説教#172:「家族にまさる共同体」

「家族にまさる共同体」
聖書 マタイによる福音書 10:34-11:1、ミカ書 7:6-7
2017年 6月 25日 礼拝、小岩教会 

【主イエスは、家族の中に嵐を起こす】 
それにしても、きょうのイエス様の言葉には驚かされます。 
神の子であるイエス様が地上に来たその理由について、イエス様が
「平和ではなく、剣をもたらすため」(マタイ10:34)と語ったのですから。 
その上、家族が敵対し、分裂するために来たとまで、イエス様は言うのです。 
家族とは、きっと、多くの人が安心する場所でしょう。 
また、家族とは、自分の帰る場所であり、愛する人のいるところです。 
そのような思いが強ければ、強いほど、 
きょうのイエス様の言葉に対して、反感を覚えてしまうことでしょう。 
それに、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と
人々に語ったイエス様が、 
「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言うのも、 
何だか矛盾しているように感じます。 
でも、少し立ち止まって考えてみると、 
家族の中で起こる争いのすべては、 
イエス様が来たから始まったわけではないことに気づかされます。
イエス様の時代から、現在に至るまで。 
いえ、人類の歴史が始まったときから、現在に至るまで、 
家族は争いや問題が絶えない場所です。 
私たちは、どのような争いの種があり、 
どのような問題が家庭の中で起こり得るのか、 
また実際に起きているのかを耳にし、また知っています。 
家庭内での暴力、不倫、親子の関係の断絶、育児放棄、 
不公平な家事分担、介護の負担、子どもの教育費、
遺産の相続やお墓を巡る争いなど…… 
挙げればきりがありません。 
家族が問題を抱えることは、現代特有の現象では決してなく、
新約聖書の時代の人々も、それ以前の時代に生きた人も、 
同じように、頭を悩ませていたことでした。
聖書を開き、「創世記」という最初の書物から読み始めてみると、
人間はその歩みの初めから、夫婦の間に、つまり家族の間に、
トラブルを抱えていたことに気付かされます。 
ある時は兄が弟を殺し、またある時は弟が兄をだましました。 
憎しみにかられて、家族を奴隷として売ってしまうことだってありました。 
そうです、イエス様が来る前から、家族の中は問題だらけです。 
いつの時代も、大なり小なり、何らかの問題を家族は抱えています。 
それなのに、なぜイエス様は、既に問題を抱えている家族の中に、 
更に嵐を起こそうとするのでしょうか? 

【家族が抱えている問題】 
このときイエス様は、「平和ではなく、
剣をもたらすために」来たことの意味を、
ご自分に従って生きる弟子たちに語り始めました。

わたしは敵対させるために来たからである。 
人をその父に、 
娘を母に、 
嫁をしゅうとめに。(マタイ10:35) 

イエス様のこの言葉には、ひとつの特徴があります。 
それは弱い立場にある者が、立場の強い者に反抗する、ということです。 
聖書の時代の「家族」は、 
現代に生きる私たちが考える家族よりも、大きな集団です。 
聖書の時代の家族は、父親と母親、子どもたち、子どもたちの嫁、孫たち、 
そして、奴隷や寄留者から、構成されていました。 
この大きな「家族」と呼ばれる集団を、 
父親が強い権力をもって治め、
他の家族は父親には絶対服従であったのが、 
聖書の時代の家族の姿です。 
ですから、このような家族の中で、
イエス様が語ったようなことが起こるのは、あり得ないことでした。
父親に他の家族が反抗し、敵対するなどあり得ません。 
同じように、娘が母親に反抗することもあり得ないことでした。 
また、息子たちの妻たちは、結婚して同じ家に住むにも関わらず、 
家族の中では「よそ者」扱いでした。 
ですから、彼女たちは、義理の母である「しゅうとめ」に 
反抗することは一切許されていませんでした。 
そして、家族の中で弱い立場にあった人々は、 
娘や息子の妻たちだけではありませんでした。 
病気になった者は、家族から締め出されることがありました。 
そうすることによって、家族の生活が安定したからです。 
労働力にならない幼子たちは、軽く扱われていました。 
また、奴隷たちは、その家族の所有物に過ぎず、
家族の一員とは見られることはまずありませんでした。 

