しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年7月23日日曜日

説教#176:「まことの安息への招き」

「まことの安息への招き」 
聖書 マタイによる福音書 12:1-14、出エジプト記 20:8-11 
2017年 7月 23日 礼拝、小岩教会 

【安息日論争①:ファリサイ派からの批判的な質問】 
ある安息日に、イエス様は、 
ファリサイ派の人々から批判的な質問を受けました。 
「あなたの弟子たちは、
安息日にしてはならないことをしている」(マタイ12:1)と。 
イエス様の弟子たちが麦畑で、
麦の穂を摘んで食べていたのを目にしたため、 
ファリサイ派の人たちは、イエス様にこのような質問を投げかけたのです。 
私たちの目には、「他人の麦畑の麦を、勝手に摘んで、 
食べることがいけないことなのでは?」と思ってしまいますが、 
ユダヤの律法によれば、それは特に問題のない行動でした。 
寧ろ、それは、貧しい人々の生活を守るために必要なことでした。 
ここでファリサイ派の人たちが問題としているのは、 
イエス様の弟子たちが、「安息日に」、 
これらの行動を行ったことにありました。 
さきほど読んでいただいた、「出エジプト記」に記されている通り、 
安息日は、誰もが労働をしない日です(出エジ20:10)。 
この労働が何であるのかについて、聖書には事細かには記されていません。 
ですから、「安息日を心に留め、これを聖別しなさい。 
その日には、いかなる仕事もしてはならない」という言葉を、 
真剣に受け止め、守ろうとすればするほど、人は悩みました。 
そのため、ユダヤの人々は、安息日を適切に守るために、 
労働が何であるのかを考え、議論し続けました。 
どうやら、イエス様の時代にまでなされてきた議論の結果、 
麦を摘んで、それを食べることは労働と受け止められたようです。 
それを思うと、ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねたとき、 
彼らのこの言葉の裏にあった批判の声が一緒に聞こえてきます。 
「彼らの行ないは、彼らの先生である、
あなたの責任でもあるでしょ? 
あなたもまた、安息日の掟を軽んじているのでしょうか?」と。 

【「わたしが求めるのは、憐れみである」】 
このような批判の声を聞いたイエス様は、彼らに何と答えたでしょうか。 
イエス様は、イスラエルの偉大な王さまとして知られる、 
ダビデが空腹を覚えたときのことを、彼らに思い起こさせました。 
あのとき、ダビデは「神の家に入り、祭司以外は食べてはいけない、 
神への供えのパンを食べたではないか」(マタイ12:4)と。 
イエス様はこのように、ダビデを例に挙げて、 
人間の命や、それを保つために必要なことは、 
律法よりも優先される権利があることを伝えたのです。 
でも、現実はそれとは正反対なことばかりでした。 
「何よりも、安息日を守ることの方が優先すべき。 
空腹であっても、安息日の規定の範囲内で、食事をするべき。 
病気であっても、安息日の規定で許されないならば、 
その治療は翌日にされるべき。 
たとえ大切な用事があったとしても、 
900メートル以上歩いてはいけない」といった具合に、 
ファリサイ派の人々は勧め、多くの人たちはそれに従っていました。 
安息日という日は本来、普段の仕事を完全に止めて、立ち止まり、 
自分自身や、共に生きるすべての人たちが、 
神に造られた良き存在であることを確認し、喜ぶ日として造られました。 
しかし、イエス様の時代に安息日は、 
人々の生活を義務や戒律で縛り付ける、戒律尽くめの日になってしまい、 
人々を安息日の奴隷のようにしてしまいました。 
そこには、人にとっての安息などありません。 
ですから、イエス様は、安息日が本来もつ意味が、 
人々の間で、ユダヤの社会の中で、回復することを願って、 
預言者ホセアの言葉を、ファリサイ派の人々に伝えたのです。 
「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と。 
憐れみが注がれるところにこそ、安息がある。 
憐れみを受けるべき人が、憐れみを受けず、 
蔑ろにされ、苦しむ安息日には、まことの安息はないのです。 

【安息日論争②:利用された病人】 
このようにファリサイ派の人たちに、「憐れみ」を語った後、 
イエス様は、ユダヤ人の会堂であるシナゴーグへ向かいました。 
そこにいた人たち、おそらくファリサイ派の人たちは、 
イエス様に尋ねました。 
「安息日に病気を治すのは、
律法で許されていますか」(マタイ12:10)と。 
彼らがイエス様に問いかけたこの時、 
その場に「片手の萎えた人」(マタイ12:9)がいました。 
つまり、まさに今、癒しを必要としている人がいる中で、 
イエス様はこの問いかけを受けたのです。 
もしも、イエス様がこの人を癒やすならば、 
「この男は、安息日の掟を破っている」と言って、訴えるチャンスです。 
また、ファリサイ派の人たちが理解していた通り、 
「律法では、安息日に病を癒やすことは許されていない」と語るならば、 
「苦しんでいるこの人を見過ごすのか? 
お前の語る憐れみとは一体何なのだ?」と言って、 
イエス様を貶めることも出来るかもしれません。 
まさにこの時、ファリサイ派の人たちにとって、 
片手の萎えたこの人は、憐れみを受ける対象と 
なっていないことに気付かされます。 
この人は、ファリサイ派の人たちが、 
イエス様を訴えるための道具として、ただ利用されているだけでした。 
だからこそ、イエス様は、穴に落ちた羊を助けることを例に挙げて、 
「安息日に善いことをするのは許されている」と語り、 
この人の手を癒します。 
そうすることによって、目の前にいるこの人を、彼らが憐れまず、 
1匹の羊よりも軽んじている現実を訴えたのです。 
憐れみが注がれるべき人に、 
憐れみが注がれていないばかりでなく、 
人が利用され、道具のように扱われ、軽んじられている。 
それが、イエス様の時代の「安息日」の姿だったのです。 
そこに、安息などあるはずがありません。 

