説教#248:「背負い、担う神」
「背負い、担う神」 聖書 イザヤ書 63:7-9、ヘブライ人への手紙 2:10-18 2018年 12月 30日 礼拝、小岩教会 この1ヶ月の間、私たちは主イエスの誕生を待ち望み、 そして祝ってきました。 人間となられた神の子を通して、 神が私たちと共にいてくださることを私たちは喜びました。 でも、きょう、改めて立ち止まって思い巡らしたいと思うのです。 神が私たちと共にいてくださるとは、 具体的にどういうことなのでしょうか。 さきほど読んでいただいた、預言者イザヤの言葉を通して、 私たちはその驚くべき恵みを知ることが出来ます。 かつてイザヤは、イスラエルの民に向かってこのように語りかけました。 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を 主がわたしたちに賜ったすべてのことを 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み 憐れみと豊かな慈しみを。(イザヤ 63:7) この言葉は、神の愛や神の力に疑問を抱き、 「主の手が短くて救えないのではないか」と叫んだ人々に向かって、 イザヤが語った言葉です。 「神はなぜこんなにも辛く、苦しい中を 私が歩むことを許されるのだろうか? 現実の悲しみや悩みから私たちを救い出すほどの力が 神にはないのではないだろうか? 社会の悪や、私たち自身の弱さの前で無力な私たちを 力づける力など、神にはないのではないだろうか?」 そのような思いを込めて、人々は、 「主の手が短くて救えないのではないか」と叫んでいたのです。