しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年7月9日日曜日

説教#174:「この時代に信仰者として生きる」

「この時代に信仰者として生きる」 
聖書 マタイによる福音書 11:16-24、エレミヤ書 31:31-34 
2017年 7月 9日 礼拝、小岩教会 

【もしも主イエスがこの時代に生きたならば】 
イエス様がもしも、21世紀の日本に生まれ、 
私たちの時代の人々と共に生きたならば、 
一体何を心に思い、どんな言葉を語り、 
どのような行動を始めるのでしょうか。 
私はそのようなことを、たまに考えるのですが、 
想像するのはとても難しいなと感じるばかりです。 
イエス様が生きた時代と、今の時代とでは、異なることが多すぎるからです。 
医療の進歩により、2000年前と比べるならば、 
人間の力で治せない病気は格段に減りました。 
車や飛行機などの移動手段を手に入れた私たちは、 
2000年前の時代は、1ヶ月以上もかけて旅をしていた距離を、 
1日あれば予定を済ませた上で往復することだって可能です。 
また、パソコンやインターネットのおかげで、 
離れたところにいても、会話をすることだって出来るようになりました。 
このような時代において、イエス様は何を感じ、 
何を私たちに語りかけておられるのでしょうか。 
そして、どのように生きるようにと願っておられるのでしょうか。 
それは、この時代に、この場所で生きる、 
一人の信仰者として、いつも考えるべきことだと思うのです。 

【主イエスの呼びかけに真逆の反応を起こす時代】 
それを私たちが考えるためのひとつの手がかりを与えるため、 
イエス様はご自分が生きている時代は、
「広場に座って、 ほかの者に呼びかけている
子供たちに似ている」(マタイ11:16)と語りました。 
イエス様によれば、その子どもたちは、 
『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。 
葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』(マタイ11:16-17) 
と人々に呼びかけているそうです。 
おそらく、子どもたちが「ごっこ遊び」を呼びかけている様子を、 
イエス様はたとえに用いているのだと思います。 
イエス様がここで考えている「ごっこ遊び」とは、
「結婚式」と「お葬式」です。 
つまり、「結婚式ごっこ」に誘うために笛を吹いたのに、躍ってくれない。 
「お葬式ごっこ」に誘うために歌を歌ったのに、悲しんでくれないと、
子どもたちは不平や不満を口にしているのです。
子どもたちのこのような不平不満は、一体、何を意味するのでしょうか。 
恐らく、これらの不平不満は、
洗礼者ヨハネやイエス様に向いていた言葉なのだと思います。 
神の裁きを語り、神の前で嘆き、悔改めよと促すヨハネに対して、 
ユダヤの人々は「あいつは悪霊に取りつかれている」と非難し、 
「それよりも、一緒に躍って遊ぼうよ」と呼びかけていました。 
また、罪人と呼ばれる人たちと共に食事をするイエス様に対しては反対に、
「禁欲的にならずに、楽しく食事をしているのはけしからん」と悪口を言って、
「それよりも、一緒にお葬式ごっこをしよう」と呼びかけたのです。 
このように、イエス様の呼びかけにも、
ヨハネの呼びかけにも応えようとしない人々は、まるで、 
「不平不満でいっぱいで、
一緒に遊ぶことが出来ない子どもたちのようだ」と、 
イエス様はたとえておられるのです。 
イエス様の呼びかけを聞いた時、真逆の反応をする。 
それこそ、イエス様が生きた時代の姿だと、イエス様は感じたのです。 

【悔い改めない町々】 
このように、イエス様の言葉や呼びかけに応えず、 
かえって真逆の反応を示し、イエス様の言葉に反抗して生きる時代に対して、 
イエス様は「お前は不幸だ」と語り始めました。
ここで「不幸だ」と訳されている言葉は、
悲しみや嘆き、心の痛みなどを表す「感嘆詞」です。
新改訳聖書では「ああ」と訳されているように、
言葉にすることは出来ないけれど、心から沸き起こってくる、
嘆きや悲しみの思いを表す言葉です。
ですから、イエス様はここで「お前は不幸だ」と言っているわけではなく、
「あなたたちのことを考えると、私の胸は張り裂ける」という思いを込めて、
「ああ」と嘆き、悲しんでいるのです。
イエス様のこの嘆きや悲しみの原因は、
イエス様が「神の国は近づいた」とこれまで伝えてきたのに、
それを聞いた町の人々が、悔い改めることがなかったことにありました。
神の思いを無視して、神に背を向けてきたこれまでの生き方を思い直し、
神こそ自分の全生活、全生涯の主だと受け入れて、
心の底から、自分の生き方を変える、そのような人がいない。
イエス様が起こした奇跡を通して、神の愛が宣言されたにもかかわらず、
それは自分とは無関係のものだと考える人々の姿を見て、
イエス様は「ああ、コラジンよ」「ああベトサイダよ」と声を上げ、
嘆きや悲しみの思いを表したのです。
神を受け入れず、罪に塗れるこの時代において、
イエス様の呼びかけを聞いても、
それとは真逆の反応が起こるのは当然のことです。
しかし、神の愛に触れても、生き方を変えない、
悔い改めようとしない人々の姿に、イエス様は悲しみを覚えておられたのです。
人間の罪は、これほど根深いのか、と。

