説教#181:「祝福を受け継ぐ家族」

「祝福を受け継ぐ家族」 
聖書 マタイによる福音書 12:46-50、創世記 28:10-19 
2017年 8月 27日 礼拝、小岩教会 

【わたしの母とは、兄弟とは誰か】 
イエス様が人々と語り合っていたとき、 
そこにイエス様の家族がやって来たそうです。 
どうやら、彼らは、イエス様と話したいことがあったため、 
イエス様のところにまで来たようです。 
一体、イエス様に何を話しに来たのか気になるところですが、 
どうやら、それはこの物語を書き留めたマタイの関心ではなかったようです。 
マタイはイエス様の家族が来た理由など説明せず、
別のことに、私たちの目を向けようとしています。 
マタイが注目するようにと私たちに促しているのは、 
「あなたの母と兄弟たちが、 
あなたに話したいことがあって来ていますよ」 
という報告を受けたときのイエス様の返事にです。 
このとき、イエス様はこのように答えて言いました。 

わたしの母とはだれか。 
わたしの兄弟とはだれか。(マタイ12:48) 

「イエス様、そんな当たり前のことを聞き返さないでください。」 
きっと、その場にいた人々はそう思ったと思います。 
「母」という言葉を聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、 
自分を産み、育ててくれた女性のことです。 
また、兄弟や姉妹については、 
両親またはどちらかの親を同じくする 
子どもたちのことを思い浮かべることでしょう。 
つまり、血による繋がりを意識して、 
私たちは母や兄弟について、そう家族について考えます。 
また、養子を家族の一員として受け入れることも、 
聖書の時代からありました。 
ですので、血の繋がりに加えて、 
法的に必要な手続きを行った関係を 
私たちは家族と呼んでいるといえるでしょう。 

【神の御心を行なう人々の群れ】 
しかしイエス様は、ご自分の弟子たちを指して言われました。 

見なさい。
ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 
だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、 
わたしの兄弟、姉妹、また母である。(マタイ12:49-50) 

イエス様を信じ、イエス様に従う弟子たちを、 
「わたしの兄弟、わたしの姉妹、またわたしの母」とイエス様は呼びました。 
当然、イエス様と弟子たちとの間に、 
血のつながりや法制度による結びつきなどありません。 
それにも関わらず、イエス様が彼らを「わたしの兄弟、姉妹、母」と呼ぶのは、 
血のつながりや、人間が作り出す法制度を超えた結びつきによって、 
人は家族を築くことが出来るという確信が
イエス様にあったからに他なりません。 
イエス様によれば、それは「天の父の御心を行う」ことでした。 
神が何を喜び、何を善いこととし、何を私たちに望んでおられるのかについて、 
いつも思い巡らし、神の御心に沿って生きようとする人々こそ、 
イエス様の家族であると、イエス様は言うのです。 
ということは、結局、神の前で正しいことをし続けなければ、 
イエス様の家族としては認められないということなのでしょうか? 
もちろん、そうではありません。 
イエス様は、イエス様の家族として受け入れられるための条件として、 
神の御心を行なうことを挙げているわけではありません。 
神の家族として受け入れられている者は、 
当然、神の御心を行なうことが出来る者なのだと言っているのです。 
というのも、イエス様の家族と呼ばれている弟子たちは皆、 
まず初めに、イエス様からの招きを受けました。 
マタイはこのとき、イエス様が
「弟子たちの方を指して言われた」(マタイ12:49)と書いています。 
もともとの言葉では、「弟子たちの上に手を伸ばして言われた」です。 
イエス様は弟子たちの肩の上に、もしかしたら頭の上に手を置いて、 
「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたのです。 
誰かの上に手を置くことは、その人に祝福を与えることを意味していました。 
つまり、イエス様が手を伸ばし、祝福をした人々が、 
イエス様の家族とされているのです。 
彼らは、イエス様からの祝福を受け、イエス様からの招きに応えたから、 
弟子とされ、イエス様の家族と呼ばれたのです。 

