨナは、
ニネベへ行くことを拒否して、神の命令に背きます。
そして、逃げた先で、彼は船に乗って海を渡るときに嵐にあうのです。
このとき、ヨナと同じ船に乗り合わせていた人々は、
この嵐を「ラーアー」=「災い」と表現しました。
ヨナが人々に襲いかかるラーアー「悪」の原因となっているのです。
そして、3章において、ヨナがニネベの人々に 
「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ3:4)と語ると、 
ニネベの人々は自分たちの悪(ラーアー)を認識し、
その悪(ラーアー)の道を離れました。
その様子を見たヨナが、「不満」(ラーアー)を抱えるのです。
しかし、ニネベの人々が神の前で悔い改め、滅びを免れることは、
本来、喜ぶべきことでした。
神など知らないと言って、悪の道を歩む人々が、
悪の道を離れ、神を信じたというのですから、それは驚くべきことです。
しかし、ヨナは不満を抱え、怒り出す。
信仰者としてというよりも、ニネベの人々を愛せない一人の人間として、
神の前に抗議しているのです。
そして、仕舞いには、「生きているよりも死ぬ方がましです」(ヨナ4:3)
と言い出す始末です。 
ヨナは神に背を向けて逃げ出したとき、最終的に海に放り込まれ、
死に直面しましたが、神に助けられました。
その感謝も忘れ、神に向かって不満を述べ、
「死ぬほうがましだ」とまで言っているのです。
正直、手がつけられません。
ラーアーは、悪は、一体誰の側にあるのでしょうか?

【とうごまの木をめぐって】
さて、このように不満を感じ、怒りを覚えるヨナに、
神はこのように語りかけられました。

「お前は怒るが、それは正しいことか。」(ヨナ4:4)

神はこのとき、ヨナの誤りをすぐに指摘することは出来たと思います。
しかし、そうするのではなく、神はヨナに問い掛けました。
「それは正しいことなのか」と。
ヨナが述べているように、神はまさに「忍耐深い」方です。 
何度背を向けられても、自分の思いを理解してもらえなくても、
忍耐をもって、神はヨナに関わり続けておられるのです。
そんな神の思いになど、ヨナは気にもとめず、
この問いかけに対して彼は黙り込みます。
そして、彼は恐らく、ふてくされて、ニネベの都を出て行き、
都の外からその町の行く末を見守ろることにしました。
「きっと今に、ニネベの町は悪の道に戻る。
そうなれば、神はこの都を滅ぼすに違いない」と、
期待をして、ヨナは外からニネベを見ていたのでしょう。
この時、ヨナは太陽の日差しを避けるために、仮小屋をつくりました。
この仮小屋は、木々の枝と葉で一時的に造った簡単なものであったため、
ほとんど意味をなさず、ヨナは日差しの熱さに苦しんだようです。
6節によると、この苦痛から救うために、神はヨナのために
「とうごまの木」を生えさせ、彼に日陰を与えました。
ここで「苦痛」と訳されているもともとの言葉は、ラーアーです。
ヨナが抱いたラーアーを解決し、ヨナをラーアーから救い出すために、
神が動き出されたと読み取ることもできるでしょう。
このときのヨナにとって、日差しの熱さこそが「ラーアー」であったため、
神によって与えられた、この木は、ヨナにとって大きな喜びでした。
しかし、翌日の明け方に、神は虫に命じて、
このとうごまの木を食わせたため、木は枯れてしまいました。
とうごまの木を失ったヨナは、弱り果て、再び死を願います。
そして、そんなヨナを見て神は再び問い掛けました。

「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」(ヨナ4:9)

この問いかけに、「もちろんです。
怒りのあまり死にたいくらいです。」(ヨナ4:9)
と答えるヨナに対して、神はこのように語りかけました。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ書4:10-11)

神は、失われたとうごまの木を用いて、ヨナに優しく語り掛け、
ヨナに問い掛けられたのです。
「ヨナよ、とうごまの木を失い、それを惜しみ、
怒りさえ覚えるあなたの思いが正しいのならば、
ニネベに対するわたしの思いもまた、正しいものだろう?」と。
このようにして、神はニネベの人々を愛する思いをヨナに共有したのです。

【神は、きょうもあなたに問いかける】
しかし、そんな神の思いに触れたヨナの応答が記されず、
ヨナ書は、ヨナに対する神の問い掛けで終わってしまっているのは、
どういうことなのでしょうか。
ヨナ書がこのように、神の問いかけを最後に突然終わってしまうのは、
読者である私たちに問い掛けを残すためだと思います。
私たちは、すぐに答えを求めたくなります。
しかし、神は問い掛けを与え、
私たちに考えさせることを好んでいるかのように見えます。
一体何が正しいことで、何が善なのか。
何が神の御心で、何が神の喜びなのか、と(ローマ12:1-2参照)。
思考停止に陥らず、自分の考えだけに縛られず、
神の問いかけの前に立ち続けることを、
神は私たちに求められておられるのです。
確かに、聖書を開くとき、私たちはたくさんの疑問にぶつかります。
イエス様は「敵を愛しなさい」と言われたが、
実際問題、あの人をどのようにして愛したらよいのだろうか?
「この地上ではなく、天に富を積め」とも言われたが、
神にとって、何が天に宝を積むこととなのだろうか?
また、「地の塩、世の光」として生きるとは、
今の私にとって、どのような生き方をすることなのだろうか?
という具合に、疑問は尽きることがなく出てきます。
きっと、それが私たち一人ひとりに、
神が問いかけておられることなのだと思います。
感謝すべきことに、問いかけは多くの場合、対話を産み出します。
神の側から、先に私たちに語りかけ、問い掛けてくださっているのですから、
私たちはそれに応えれば良いのです。
そうやって、神との対話を続けて、
神と共に歩んで行くことを、私たちは許されているのですから、
時間をかけて、神と共に歩む中で答えを探っていけば良いのです。
私たち自身が答えを握りしめているのではなく、神が私たちの答えです。
その神と共に歩むことは、私たちにとって幸いなことです。
ですから、私たちは神からの問いかけに悩みながらも、
神と共に語り合い、教会の交わりの中で答えを求めて歩んで行くのです。
時間は掛かり、また悩みは多いのかもしれませんが、
思いもしない答えや驚きを与えられるのが、
神の問いかけを受け続け、神と共に歩むこの旅の特徴だと思います。
ですから、どうかきょうも、神が問い掛けている言葉に、
しっかりと耳を傾けて歩んで行こうではありませんか。