しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年6月18日日曜日

説教#171:「恐れにとらわれそうな時、思い出して欲しいこと」

「恐れにとらわれそうな時、思い出して欲しいこと」 
聖書 マタイによる福音書 10:26-33、ヨシュア記 1:1-11 
2017年 6月 18日 礼拝、小岩教会 

【3度の「恐れるな」】 
イエス様は、きょうの物語の中で、
弟子たちに「恐れるな」と3度も語っています。 
なぜイエス様は、「恐れるな」と3度も、
彼らに語る必要があったのでしょうか。
それは、イエス様がこれまで語ってきたことと関係があります。
イエス様は、「神の国が近づいた」とイスラエルの町へ伝えに行くようにと、
弟子たちに命じて、彼らを送り出そうとしています。
それに際して、弟子たちがこれから出会うであろう困難や苦しみについて、
イエス様はこれまで語ってきました。
「あなたがたは地方法院に引き渡されるかもしれない。
会堂で鞭打たれることになるかもしれない。
わたしのために総督や王の前に引き出されることになるかもしれない。
あなた方が原因となって、家族の間に争いが起こるかもしれない。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれることになる。
だから、人々を警戒しなさい」(マタイ10:17-22)と。
このような困難や苦しみは、
弟子たち自身の将来に起こることとして語られました。
ですから、イエス様が口を開くごとに、弟子たちの心の中で、
将来の不安や恐れが、徐々に徐々に、増してきたと思います。
イエス様から語られた言葉を、深刻に受け止めれば、受け止めるほど、
想像を膨らませるほど、悪いように物事を考えてしまい、
恐れや不安が彼らの心を支配するようになっていきました。
弟子たちに語り掛けているイエス様は、
彼らが恐れや不安にとらわれていき、
見る見るうちに表情が暗くなっていく様子を見たのでしょう。
だから、イエス様は、弟子たちに「恐れるな」と3度も語り掛けたのです。
「私があなた方に語ることは、確かに、恐れを覚えることかもしれない。
しかし、それでも、今あなた方が抱えている不安や恐れに心を支配されて、 
怯え続ける必要がないのだ」と、イエス様は彼らに教えようとされたのです。

【「喜びのニュース」を携えている】
それでは、なぜ恐れる必要はないのでしょうか。
第一に、イエス様はこのように語りました。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。(マタイ 10:26) 

イエス様は、「不正や悪事は隠すことは出来ない」という意味で、
こう言ったわけではありません。
イエス様が弟子たちに語られたこと、
つまり「天の国は近づいた」ということを、
弟子たちは人々に秘密にしておくことも、隠すことも出来ないと、
イエス様は言われたのです。
なぜなら、イエス様を信じ、イエス様に従う弟子たちは、
言葉だけでなく、日々の行動や生き方を通して、
「天の国は近づいた」ことを宣言しているからです。
ですから、イエス様が弟子たちに告げたことは、
秘密にしておくことが出来ない性質を持っているのです。
そして、何よりも、イエス様が私たちに与えてくださったものは、
「喜びを告げるニュース」です。
イエス様が私たちのもとに来て、天の国が近づいたことを通して、
私たちには大きな喜びが与えられました。
それは、罪の赦しと、復活の希望、そして永遠の生命です。
これらのものは、イエス様を通してのみ、
神から私たちに与えられる喜びの出来事であり、恵みの贈り物です。
ですから、イエス様が私たちに与えてくださったものの、
その本質は恐れではなく、喜びなのです。
だから、この喜びが心からの喜びとして、この世界に宣言されるように、
天の国を「明るみで言いなさい」、
「屋根の上で言い広めなさい」(マタイ10:27)と、
イエス様は弟子たちを励まされたのです。

【神の愛と憐れみの支配の中で生きている】
また、イエス様は弟子たちが恐れる必要のない理由について、
このようにも語りました。

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。(マタイ10:28) 

弟子たちは、イエス様が「あなたがたは地方法院に引き渡され、
会堂で鞭打たれる」(マタイ10:17)という言葉を聞いていました。
ですから、イエス様に命じられて出て行く、この宣教の旅には、
生命の危険が伴うことを、彼らは知りました。
しかし、イエス様は、「たとえ、あなた方を苦しめ、
あなた方の生命を奪おうとした人々がいたとしても、 
彼らは、あなた方の存在そのものを消し去り、
無に返すほどの力をもっているわけではない」と言います。
だから、「あなた方が恐れるべきなのは、人ではない。
天におられる神である」とイエス様は断言されました。
ということは、私たちが覚える恐れよりも、
遥かに大きな恐れが、神から与えられるから、 
私たちは恐れる必要はないということなのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
私たちの信じる神は、私たちに怒りを示し、
恐れを与えることによって、私たちを支配することを望みませんでした。
そうではなく、神が望む支配とは、愛や憐れみです。
イエス様を通して、私たちのもとに近づいたと宣言された、
天の国とは、愛や憐れみに満ちているところなのです。
そのため、イエス様は「1羽の雀さえも、神が許されなければ、
地に落ちることはない」(マタイ10:29参照)と言います。 
そして、弟子たちの目を見て、語られました。 

だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10:31) 

