説教#193:「王権は主のものとなる」
「王権は主のものとなる」 聖書 オバデヤ書 15-21、ヨハネの黙示録 22:6-21 2017年 11月 26日 礼拝、小岩教会 オバデヤがこの預言を語ったとき、 ユダヤの人々は、嘆きと悲しみの内にありました。 というのも、自分たちの国である南ユダ王国が、 バビロニア帝国によって攻め込まれた経験をしたからです。 それは、ユダヤの人々にとって、 愛する自分たちの故郷を奪われる出来事でした。 都を壊され、神殿も徹底的に破壊されました。 親しい友人や仲間たち、愛する家族から引き離され、 神が与えてくださった約束の地から追放されて、 見知らぬ地へと連れて行かれていく経験もしました。 神が、自分たちのことを見捨ててしまったかのように感じました。 ですから、彼らにとってこの経験は、「神の怒りの杯」から、 苦難や裁きを飲まされるというような出来事だったのです。 「一体なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか?」と、 バビロニア帝国の人々によって、強制的に連れて行かれた、 見知らぬ地において、ユダヤの人々は考え続けました。 そして、「なぜ、あなたはこのようなことをなさったのか?」と、 神に向かって、問いかけ続けました。 最終的に彼らに与えられた答えは、 自分たちが神に背を向けて歩み続けたから、 自分たちは神の裁きを受けたのだ、ということでした。 旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を読んでいくと、 何度、預言者たちが警告したとしても、 神の前に立ち帰らない人々の姿が描かれていることに気づくでしょう。 そして、このようなイスラエルの人々の姿を代表するかのように、 北王国イスラエルにも、そして南王国ユダにも、 「神の前に悪を行った」と評価される王たちが多くいたのです。 そのため、自分たちが「神の怒りの杯」を飲む必要があったのは、 当然のことだったと、ユダヤの人々は考えるに至りました。 そして、この悲しみと嘆きに溢れる経験を通して、 過去の自分たちの姿を反省し、神に立ち帰って生きようとしたのです。 そんなユダヤの人々を、神は憐れみ、 エルサレムへと連れ戻してくださいました