【主イエスが行なう外科手術】 
父親の権力のもとで形づくられている家族の中で、 
弱い立場に置かれている人たちが、 
強い権力を持つ人たちに敵対せずに、 
今置かれている状況で我慢し続ける。 
それは確かに、争いはありません。
でも、平和でもありません。
イエス様は、そのような家族の姿に、一石を投じられたのです。 
「家族の中で弱い立場にある者が、立場の強い者に反抗する」と。 
もちろん、イエス様は、これまで虐げられていた人々が、 
剣を手にもち、拳をふりかざして、 
家族を暴力によって治めることを推奨しているわけではありません。 
そうではなく、イエス様を信じて、イエス様に従って生きることが、 
家族のあり方を批判し、敵意を生み出し、 
争いを引き起こすことになってしまうほどの力を持っていると、 
イエス様は語っているのです。 
イエス様がこの地上に来られた理由は、
何よりもまず「天の国は近づいた」と私たちに伝えるためでした。
天の国とは、愛と憐れみに溢れる神の支配のことです。 
つまり、「あなた方が今、置かれて、苦しみや悲しみを覚えている、
この支配構造はすべて過ぎ去り、神の支配が訪れる。
神は、あなた方を愛と憐れみによって支配する。
その日は近い。
あなた方のもとに必ず来る」と、イエス様は宣言されたのです。
ですから、神の支配がこの世界のすべての場所、
すべての事柄に及ぶことを認め、
その日が来ることを心から待ち望むことこそ、
イエス様が弟子たちをはじめ、私たちに招いておられる道です。
そうであるならば、私たちがイエス様に真剣に従うならば、 
家族の中に天の国が広がっていく。
そう、神の支配が、家族の中に広がっていくことになるのです。 
天の国は、父親による家族の支配を強く否定します。 
天におられる神のみが私たちの「父」であり、 
家族を、いやこの世界とそこに生きるすべての者を治める方だからです。 
また、天の国が家族の間に伝えられたならば、
家族の価値観は、神の裁きの下に晒されるのです。
イエス様は、「天の国が近づいた」と語っただけでなく、
実際に、その生涯を通して、天の国を宣言されました。
家族の交わりから締め出された病人を、イエス様は癒し、
彼らに家に帰るように命じました。
また、イエス様は、大人たちから軽んじられ、弱く、小さい、
そしていつも助けを必要としている子どもたちを祝福して、「神の国は
このような者たちのものである」(マルコ10:14)と言われました。
イエス様が行ったことは、この時代の家族の常識とは正反対のことでした。
それは当然、家族の中に波風が立ち、時には嵐さえも起こります。
しかし、この時代の家族が、神の愛と憐れみに生きるために、
どうしても必要なことでした。
このようにして、イエス様は、この時代の家族のあり方が抱える問題に、 
かりそめの平和を与えるのではなく、
剣をもって外科手術を行われたのです。
そして、イエス様は弟子たちに対しても、
「天の国は近づいたと宣べ伝えなさい」と命じたならば、
その剣とは、他でもない、
イエス様を信じる人たちのこととも言えるでしょう。
イエス様は、ご自分と出会い、神の愛と憐れみを知った者を通して、 
家族を愛と憐れみに満ちた場所にしたいと願っておられるのです。 

【家族にまさる共同体】 
このように、問題を抱えると同時に、 
天の国が広がれば広がるほど危険に晒されるのが、 
家族という共同体です。 
家族は私たちにとって、とても大切で、また愛すべきものです。 
しかし、それにもかかわらず、イエス様は家族を絶対視しませんでした。 
それは、神が家族を包み込み、家族にまさる共同体へと、 
すべての人を招いておられるからです。 
神は、教会と呼ばれる、そのような共同体を、 
私たちのために造ってくださいました。 
教会には、誰かと誰かとの間に、上下関係は一切ありません。 
牧師、教会役員、信徒の間にも、上下関係はなく、 
そこにあるのは職務上の違いです。 
私たちは神の前に立つとき、誰もが皆、神に養われる羊です。 
また、誰もがイエス様によって、罪を赦された者であり、
誰もが、神に愛されている者です。 
だから、私たちは、決して、弱い者を排除しません。 
いえ、むしろその弱さを一緒に担って歩むように招かれています。
「わたしがあなたがたを愛したように、 
あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34) と、
イエス様が私たちに命じられたからです。 
また、私たちは、様々な違いがあるけども、 
それを神によって与えられた豊かさと受け取ります。 
そして、私たちは、教会の交わりの中で、
心をひとつにして祈り合います。 
使徒パウロが「喜ぶ人と共に喜び、 
泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)と語ったように、 
喜びや悲しみを共にしながら、心を一つにして祈り、 
互いに支え合って生きるようにと、私たちは招かれているからです。 
神は、私たちの家族を包み込み、 
私たちの家族にまさる共同体である教会を、 
私たちのために用意してくださったのです。 
もちろん、教会が、家族を包み込む共同体である以上、
家族の問題や課題もまた、教会が抱える問題や課題といえるでしょう。
しかし、神が造ってくださった、この教会という共同体において、
私たちは決して失望も、落胆もしません。
というのは、ここで、私たちは神から慰めを与えられ、
主キリストにある仲間たちから励ましを受けるからです。
また、ここで、この場所で、聖霊の働きを通して、
私たちの心に届く御言葉によって、 
神の愛を何度も、何度も、受け取ることが出来るからです。
教会こそ、神が私たちに与えた、最も喜びに溢れる共同体なのです。 
ですから、教会での礼拝や交わりを通して、神から受け取る喜びを携えて、
私たちがいつも生かされている場所へと、今週も出て行こうではありませんか。

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