説教#165:「今は喜びの時」

「今は喜びの時」
聖書 マタイによる福音書 9:14-17、コヘレトの言葉 3:1-11
2017年 4月 30日 礼拝、小岩教会 

【何事にも神の定めた時がある】 
「コヘレトの言葉」に、「何事にも時がある」と記されているように、
私たちの人生には、様々な「時」があります。 
私たちは自分たちが経験する、様々な時を、
自分や誰かの努力や怠けた結果と受け取り、
また時には、「偶然」と片付けてしまいます。
しかし、私たちの目にはそのようなものとしか思えない、
「時」というものは、「神によって定められた時」であるのだと、 
「コヘレトの言葉」の著者は理解していました。 
というのは、私たちの神は、歴史を支配しておられる方だからです。 
イエス様の時代のユダヤの人々も、
「コヘレトの言葉」の著者と同じように考えていました。
自分たちは、「神の時の中を生きている」と。
もちろん、私たちの人生は、喜びも苦しみも、また笑いも涙も、
すべてが入り混じっているため、
「昨日は喜びの時でしたが、今は悲しみの時です」
というように、一言で表現することは出来ません。
喜びを覚えながらも、どこかで悲しみ、
笑いながらも、心の何処かで苦しみを抱えていることがあるのです。
その意味で、神が私たちに定める時というものは、
常に喜びというわけではありません。
しかし、歴史を支配する神が、
私たちの時を定め、私たちの人生に計画を持っておられるのです。
ですから、私たちが喜びあふれる時だけでなく、
失望する時も、涙をながす時も、
争いに巻き込まれる時も、痛みを抱える時も、
いつも神の計画の中で、私たちは取り扱われ続けているのです。

【今は嘆きの時】
それでは、イエス様の時代のユダヤの人々は、神の民である自分たちが、
今どのような「時」に置かれていると考えたのでしょうか。
イエス様の生きた時代、ユダヤの国で過ごしていた人々は、 
この時代を喜びや笑い、踊りや平和の時とは考えることは、出来ませんでした。 
かつて自分たちの先祖が経験した、「捕囚」が、
未だに続いていると彼らは感じていたからです。
およそ600年ほど前に、彼らの先祖であるイスラエルの民は、
バビロニア帝国の攻撃にあい、エルサレムの神殿や町を破壊され、
多くの人々は見知らぬ地に強制的に連れて行かれてしまいました。
しかし、この捕囚からおよそ50年後に、先祖たちは解放され、
自分たちの故郷に戻ってきました。
そして、何とか町や神殿を再建することが出来ました。
ですから、私たちの目には、既に捕囚は終わっているように思えます。
しかし、ユダヤの人々はそのように考えることは出来ませんでした。
ユダヤの国は、捕囚から解放された後、様々な国に支配されてきましたし、
今、イエス様が生きた時代においては、ローマ帝国の支配下にありました。
それは彼らにとって、自分の国にいながら、
奴隷状態であると言える状態でした。
かつて、ダビデやソロモンという名の王さまが治めていた時代のように、
栄光ある時代は、未だ訪れていないのです。
このような理解をしていたため、ユダヤの人々にとって、 
この時代は、泣く時であり、嘆く時であり、そして戦いの時でした。 
たとえ、今が、神が定められた時であると確信していたとしても、
「この時代は、笑う時、躍る時、平和の時である」など、
敬虔な信仰者であればあるほど、言えませんでした。

【なぜ断食をしないのか?】 
ところで、彼らユダヤ人にとって、嘆きや悲しみを表す方法は、断食でした。
ですから、敬虔なユダヤ人であるファリサイ派や、 
バプテスマのヨハネの弟子たちも、断食を定期的に、
恐らく週2回は、行っていたそうです。
しかし、最近、この地域で話題の「イエス」という男の弟子たちは、 
どうやら断食を重視していないようでした。 
彼らにとって、イエス様の弟子たちの行動は、大きな疑問でした。 
ですから、イエス様の弟子たちのこのような態度について尋ねるため、 
ヨハネの弟子たちは、イエス様のもとにやって来たのです。 

わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか(マタイ9:14)

