説教#195:「小さな賛美に耳を傾けよ」

「小さな賛美に耳を傾けよ」
聖書 創世記 1:31、ルカによる福音書1:26-56
2017年 12月 10日 礼拝、小岩教会

ガリラヤのナザレという町に、 
マリアという名の若い女性がいました。 
あるとき、彼女は旅に出ることにしたそうです。 
彼女が目指した場所とは、親戚のエリサベトが暮らす、 
ユダ地方にある町でした。 
このとき、彼女は急いでエリサベトの家を目指したようです。 
ナザレからユダまで歩いて移動をすると、3~4日かかります。 
そのような旅をすることを、 
マリアが急に思い立った理由は何だったのでしょうか?
それは彼女が旅に出る決断をする前に、
彼女のもとに天使ガブリエルが訪れたことに関係がありました。 
天使が自分の前に現れることさえ、驚くべきことでしたが、 
天使ガブリエルは、もっと信じられないことを彼女に語りました。 
それは、マリアが男の子を産むこと。 
産まれてくる子が、神の子と呼ばれること。 
そして、その子が、永遠にイスラエルを治める者となることでした。 
「どうして自分が選ばれたのだろうか?」 
「どうしてそのようなことが、ありえるのだろうか?」 
不思議に思うこと、疑問に思うことはたくさんありました。 
しかし、マリアは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37) 
と告げる、ガブリエルの言葉を信じました。 
神がこれから行われること、そして自分の身にこれから起こることを、 
信仰をもって、彼女は受け止めました。 
「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と。 
このときマリアは、親戚のエリサベトが、 
高齢であるにも関わらず、身ごもったことを 
ガブリエルを通して知りました。 
人間の目にはあり得ないこと、信じられないことが、 
エリサベトの身に起こったを知りました。 
だから、マリアはエリサベトに会いたいと思ったのでしょう。 
マリアは、ガブリエルの言葉を完全に信じきれなかったから、 
確信を得るために、エリサベトのもとへ行ったのではありません。 
同じような境遇に立たされているエリサベトと会って、話してみたい。 
神の言葉を受け止めた今、自分が経験している葛藤や喜びを、 
一緒に分かち合いたいと彼女は願ったのだと思います。 
そのような思いが彼女の内側からこみ上げてきたため、 
彼女は急いで、エリサベトのもとへと向かったのです。 
ところで、マリアがエリサベトが暮らす家にたどり着いたとき、 
不思議な出来事が起こったことをルカは記しています。 
マリアがエリサベトと出会い、彼女に挨拶をしたときに、 
マリアの挨拶を聞いて、エリサベトのお腹の中の子どもが 
「おどった」というのです。 
このとき、エリサベトは身ごもって半年ほどでした。 
それは、母親がお腹の中の赤ちゃんが動くのを少しずつ感じ始め、 
だんだんとその胎動が大きくなってくる時期のようです。 
このときに、ルカが「おどった」と報告し、 
「胎内の子は喜んでおどりました」(ルカ1:44)と 
エリサベト自身も語っていることから、 
いつも以上に大きな胎動をエリサベトが感じたことがわかるでしょう。 
そうです、主イエスをみごもったマリアと出会ったとき、 
エリサベトのお腹の中にいる子どもが、喜びおどったのです。
それは、とてもとても小さな賛美でした。
しかし、エリサベトがこの小さな声に耳を澄ますことから、
この小さな賛美の声は、周囲に賛美の歌声として広がっていきました。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。

あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、
胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、
なんと幸いでしょう。(ルカ1:44-45)

これから救い主イエスさまを産むことになるマリアに、
エリサベトは、心から祝福の言葉を伝えています。
このエリサベトの喜びに呼応する形で、
マリアは神への賛美を歌い始めました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
(ルカ1:46-47)

