しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年8月6日日曜日

説教#178:「神の国はあなたたちのところに来ている」

「神の国はあなたたちのところに来ている」
聖書 マタイによる福音書 12:22-32、イザヤ書 49:24-25
2017年 8月 6日 礼拝、小岩教会 

【主イエスを歓迎する人々】 
イエス様の時代の人々にとって、「悪霊の支配」は恐るべきものでした。 
悪霊は人々に病をもたらし、口をきけなくさせ、 
耳から音を奪い、目から光を奪いました。 
また、悪霊は人を迷わせ、堕落させる存在として考えられていました。 
そんな悪霊に憑かれてしまった人々は、
墓場に住むなどして、社会から遠ざかって暮らすことを、 
周りから強いられることさえありました。 
このような形で悪霊に苦しんでいる人々と出会う度に、
イエス様は関わりを持ち、悪霊を追い払われました。 
そうすることによって、悪霊の支配の下で生きる人々を、 
その苦しみから解放し、本来あるべき生活へと戻されたのです。 
このような働きをするイエス様のもとに、 
きょうもまた、悪霊に憑かれた人が、連れられて来たそうです。 
目が見えず、口がきけなくなっていたこの人から、 
悪霊を追い払い、イエス様はその人を癒しました。 
このとき、イエス様の行った業を見た多くの人々は驚き、 
「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と 
声を上げたと、マタイは記しています。 
それは、イエス様を心から歓迎する声でした。 
「ダビデの子」とは、救い主メシアを現す称号です。 
イスラエルを再建して、ダビデの時代のような栄光をこの国に取り戻し、 
世界に平和をもたらす存在として、 
「ダビデの子」と呼ばれる救い主の登場を 
ユダヤの人々は待ち続けていました。 
多くの人々の病を癒し、 
驚くべき権威に満ちた教えを語り、 
時には嵐を静め、 
そして今、自分たちの目の前で、悪霊を追い払った、 
そんなイエス様の姿を見て、その場にいた人々は思ったのです。 
「この人こそが、私たちが待ち望み続けた 
ダビデの子なのではないだうか」と。 

【主イエスに降りかかる疑惑】
でも、一方で、そんなイエス様の姿を見て、 
イエス様に対して疑惑を抱くようになった、
「ファリサイ派」と呼ばれる人たちがいました。
彼らも、他のユダヤ人たちと同じように、 
「ダビデの子」が自分たちの前に現れるのを待ち望んでいました。 
しかし、「ダビデの子かもしれない」と噂されていたイエス様の姿は、 
彼らが待ち望んでいた救い主の姿とは違っていました。 
イエス様は宣教を開始する際に、 
「天の国は近づいた」と宣言しましたが、 
神の支配がこの地上に来るために、剣を手に取って、 
ローマ帝国の支配からの解放運動を始める気配は全くありませんでした。 
寧ろイエス様は、罪人たちや徴税人たちなどを集めて、 
いつも飲み食いしていましたし、 
その上、ユダヤの律法を守っていないようにも見えたのです。 
ですから、自分たちが待ち望んでいるメシアの姿とは違うと、 
ファリサイ派の人たちはイエス様に対して感じていたのです。 
そして、悪霊を追い払うことに、
いつも成功しているイエス様の姿を見たとき、 
彼らの心は疑惑で溢れることになりました。 
当時のユダヤの人々も、ファリサイ派の人々も、
悪霊払うを行ってはいましたが、常に成功していたわけではありません。
しかし、イエス様の悪霊払いは必ず、成功をおさめていました。 
これは、明らかに異常なことです。
ですから、彼らは思いました。
「自分たちが待ち望んでいるようなメシアとは違うにも関わらず、 
これほど簡単に悪霊を追い払えるなど、何か理由があるに違いない。 
そうだ、アイツは悪霊の頭であるベルゼブルと通じ合っていて、 
ベルゼブルの力によって、悪霊を追い出しているに違いない」と。
そのため、ファリサイ派の人々は、
「この人こそ救い主なのではないか」と期待を持って、
イエス様を見つめる人々の前で、このように語ったのです。
「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、
この者は悪霊を追い出せはしない」(マタイ12:24)と。 

【神の支配はあなた方のもとに来ている】
ファリサイ派の人たちの言葉に対して、イエス様は答えました。 

どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、 
どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 
サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。 
そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。(マタイ12:25-26) 

「もしも私が悪霊の頭である、ベルゼブルの力によって、 
悪霊を追い払っているならば、それは内輪で争い、分裂を引き起こし、 
最終的には破滅へと導かれることになってしまうだろ? 
だから、そのようなことはあり得ない」とイエス様は語り、
自分が悪霊の側に立っていないことを説明しました。 
疑惑を晴らす分には、これだけ語れば十分だったと思います。 
でも、イエス様の言葉は、自己弁明のみでは終わりませんでした。 
ひとつの譬えを語ることによって、 イエス様は、
なぜ自分が悪霊を追い払うのかを明らかにされたのです。

まず強い人を縛り上げなければ、 
どうしてその家に押し入って、 
家財道具を奪い取ることができるだろうか。 
まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(マタイ12:29) 