驚くべきことに、神は私たちに大きな価値を見出していてくださっています。
私たちを「価高く」「貴い」と呼び、愛してくださっています(イザヤ43:4)。
その上、イエス様によれば、私たちの神によって、
私たちの「髪の毛までも一本残らず
数えられている」(マタイ10:30)というのです。
このように、神は、私たちに大きな関心を払い、
愛と憐れみに包み込んでくださっているのです。
このことこそ、イエス様が弟子たちに伝えたかったことです。
イエス様は言われます。
「あなた方がこれから生きていく上で、
恐れや不安に囚われることがあるかもしれない。
でも、そのようなとき、恐れてはならない。
もしも恐れや不安に囚われそうになる時にこそ、思い起こして欲しい。
なかなか気づくことが出来ないかもしれないが、
あなた方は、神の愛と憐れみの支配の中を生きているのだ」と。
私たちもまた、弟子たちと同じように、
恐れや不安に囚われそうになることがあります。
もしも、恐れや不安に心を支配され、恐れや不安の種を育ててしまうならば、
私たちは、あまりにも簡単に大切なことを手放してしまいます。
現在にも、また将来にも希望を持てず、自暴自棄になってしまいます。
神の愛も、信じられなくもなってしまいます。
でも、そのように、恐れや不安に囚われそうになってしまう時こそ、
いや、囚われてしまっている時こそ、イエス様は、
私たちに、この言葉を思い出して欲しいと願っているのです。 

だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。(マタイ10:31) 

【ヨルダン川を渡ったヨシュア、そしてイスラエルの民】
私たちを宝のように扱い、愛し、憐れんでくださることを、 
神は、私たちに直接告げるだけでなく、
聖書に記されている様々な物語や、
イスラエルの歴史を通して、教えてくださいました。 
だから、私たちたちは、恐れや不安に囚われる時にこそ、
旧約聖書に記されている、ヨシュアの物語を思い起こしたいと思うのです。
ヨシュアという人は、イスラエルの民のリーダーであった、
モーセの後継者として、バトンを渡された人でした。
しかしヨシュアは、イスラエルのリーダーとして、
これからの将来に大きな希望をもっていたわけではありません。
今まで頼りにしてきた、「モーセがいない」。
これが、彼の心に大きな恐れや不安を与えた原因でした。
その上、これから出会い、戦わなければいけない敵の数を思うと、
ますます恐れや不安が大きくなっていきました。
先頭に立つ自分の失敗が、
イスラエルの民を滅亡へと導いてしまうかもしれないのです。
しかし、神はヨシュアに語りかけました。

今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。(ヨシュア1:2) 

実はこのとき、川の水が通常よりも溢れる時期だったため、
彼の目の前に流れるヨルダン川は、
とてもではないが、向こう岸に渡ることは出来ない状態でした。
それにも関わらず、ヨルダン川を渡って行くようにと命じる、
神の命令は、彼の心の不安や恐れを、更に掻き立てたと思います。
しかし、神は言います。

わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。(ヨシュア1:9)

恐れが伴うときであっても、それでも、神が共にいてくださる。
この言葉に信頼を置き、神の語りかけに応えて、
ヨシュアは、ヨルダン川を渡る決意をしました。
そんなヨシュアに対して、神が救いの手を伸ばされたことが、
この後、ヨシュア記の中で報告されています。
足を踏み入れたら、そのまま体ごと流されて、溺れ死んでしまうような、
ヨルダン川の激流に、イスラエルの民が足を踏み入れたそのとき、
川の水の流れは止まったというのです(ヨシュア3:14-17) 。
神の救いの業が起こったことにより、
彼らは、乾いた道を通って、ヨルダン川を渡ることが出来たのです。

【私たちが思い出し続けるべきこと】
私たちが抱える不安や恐れとは、どのようなものでしょうか。 
それは、ヨルダン川に足を踏み入れるのにも、
似たようなものかもしれません。
足を踏み出してしまったら最後、 
そのまま激流に足を取られ、体ごと押し流され、
その流れに抵抗することも出来ない。
生命を奪われることはないかもしれないが、 
身や心を削られ、もう立ち上がれなくなってしまう。 
そのように、この世界の激流に巻き込まれる、
恐れや不安に、私たちは囚えられ、心を支配されることがあるのです。
でも、神は私たちに語りかけてくださいます。
「恐れてはならない」と。
そして、神は、私たちをただ励ますだけでなく、 
私たちが足を踏み出すときに、
私たちの目の前の困難に道を拓いてくださることを、
ヨシュアの物語を通して教えてくださっているのです。
愛する教会の皆さん、恐れにとらわれそうな時こそ、
どうか、神の言葉を通して思い出してください。
神があなたがたと共にいてくださることを。
また、神があなた方を愛と憐れみをもって、いつも導いてくださることを。
そして、神は、いつもあなた方に、必要な助けを与えてくださることを、
いつも思い出して欲しいのです。
きょう、この礼拝を通して、神から語りかけられ、
この礼拝堂を出て行くあなた方は、
恐れを大切に携えて、この場所から出て行く必要はありません。
あなた方に与えられているのは、主キリストと共にある平安です。
神があなた方と共にいて、
神の愛、神の憐れみが注がれ続けているという喜びです。
そして、神があなた方の生涯を導き、
終わりの日には、天の国へと招き、
永遠の生命を与えてくださるという希望です。
ですから、さぁ、主キリストにある平安を抱いて、
今週も、この場所から出て行きなさい。
あなた方が恐れではなく、神の愛と憐れみに支配されて生きるならば、
あなた方を通して、神の国は、
あなた方の家族、友人、愛する人々のもとに近づき、広がっていくのです。
主キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の親しき交わりが、
あなた方と共に豊かにありますように。