これらの賛美は、エリサベトがお腹の中にいる子どもの小さな声に、
耳を傾けたことから始まりました。
簡単に見過ごすことさえ出来た、胎児の喜びの踊りが、 
エリサベトの喜びとマリアの賛美を引き起こしたのです。 
私たちの目には取るに足りないようにも思える喜びが、 
大きな喜びや賛美の声を神は引き起こされます。 
神の救いの業によって、それは引き起こされるのです。 
しかし、この喜びの賛美は、 
エリサベトが小さな声に耳を傾けたから始まったように見えますが、 
エリサベトの行動が賛美の始まりだったわけではありません。 
何よりもまず、神が私たち人間が罪に苦しむ現実に目を留め、 
御自分の独り子を私たちのもとに送ることを計画されたから、 
そして、エリサベトとマリアに目を留めたから、 
喜びの賛美は引き起こされたのです。 
マリアも、エリサベトも、そのことを理解していました。 
エリサベトは言いました。 
「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」てくださったと。 
マリアも言いました。 
「身分の低い、この主のはしためにも 
目を留めてくださった」と。 
そうです、私たちの神は、すべての人を心に留めてくださる方です。 
そして、マリアの歌の中で言い表されているように、 
身分の低い人や飢えた人、貧しい人、そして今苦しむ人たちにこそ、 
目を留めて、憐れみ、救いの手を伸ばしてくださるのが、 
私たちの主である神です。 
まさに、神こそが、小さく、かすかな、弱々しい声に、 
悲しみ、嘆き、失望する声に、耳を傾けてくださる方なのです。 
耳を澄ませば、そのような声は、 
この世界にたくさん溢れていることに気づきます。 
企業の宣伝や、町に流れる音楽、日々の忙しさなどによって、 
かき消されてしまうことがありますが、 
喜びも嬉しさも、また悲しみや嘆きも、 
小さな声かもしれませんが、私たちの身の回りで溢れています。 
私たち人間だけでなく、
神によって造られたすべての被造物もまた、 
神によって造られた、「極めて良い」存在として、 
喜びの声を上げています。 
それと同時に、私たち人間の手によって、 
本来あるべき姿を傷つけられている現実に、うめき声を上げています。 
このような小さな声が集まるとき、 
一体、どのような声が打ち勝つのでしょうか。 
ある人は思います。 
喜びなど、簡単にかき消されてしまうほど、 
悲しみや嘆きの声の方が多いのではないでしょうか、と。 
またある人は思うでしょう。 
現実を諦めた声、不満の声、不安を抱えた声、 
そういう声で溢れているのではないか、と。 
ですから、小さな声に耳を傾けるとき、 
何も良いものが産まれて来ない気がします。 
そうであるならば、現状ではどうにもならないと結論づけ、 
諦めてしまうことでしょう。 
しかし、マリアの歌った賛美に耳を澄ますならば、どうでしょうか。
マリアの歌は、イエス・キリストによって、神の救いが来て、 
私たちから喜びが湧き出てくるようになる現実を告げます。
神は、私たちの叫び声に耳を傾けてくださる方です。
私たちの小さな嘆きの声、悲しみ、諦め、不安、怒り、 
様々な声を聞いてくださる方です。 
私たちの声を聞いた上で、神は私たちに目を留めてくださいます。 
そして、私たちの悲しむ現実を覆すために、 
罪を赦し、復活の希望を与え、神の国に招くために、 
神はイエスさまを送ってくださったのです。 
この日、エリサベトのお腹の子である、 
バプテスマのヨハネは、おどることによって、 
イエスさまを通してこの世界に与えられる喜びを告げました。 
この小さな賛美が、すべての人にとっての喜びを予告したのです。 
だから、私たちもこの小さな賛美に耳を傾け、 
神がイエスさまを通して、すべての人に喜びを与えてくださったことを 
しっかりと見つめましょう。 
そして、マリアとエリサベトのように、 
この小さな賛美に、私たちの賛美を重ねましょう。 
喜ぶべきことを共に心から喜びつつ、神を賛美するとき、 
その賛美は大きな賛美へと変えられていきます。 
やがてその喜びの賛美は、悲しみや嘆き、諦めや不安を飲み込み、 
キリストにあって救いが与えられた喜びへと私たちを誘うことでしょう。 

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