この言葉には、疑問と共に、
イエス様の弟子たちに対する批判が込められていると思います。
「私たち神を信じる者たちが、苦しんでいる今、 
神の前で断食を行なうのは当然のことでしょう? 
それなのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか?」 
ヨハネの弟子たちにとって、
イエス様の弟子たちが断食をしない姿は、不信仰に映ったのです。 
ヨハネの弟子たちは、
イエス様がヨハネから洗礼を受けたことを知っていました。
そして、イエス様が洗礼を受けた後、荒れ野へ行き、
40日の間、断食をされたことも耳にしていたと思います。
このような立派な先生がいるにも関わらず、その弟子たちときたら……。
イエス様の弟子たちの姿に、半ば呆れ果てながら、
ヨハネの弟子たちはイエス様に尋ねたのです。

【婚礼の時は、喜びの時】 
このような批判が伴う、問い掛けに対して、
イエス様は、彼らに直接その理由を述べることをしないで、
婚礼について、話し始めました。

花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。(マタイ9:15)

確かに、悲しみや嘆きを表す、断食をすることは、 
婚礼の時に相応しくはありません。 
婚礼の時は、愛し合う二人が、神の前で結ばれる、喜びの時ですから、
断食よりは、踊りや歌声こそが相応しいものです。
それはよく理解出来ますが、
イエス様の弟子たちが断食をしない理由を問われたとき、 
なぜイエス様は、婚礼の話をしたのでしょうか。
それは、今は悲しみや嘆きの時ではなく、 
喜びの時であると、イエス様は確信していたからだと思います。
今この時は、婚礼の時と同じように、喜びに包まれている時である、と。
これは、当時のユダヤの人々が感じていたこととは、正反対のことです。
ユダヤの人々は、ローマの支配下にある今は、
捕囚が続いているのと同じであり、
嘆きと悲しみの時であると考えていたのです。
しかし、イエス様はそうではなく、
今のこの時代は喜びに包まれていると言うのです。
一体、なぜイエス様はこのように宣言されているのでしょうか。
それは、神の子であるイエス様が、
私たちのもとに来てくださったからです。
イエス様が、私たちのもとに来てくださったことによって、
神が私たちと共にいてくださることが明らかにされました。
苦しみの時も、痛みを抱える時も、死に直面する時も、
争う時も、涙を流す時も、どのような時にも、
神は私たちと共にいてくださるのです。
そして、イエス様は、宣教を始める際に、「天の国は近づいた」
つまり、「神の支配がこの地上に訪れた」と宣言されました。
天の国が近づいたため、すべては、神の支配の下にあります。
そのため、イエス様がこの地上に来てくださった、
この今の時代は、「喜びの時」なのです。
目の前に広がるのは、ローマの支配であり、
これから将来の望みも抱くことが難しいように思えるけれども、
それでも、神の支配は訪れていて、あなたがたの生涯を包み込むと、
イエス様は宣言されたのです。
だから、イエス様は、弟子たちが断食をしない理由について、
「婚礼の時」を例に挙げて、今は喜びの時であると、
ヨハネの弟子たちに伝えたのです。

【古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた!】
しかし、イエス様はこの時、不吉なことを語り始めました。

しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。(マタイ9:15)

明らかにイエス様は、「花婿」を自分のこととして語っています。
ということは、花婿であるイエス様が、
奪われる日がやがて訪れるというのです。
イエス様は、十字架の上での死を見据えて語っています。
ご自分が、これからどのような道をたどるのかを、
イエス様は予期した上で、ヨハネの弟子たちに語り掛けるのです。
人々に喜びを与えるために来たにも関わらず、
拒絶され、辱められ、笑いものにされ、
十字架の上で苦しみながら死んでいく。
花婿であるイエス様が、屈辱のうちに奪い去られる日が来るのです。
でも、イエス様が奪われた後、ずっと悲しみが続くわけでも、
断食の期間が永遠に続くわけでもありませんでした。
イエス様は、十字架の上で息を引き取ってから、3日目に、
死者の中からよみがえり、マグダラのマリアや女性たち、
そしてご自分の弟子たちの前に、再び現れました。
それによって、悲しみの時は、終わりを告げたのです。
そして、更なる喜びの時が訪れたことを、
復活を通して、イエス様は私たちに告げてくださったのです。
イエス様の復活を通して、弟子たちは、
イエス様が十字架の上で死なれた意味を知りました。
それは、すべての人々に、罪の赦しを与えるためのものであったと。
そして、イエス様の復活によって、
彼らは復活の希望を得たことを確信し、喜びました。
イエス様を通して、神の支配は私たちのもとに訪れていて、
それは心から喜ぶべきことだと確信したため、
イエス様の弟子たちは、人々にこの喜びを伝えに行ったのです。
まさにイエス様がぶどう酒とそれを入れる革袋の話しを通して告げたように、
イエス様によって、古いものは過ぎ去り、新しい時代が幕を開けたのです。
それは、使徒パウロが、コリントの教会に向けて語った通りです。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリ5:17)

