しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年4月23日日曜日

説教#164:「行って、学びなさい」

「行って、学びなさい」
聖書 マタイによる福音書 9:9-13、ホセア書 5:15-6:6
2017年 4月 23日 礼拝、小岩教会

【「罪人」と見なされていた徴税人たち】
イエス様の時代、ユダヤの国は、ローマ帝国の属州となっていて、
ローマ帝国の支配下にありました。
そのため、ユダヤの国の人々には、ローマ帝国へ納税の義務がありました。
土地税や営業税、関税など、これらの税金を、
ユダヤの国を担当する総督から委託されて、
ユダヤの人々から税金を集めた人々が、
きょうの物語で登場する「徴税人」と呼ばれる人たちです。
ユダヤの人々は、「徴税人たちは罪人である」と考えていました。
なぜなのでしょう。
それは、多くの徴税人たちが、必要以上に多くのお金を集めて、
そのお金を自分の懐に入れていたからです。
しかし、それ以上に、彼ら徴税人たちが罪人と呼ばれたのは、
ローマ帝国におさめる税金を、
仲間のユダヤ人たちから集める手伝いをしていたためでした。
その上、徴税人たちは、その仕事をするためには、
必ずローマの人々と交わりを持たなければなりません。
異教徒と交わりをもつことは、汚れをもたらすと見られていたため、
徴税人たちは、異教徒の仲間と見なされ、
人々から嫌われ、偏見の目で見られていたのです。

【主イエスに招かれる徴税人たち】
イエス様は、このような人々のもとに、自ら進んで歩み寄り、
罪人と呼ばれていた人々に対して、
「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。
そのうちの一人が、きょうの物語に登場した、マタイという人です。
彼もまた、徴税人として人々から憎まれ、
偏見の目で見られていたうちの一人でした。
そんな彼は、イエス様に呼びかけられ、
その後に、イエス様に特別に選ばれた
12人の使徒たちのうちの一人となるのです。
イエス様は、マタイを特別視したから、徴税人の中からマタイのみを選んで、
彼にのみ「わたしに従いなさい」と言われたわけではありません。
「わたしに従いなさい」と、イエス様から呼びかけを受けたのは、
福音書の中に名前の残っている人々だけではありません。
実に、人々から「罪人」と呼ばれる多くの人々が、
イエス様からの呼びかけを受け、イエス様に従ったのです。

【なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?】
さて、マタイがイエス様から招かれる物語の後に、
イエス様がたくさんの人々と一緒に食事の席についた話が記されています。
マタイは、このときの様子を、このように書いています。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。(マタイ9:10)

イエス様が座っていた食事の席には、
イエス様の弟子たちの他に、徴税人たちが座っていました。
そして、他にも、様々な理由から罪人と呼ばれた人々がそこにいたのです。
この光景を見た、ファリサイ派の人々は、
イエス様に対する批判を込めて、イエス様の弟子たちに尋ねました。

「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マタイ9:11)

当時のユダヤの人々にとって、人々から「先生」と呼ばれるような人が、
徴税人や罪人と呼ばれるような人たちと一緒に、
食事の席につくのはあり得ないこと、非常識でした。
というのは、誰かと一緒に食事をすることは、
その一緒に食事をした人の仲間だということを意味するからです。
誰も、罪人の仲間とは見られたくありません。
ですから、多くの人々は、そのようなことを
避けるように努力していたのでしょう。
特に、律法を守り、神の前で義人であろうと努めていた、
ファリサイ派の人々は、人一倍の努力をし、注意を払っていたと思います。

【神が招く喜びの道から、隣人を排除してしまう私たちの姿】
「しかし、あのイエスという男は違う。
寧ろ、自ら進んで、徴税人や罪人と呼ばれる人たちのもとに近寄って行き、
一緒に食事の席について、楽しんでいる」。
ファリサイ派の人々にとって、イエス様は全くの非常識でした。
もしも、神の前に正しくあろうとするならば、
神が与えた律法を守ろうとしない、徴税人や罪人とは、
出来る限り関わらない方が良いのです。
彼らから悪い影響を受けるといけませんから。
現代に生きる私たちの周りにも、それと似たような考えに基いて、
ささやかれる声が響いています。
「友だちは選びなさい」と。
確かにそれは、一見正しく思える主張のように感じます。
しかし、神が私たちに与えた律法は、
誰かを差別し、排除するためにあるのではありません。
第一に、律法は、自分と神との関係が正しい関係にないことを、
すなわち罪を教えられるためのものです。
そして、その上で、何が神が望む道であるかを知り、
神が招く喜びの道を指し示すために、律法は存在します。
神の招く喜びの道を教えるための、恵みの言葉が律法なのです。
しかし、そのような神の思いを正しく汲み取れず、
差別や排除が起こってしまうのは、私たちの側に問題があるからです。
自分の価値基準や、正しさの尺度に合わないものを受け入れられない。
たとえ、すべての人を神が愛していると、頭ではわかっていても、
時に批判の言葉を浴びせ、また時には差別し、排除してしまう。
また、無意識的に、神が招く喜びの道から
誰かを排除しようとしてしまうのです。

【「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」】
だから、イエス様はファリサイ派の人々に向かって、こう言われたのです。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