【主イエスの十字架によって、安息が与えられた】 
さて、安息日に関するこのふたつの物語は、 
ファリサイ派の人々がイエス様のもとから立ち去り、 
「どのようにして、あのイエスという男を殺そうか」と 
相談することで終わっています。 
イエス様の憐れみの言葉や行いは、残念ながら、 
ファリサイ派の人々の心に敵意を生むことになってしまったのです。 
この敵意はどんどん膨れ上がり、ユダヤの人々の間に広がり、 
最終的には、イエス様の命を奪うことになってしまいました。 
一体、なぜそのようなことが起こってしまったのでしょうか。 
神が求めておられることを、忠実に守りたいという、 
純粋な思いが、ファリサイ派の人たちの心には 
いつもあったと思います。 
それにもかかわらず、彼らが真剣に解釈した安息日の掟は、 
人を縛り付け、安息を人から奪い取るものになってしまいました。 
神が与えた律法を守るためという意識があるからこそ、 
たとえそれが間違った方向へ進んでいたとしても、 
それがわからず、イエス様の言葉に反発し、 
イエス様に対する敵意が生まれてしまったのです。 
善意から、良い思いから始まっているにも関わらず、 
人を傷つけ、神に背いてしまう。 
このように、神に背き、自分が望むことを実行せず、 
かえって自分が憎んでいることをしてしまう(ローマ7:15)、 
それは、ファリサイ派の人たちだけでなく、私たちだって同じです。 
そのような私たち人間が持つ性質を、聖書は「罪」と呼びます。 
イエス様の憐れみや、イエス様が求める「安息」は、 
私たちがもつ罪の性質とは、正反対のものです。 
だから、ファリサイ派の人々の間で、 
イエス様に対する敵意が広がっていき、 
最終的に、イエス様はこの敵意に晒され、 
十字架の上で命を落とすことになってしまったのです。 
私たち人間の目から見れば、 
イエス様は、安息日の歪みを完全に正すことが出来ず、 
私たち人間の罪に負けてしまったことになります。 
しかし、イエス様が十字架の上で死なれたことに、 
神の計画がありました。 
神は、すべての人の罪をイエス様に背負わせて、 
イエス様を十字架にかけることによって、 
私たちの罪を赦してくださいました。 
神が与えてくださる安息を拒絶し、憐れみを無視し、 
人から安息を奪い取り、人を憐れまない私たちに、 
神は罪の赦しを、恵みとして、 
何の見返りもなしに、与えてくださったのです。 
ですから、イエス様は、「あなたの罪は赦されている」と、 
私たちに向かって、いつも宣言し続けてくださっているのです。 
罪の赦しを与えられることによって、 
私たちは、神の前で安息を与えられているのです。 
この罪の赦しによって与えられる安息を、 
私たちは、日曜日ごとにいつも新たに確認することが許されています。 

【私たちは、大いなる安息に向かって共に歩む】 
ところで、厳密に言えば、「安息日」という日は土曜日です。 
ですから、日曜日に礼拝をすることは、
安息日を守っているとは言えません。 
それでも、私たちが今、日曜日に礼拝を守るのは、 
イエス様が復活された日を喜び、祝っているからです。 
でも、だからといって、 
教会は、安息日を捨て去ってしまったわけではありません。 
安息日が持つ祝福やその豊かな恵みを大切に受け継いで、 
教会はおよそ2000年もの間、礼拝を守り続けてきました。 
日曜日ごとに、神によって約束されている「安息」が、 
私たちにとって大きな喜びであることを、 
神は私たちにいつも宣言しておられるのです。 
「あなた方は、神に造られた良い存在である」。 
「あなた方は、罪を赦されて、神の子とされている」と。 
でも、思い返してみると、私たちは神から与えられている「安息」を、 
私たちから奪う力にいつも囲まれています。 
「今の働きを止めて、立ち止り、 
自分自身の存在そのものを喜ぶことなんて出来ない。 
それよりも、働き続けて、その働きによって得る成果によって、 
自分の存在の価値を認めてもらいたい」という声が、 
どこかから聞こえてきます。 
また、自分の利益のために、 
人の安息さえも奪い、誰かを道具のように利用してしまう。 
そのような価値観で動く、この世界で生きているからこそ、 
「安息日の主」である方は、毎週日曜日ごとに、 
私たちを、神のもとへと出て行くようにと招いてくださっているのです。 
神の言葉を聞き、 
信仰を分かち合う仲間たちと交わりを持ち、祈り合うことを通して、 
イエス様が、私たちに与えてくださった「安息」を 
私たちは、教会において、思い起こすことが出来るのです。 
確かに、私たちの生涯は、 
「安息」と呼べるものばかりでもありません。 
しかし私たちは、ここで、 
神によって与えられる「安息」を思い起こすことが出来ます。 
そして、ヘブライ人への手紙の著者が、 「安息日の休みが
神の民に残されている」(ヘブライ4:9)と語るように、 
神が私たちに最終的に与えてくださる「安息」である、神の御国を、 
見つめて、私たちは共に歩んで行くことが出来るのです。 
この地上の旅路において、疲れ果て、足を止めることがあったとしても、 
転んだり、道をそれてしまったり、 
反対方向へ行こうとしてしまうことがあったとしても、 
「さぁ、一緒に、イエス様が約束してくださった安息の日を目指して、 
神の御国を目指して、歩んでいこう」と励まし合いながら、 
時には手を取って、支え合いながら、 
神が約束してくださる安息を喜びながら、歩んで行きましょう。