【子羊の婚礼を待ち望む今は、喜びの時に包まれている】 
でも、だからといって、完全に、心から喜ぶことが出来る日々を、
涙や苦しみ、争いや憎しみといったものが全くない日々を、
私たちが過ごせているわけではありません。
天の国は、神の支配は、イエス様を通して、
私たちのもとに訪れはしましたが、
それは、イエス様と出会い、イエス様に従って生きる者たちを通して、
徐々に徐々に、この世界に広がっていくものなのです。
ですから、私たちは、天の国が完全な形で、
私たちのもとに来る日を、待ち望んでいるのです。
「御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)と祈りながら。
そして、その日は、必ず訪れます。
イエス様が再び私たちのもとに来てくださる日に、
天の国は、私たちのもとに完全な形で訪れるのです。
イエス様が再び私たちのもとに来る日。
「ヨハネの黙示録」の19章において、その日は、
「子羊の婚礼の日」として描かれています。
その日は、花婿であるイエス様と、
花嫁である教会が出会う、婚礼の日である、と。
ですから、教会はその日をいつの時代も待ち望み続けてきました。
「ヨハネの黙示録」によれば、
子羊の婚礼の日を迎える時、このような声が全世界に響き渡ります。

「ハレルヤ、
全能者であり、
わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、
神の栄光をたたえよう。
小羊の婚礼の日が来て、
花嫁は用意を整えた。
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
この麻の衣とは、
聖なる者たちの正しい行いである。」(黙示録19:6-8)

花婿であるキリストの花嫁である教会は、この婚礼の日に向かって、
少しずつ準備を整えていくようにと招かれています。
罪や弱さを抱える人間の集まりですから、
教会とはいつの時代も、傷や歪み、様々な痛みを抱えている集まりです。
しかし、それにも関わらず、神は私たちを受け入れてくださいます。
そして、この婚礼の日に向かって、その傷や歪み、様々な痛みを、
癒やし、神の前で相応しい姿へと整えてくださるのです。
自分たちの傷や欠点といったものを見つめるとき、
また、今経験している苦しみや争い、嘆きに目を向けるとき、
私たちは心が締め付けられる思いになります。
しかし、神は私たちに、将来、必ず訪れる、
子羊の婚礼の日を見つめるようにと招かれているのです。
その日が来たならば、苦しみや嘆きは、悲しみや涙は、すべて過ぎ去る、と。
そして、その日が来たならば、傷や歪み、欠点や心の痛みさえも、
私たち自身が神の前に相応しい者として、 
より美しい姿へと整えられていくためのものとしても、
用いられることに気付かされるのでしょう。
ですから、私たちはこう確信しましょう。
「主イエスにあって、今の苦しみや嘆きは、
将来訪れる婚礼の日に、大きな喜びへと変えられる」と。
このように確信するならば、私たちは、
心の奥底では、神にあって喜ぶことが出来ます。
今は苦しみの時、嘆きの時、悲しみの時、涙を流す時かもしれません。
戦いに溢れる時、憎しみに出会う時、打ちのめされる時かもしれません。
しかし、イエス様が私たちのもとに来てくださった今、
それらすべての時は、大いなる喜びの時で包み込まれています。
神の計画の中で、すべての時は用いられ、
将来の喜びにつながっていくのです
あなたがたが主イエスを待ち望むならば、今は、喜びの時となるのです。

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