このとき、イエス様はホセア書の言葉を引用しました。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。
このように語られたとき、イエス様は、
誰が神に憐れみを受けている者なのかを示されました。
「医者が病に苦しんでいる人々のために存在するように、
私は、罪人のために来たのだ」とイエス様は言われたのです。
そう、「その罪人とは、あなた方に罪人と言われた人々である」と、
イエス様は、ファリサイ派の人々に向かって語るのです。
私たちの神は、憐れみに溢れているお方です。
ですから、すべての人間を愛し続けておられます。
神の民と呼ばれる人だけでなく、
正しい人だけでもなく、
「あいつは罪人だ」と後ろ指をさされる人も、
排除され、抑圧を受け、苦しんでいる人も、
すべて、神の憐れみの対象です。
そして、「あいつは罪人だ」と、徴税人たちを後ろ指さして、
批判し、排除するファリサイ派の人々もまた、
神から憐れみを受けている人々です。
ファリサイ派の人々は、神の前で正しくあることを
求め続けるあまり、罪人と呼ばれる人もまた、
神の憐れみを受けている人であることを忘れていました。
自らの正しさを振りかざす時、
愛が失われてしまうことは多くあります。
「正しさ」というものに守られているため、
目の前の人が傷つき、落胆することを、
簡単に無視することが出来てしまうのです。
そのため、正しさを振りかざしているだけでは、
神が憐れみ深い方であることを知ることは出来ません。
だから、イエス様は、人々が抱える病を癒やす医者として、
私たちのもとに来てくださったのです。
このファリサイ派の人々のような、
「正しさを求め続ける病」を抱える人々のために。
人を憐れむことができない、
自己中心的に物事を考え続けてしまう、身勝手な私たちのために。
まさに、イエス様は、病を抱える人や罪人のために、
そう、すべての人に憐れみを与えるために、来てくださったのです。
ですから、イエス様は言われるのです。
「神が求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。

【教会と呼ばれる、異質な集団】
しかし、イエス様が憐れみを示してくださったように、
憐れみ深く生きることが出来ないから、私たちにはイエス様が必要なのです。
私たちは、罪という名の病を抱えているから、
医者として関わり続けてくださる、イエス様が必要なのです。
そして、このような私たちの必要を十分によく知っておられるから、
イエス様は、私たちを招き続けておられるのです。
「わたしに従いなさい」と。
そして、イエス様は、ご自分に従うすべての者たちを、
食事の席に一緒につくように、いつも招いてくださっています。
イエス様が招く食事の席には、様々な人たちがいます。
言葉や文化、物の考え方や好みが違う人たちがいます。
肌や目、髪の毛の色、性別が違う人たちがいます。
中には、自分には受け入れられないと思ってしまう人たちだっています。
しかし、そのような人たちもまた、イエス様に招かれているのです。
どう考えても、一緒にいることが出来ない人たちが、
一緒にいることができる場所が、イエス様を中心にするとき、
この地上に存在することが出来るのです。
それは、不完全な姿かもしれませんが、
いつも神の前に喜ばれる姿を目指して、共に歩むように招かれている、
「教会」と呼ばれる、信仰者の群れです。
一緒にいることが難しいように思える人たちが、
一緒にいることができる。
互いに愛し合い、赦し合い、仕え合い、語り合うことができる。
神が憐れみ、神が愛し、神が赦し、神が受け入れた目の前の人を、
私たちは受け入れ、共に生きるように招かれているのです。
その意味で、教会とは、異質な集団です。
この世界の価値観に照らし合わせて考えるならば、
教会とは、神の民とは、この世界にある組織とは、
全く異なる、風変わりな集団なのです。
この世界の価値観に従うならば、
同じ考えの人たちで集まれば良いのです。
考え方が違うならば、排除されるし、
それが嫌なら、その前に出ていけば良いのです。
しかし、教会はそのような考え方とは、かけ離れた存在として、
神によって造られた共同体です。
というのも、イエス様が、すべての人々を、いつも招いておられるからです。
「わたしに従いなさい」と。
そこには、何の条件もありません。
ただ、私たちを招く、神の側にのみ理由があるのです。
だから、イエス様に従う人々の群れは、異質で、風変わりな集まりなのです。

【行って、学びなさい】
しかし、意識的に、いや多くの場合は無意識的に、
私たちは、集団の中から誰かを排除してしまいたくなることがあります。
それは、残念なことに、私たちが、
この世界の原理に基いて生きてしまっているからです。
だから、イエス様は私たちに言われました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9:12-13)

「神が、この世界のすべての人々のことを、どれほど愛しておられるのか。
どのように憐れみの手を伸ばそうとしているのか。
正しさを振りかざし、批判ばかりするのではなく、
実際にこの場所から出て行って、学びなさい。
そして、ますますそこに神の業が働き、
神の愛が注がれるように、祈りなさい」と、
イエス様は、私たちに命じておられるのです。
「だから、まずはこの場所を出て行って、学びなさい。
そこで、すべての人々を、神が招いておられることを知りなさい」と。
そして、この食卓に帰って来るとき、私たちは改めて、
すべての人々がここに招かれていることを知り、喜びましょう。
けど、もしも誰かがいないことに気付くならば、
私たちは共に悲しみ、この食卓に多くの人々が帰ってくる手段を
探し求めて、神に祈りましょう。
さぁ、ここは主イエスが招かれている、喜びの食卓です。
ここに、この場所に、すべての人が、招かれていることを知るために、
神が「行きなさい」と言われる場所へと出て行きなさい。
そして、学びなさい。
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と、
神が私たち一人ひとりに語られている、この言葉の意味することを。