強い者から、家財道具を奪い取る。 
これこそ、悪霊を追い払うことの意味であると、イエス様は言います。 
つまり、「強い者」である悪霊たちを縛り上げ、
彼らのもとから、悪霊の支配下にある者たちを奪い取り、
神の支配下へと移す。
まさに、イエス様は悪霊の支配下にある人々を解放し、
本来あるべき存在へと回復するために、
悪霊を追い払っていると言うのです。
それは、私たち一人ひとりが、神に宝のように大切にされ、
神から大きな価値を認められ、
心から愛されている存在だからに他なりません。
愛する私たちを、神のもとへと取り戻すために、
イエス様は、悪霊を追い出されたのです。
このことをイエス様は、28節でこのように表現されました。

わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、 
神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(マタイ12:28) 

「神の国」とは、神の支配を意味する言葉です。 
私たちの生きるこの世界のすべてのものは、
神によって造られ、神によってその生命を保たれています。
ですから、すべてのものは本来、神の支配の下にあるのが、
自然な状態、あるべき状態なのです。
しかし、本来あるべき状態が失われ、傷ついているのが、
私たちを取り巻く現実です。
この世界も、私たち自身も、
人間の罪によって傷つき、歪められています。
そして、イエス様の時代、
悪霊が人々に取り憑くことによって、ますます傷を受けました。
たとえ「悪霊」の存在を肯定しなかったとしても、
現代において、私たちを支配し、翻弄し、迷わせ、
私たちの存在を傷つけるものは数多くあります。
驚くべきことに、イエス様は、
そのような場所に、神の国は来たと宣言されたのです。
「神の国は将来、私たちのもとにやって来ると約束されているが、 
それが今、限りなく、私たちのもとに近づいた」
と言っているわけではありません。 
イエス様は明確に、「神の国は来ている」と宣言されたのです。 
ですから私たちは、悪霊の支配の下になどありません。
そればかりでなく、他の何者の支配の下にもありません。
ただ、神の業によって、本来あるべきところに戻されているのです。
つまり、神の支配の下に置かれ、
神の愛に包まれて、私たちは生かされているのです。
だから、主イエスは私たち一人ひとりに語り掛けておられるのです。
「神の国はあなたたちのところに来ている」と。

【聖霊に導かれて、自由に生きる】
私たちは生きる限り、必ず誰かの支配下に身を置く存在です。
そのため、神の支配の下に置かれているにも関わらず、
私たちは様々な力に囲まれ、翻弄されながら生きています。
時には悪霊の支配と感じてしまうほど、
抵抗不可能なものまであるのも事実です。
それと同時に私たちは、自分の生き方を決定づけるのは、
自分自身だと信じることだってよくあります。
「他の何者も、私を支配することなど出来ない」と言って、
私たちは自分で自分を支配することを好みます。
支配する側には、支配される側を正しく導く責任があります。 
もちろん、その責任を果たさない自由も与えられているのが、支配する側です。 
しかし、支配する側も、支配される側も自分であるならば、
この責任はすべて私たち自身に降り掛かってきます。
それにも関わらず、私たちは自分の自由に生きたとしても、
最善な道を選びきれていないことに気付かされます。
いえ、かえって、望んではない道を歩むことさえあります。
自分の支配にも、限界があるのです。
その意味で、私たちが考える自由とは、
本質的には自由ではないのかもしれません。
より良い生き方、より良い選択、より幸いな道が
私たちの前に用意されているのにも関わらず、 
自分に縛られて歩み出せないことがあるのですから。
だからこそ、イエス様は私たちを「神の国」へと招いておられるのです。
神の支配の下にこそ、本当の自由があるのです。
それでは、神の支配とは、
一体どのような形で私たちのもとに訪れているのでしょうか。
神は、私たちに聖霊を与え、
聖霊を通して、神の支配を私たちのもとにもたらし、
私たちの生涯を導いてくださっているのです。
神が私たちに与えた聖霊は、神の自由な霊ですから、
私たちの生き方を束縛し、生きにくくするものではありません。
寧ろ、より良い生き方、より良い選択、より幸いな道を、
私たちに指し示し、私たちを導くのが聖霊の役割です。
そして、使徒パウロによれば、神は聖霊を通して、
私たちに良い実を結ばせてくださるのです。
聖霊の結ぶ実とは、愛、喜び、平和、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、節制です(ガラテヤ 5:22-23)。
では、一体、私たちは聖霊の導きをどのように知って、
聖霊の導きの下で歩み始めることが出来るのでしょうか?
聖霊は自由な霊なので、
「このように生きれば、正解」というものはありません。
しかし、確かなことは、私たちが神の言葉に耳を傾けることです。
神が語る言葉が語られたところに、聖霊の自由な風は吹きます。
神の言葉を聞いた者が、神に従って生きようとする時に、
聖霊の自由な風は吹くのです。
ですから、どうか、神の言葉にいつも耳を傾けて、
聖霊の導きのうちに歩んで行くことが出来ますように。
そして、あなた方に与えられている聖霊を通して、
神の国がますますこの地に広がって行きますように。