【私たちの時代を主イエスはどのように見るのか?】 
さて、イエス様が嘆き、悲しんだ時代から、 
およそ2000年の時が流れました。 
イエス様は、今のこの時代をどのように見るのでしょうか? 
残念ながら、イエス様は私たちの生きる時代も、 
イエス様の生きた時代と同じように、 
イエス様の呼びかけを聞いた時、真逆の反応をする時代だと答えるでしょう。 
そして、「ああ日本よ」「ああ東京よ」「ああ小岩よ」と、 
イエス様が嘆き、悲しむ声が聞こえてくると思います。 
どれだけ技術が進歩したとしても、 
どれだけ歴史を積み重ねてきたとしても、 
神の前に立つ私たち人間は、その根っこの部分は何も変わりません。 
相変わらず、人と人の間に争いは絶えませんし、 
不正や不正義は繰り返しなされています。 
神よりも、頼りになるように思えるものは、 
寧ろ、今の時代の方が溢れています。 
そうであるならば、私たちは結局、いつの時代も、 
自分自身の抱える現実に失望するしかないのでしょうか? 
何も期待できず、イエス様が嘆く声を聞きながら、 
裁きの日を待つことしか出来ないのでしょうか? 

【この時代に、主イエスを身にまとって生きる】 
いえ、そのようなことは決してありません。 
イエス様は、私たちが抱えるそのような現実をひっくり返し、 
私たちに悔い改めを起こし、 
私たちを神の愛と憐れみによる支配へと移すために、 
私たちのもとに来てくださったのですから。 
イエス様が十字架の上で死んで、復活したとき、 
私たちのこの世界は決定的に変わりました。 
十字架によって罪の赦しが宣言されたことによって、 
罪に支配され、罪に嘆く時代から、 
神の愛と憐れみによって支配されている新しい時代へと移ったのです。 
たとえ、今も、人間の悪や罪に苦しむ現実が
広がっている時代に見えるとしても、
イエス様が十字架にかかり、罪の赦しを宣言してくださった今、
私たちは既に、新しい時代に生きているのです。
使徒パウロはそのことをよく知っていました。 
ですから、「あなたがたは
今がどんな時であるかを知っています」(ローマ13:11) 
と語った後、ローマの教会の人々に勧めました。 
「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)と。 
既に、イエス様によって罪の赦しは与えられ、
復活の希望が与えられました。
だから、私たちは、罪の支配ではなく、神の支配の下へと移されているのです。
そして、神の愛と憐れみによる支配の下で生きることが、
この時代にあっても、私たちには出来るのです。
パウロによれば、それは、私たちが
「キリストを身にまとう」ことによって、可能となります。
一体、どのようなことが、キリストを身にまとうことなのでしょうか。 
それは、聖書の言葉を通してその意味を考え、
祈り求め、 実際に行動に移していくことを通して、です。
また、それは、イエス様がもしも、この時代に、
私たち自身が生活するこの場所に、私たちと共に生きるならば、
イエス様はどうするのだろうか?と考えることです。
イエス様は、何を考え、何を感じ、何に悲しみを覚え、何を喜び、
何に嘆き、何に楽しみ、何に怒りを覚え、何を願って、
祈り、行動を起こすのかと考えて生きることこそ、
「キリストを身にまとう」ことなのです。
そのように生きることこそ、この時代にキリストを信じて生きる、
信仰者である私たち一人ひとりに委ねられている務めなのです。 
ですから、キリストを身にまとって、今週も歩んで行きましょう。 
この時代に主イエスを身にまとうことを通して、 
私たちは、主イエスの愛と憐れみを宣べ伝えるのです。