【祝福を受け継ぐ家族】 
ところで、イエス様がここで語っている家族には、 
「教会」という別の名前があります。 
そう考えると、イエス様によって教会に招かれている人と、 
招かれていない人とがいるように感じます。 
特に、きょうの物語に至るまで、 
イエス様とファリサイ派の人々との間の対立が描かれてきたため、 
イエス様の家族とそれ以外の人々との間に境界線があるのは明らかです。 
このように、イエス様の家族と呼ばれる人たちと、それ以外の人たち。 
教会に集う人たちと、それ以外の人たち。 
というような構図を考えるとき、私たちはしばしば疑問に思うのです。 
「なぜ選ばれる人と、選ばれない人がいるのだろうか。 
イエス様はなぜ、私たちの愛する人たちを選んでくださらないのだろうか」と。 
私たちは一体、この疑問とどのように向き合えば良いのでしょうか。 
私たちはこの疑問について考えるとき、
イエス様の弟子たちが祝福を受けたことの意味に
注目するべきだと思います。 
旧約聖書の時代から、神から受ける祝福には大きな意味がありました。 
先ほど読んでいただいた創世記の物語において、 
ヤコブという名の男が見た夢の中で、神はヤコブを祝福しました。 
彼が夢の中で神から約束された祝福とは、 
ヤコブに土地を与え、子孫を増やすことでした。 
実はこの約束は、彼の父親のイサクにも、 
イサクの父親のアブラハムにも与えられた言葉でした。 
つまり、ヤコブはこの時、 
親子3代にわたって与えられてきた祝福を受け取ったのです。 
そして、神はこの祝福にどのような意味があるのかをヤコブに伝えました。 

地上の氏族はすべて、
あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。(創世記28:14) 

神がアブラハム、イサク、ヤコブを選び、彼らを祝福した目的とは、 
彼らを通して地上のすべての民を祝福することにありました。 
つまり、祝福を受け取った人々は、 
自分たちだけが祝福されていることで満足してはいけないのです。 
それは、アブラハムやイサク、ヤコブにだけ言えることでも、 
イエス様から祝福を受けた弟子たちだけに言えることでもありません。 
神の呼びかけを受けて教会に招かれ、 
イエス様から祝福を受けた私たち一人ひとりにも言えることです。 
そうです、私たちは、神によって、
この世界に神の祝福を伝える泉とされているのです。 
つまり、これこそ、神によって「先に選ばれる者」がいる意味でしょう。 
私たちは、共に生きる愛する人々に、 
神の祝福をもたらし、この祝福を受け継ぐために、 
神によって選ばれたのです。 
ですから、私たちの愛する人々にとって、
神の祝福は、イエス様と出会った私たち自身から始まります。
神の祝福は、主イエスと出会った教会という群れから始まるのです。 

【私たちが祝福を受け取り、祝福を受け継ぐ場所】
ところで、私たちがこの祝福を携えて出て行く場所とは、
どのような場所なのでしょうか。
多くの場合、そこは、神の祝福とはかけ離れています。
もちろん、完全な悪が広がっているわけでも、
罪に染まりきっているわけでもありません。
この世界は、神によって造られた世界なのですから。
しかし、悲しいことに、私たち人間の抱える罪や悪が、
この世界に注がれている神の祝福を歪めています。
その事実を聖書は証言しています。
「私たち人間は、互いに愛し合い、助け合う存在として
神によって造られたにも関わらず、
人間の歴史の初めから、人はお互いに信頼し合えなかった。 
罪を押し付け合ってしまった。 
そして、兄が弟を殺してしまった」と。 
どれだけ血の繋がりが強いと思っていたとしても、 
家族の中には、悲しい現実が広がっていることを見聞きします。
歴史を紐解いても、今の時代を見つめても、
家族の中には様々な問題があり、神の祝福が覆い隠されています。
人々の間にある対立や溝はなかなか埋めることが出来ません。
憎しみや妬みを抱くとき、
それらを押さえ込むことも、隠し切ることも出来ません。
そのような場所に、神の御心を現し、祝福を注ぐために、
神は私たちを選び、私たちに祝福を与えてくださったのです。
ただ、私たち一人ひとりに出来ることは不完全で、
限界があるように思えます。
しかし、イエス様が手を伸ばし、祝福を与えた私たちは、
神の御心を行なうことの出来る者とされました。
そのため、私たち自身は自分の弱さに押し潰されそうになっても、
自分の欠けに醜い思いをすることがあっても、
それでも、神の御心を行なうことが出来るのです。
そして、感謝すべきことに、私たちはイエス様の家族に招かれています。
血の繋がりでも、法制度による結びつきでもなく、 
ただ、神の御心を行なう者ことによって、家族とされています。
そのため、どのような人とも、
私たちは家族のように愛し合い、助け合うことが出来ます。
一人の力ではなく、お互いに支え合い、祈り合う
教会という名の家族を通して、神はこの世界に祝福を宣言されるのです。
ですから、まずは、私たちがこの場所で神から祝福を受け、
この祝福を喜びましょう。
そして、この祝福を喜びつつ、出て行きましょう。
どうか、きょうから始まる1週間が、 
神の祝福で豊かに溢れたものとなりますように。 
あなた方が神から受け取った祝福が、 
あなた方を通して、この世界に広がっていきますように。 

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