説教#204:「私たちの旅路は神の憐れみで満ちている」

「私たちの旅路は神の憐れみで満ちている」 
聖書 申命記 8:1-10、マタイによる福音書 15:29-39 
2018年 2月 11日 礼拝、小岩教会 

この日も、いつものように、
イエスさまのもとにはたくさんの人々がやって来ました。
この時、イエスさまのもとに集まった人々は、それぞれ、
自分たちの身の回りにいる
病や身体の不自由さで苦しむ人々を、
イエスさまのもとに連れて来たそうです。
私たちの手元にある、日本語訳の聖書では、
「イエスの足もとに横たえた」(マタイ15:30)
と記されていますが、
ここで「横たえた」と訳されている言葉は、
「投げ捨てる」という少しきつい意味をもっています。
もちろん、文字通り、人々がイエスさまの足元に
病人たちを投げ捨てたわけではないと思います。
次から次へと、絶え間なく、
病人たちがイエスさまのもとに連れて来られた。
きっと、そのような様子をマタイは描いているのでしょう。
そのように、次から次へとやって来る病人たちに、
イエスさまは急ぎつつも、しっかりと関わりを持ち、
彼らの病や身体の不自由さを癒やされました。
そして、それを見た人々は驚き、神を賛美したと、
マタイは報告しています。
しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。
イエスさまは、弟子たちを集めてこのように言われたのです。 
「群衆がかわいそうだ」(マタイ15:32)と。
そこにいた人々は、どのような人たちだったでしょうか?
そこにいたのは、イエスさまの噂を聞いて、
イエスさまが起こす奇跡に期待して、集まった人たちでした。
その中には、病に苦しむ友人や愛する家族を癒してもらうために、
イエスさまのもとに連れてきた人たちもいました。
彼らは、自分の愛する人々が癒された光景を見て、
心から喜んでいました。
連れて来られた身体の不自由な人たちだってそうです。
今まで、口がきけなかったのに、言葉が与えられた。
耳が聞こえなかったのに、聞こえるようになった。
目が見えなかったのに、見えるようになった。
歩けなかったのに、歩けるようになった。
癒されることなど諦めていたのに、
イエスさまと出会ったとき、イエスさまが癒やしてくださった。
それは、踊り出したいほど、喜ばしいことだったと思います。
でも、そんな彼らを見て、イエスさまはこう言われたのです。
「群衆がかわいそうだ」と。
新約聖書はもともギリシア語で書かれたものですが、
もともとの言葉で読んでみると、
「私は群衆を深く憐れんでいる」
「この群衆に私は心を動かされる」と、
イエスさまは弟子たちに言われたことがわかります。
なぜ、イエスさまは、ご自分のもとに集った人々を見て、
彼らを憐れみ、心動かされたのでしょうか。
その理由をイエスさまは、弟子たちにこう語ります。

もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
空腹のままで解散させたくはない。
途中で疲れきってしまうかもしれない。(マタイ15:32)

確かに、イエスさまのもとに集まった、
病を患っている人々や身体の不自由な人々は、
イエスさまに癒やされたおかげで、
抱えていた深刻な問題が解決されました。
でも、だからといって、イエスさまと出会えば、
抱えている問題のすべてが
すぐさま解決されるわけないのです。
イエスさまのもとに集まった人々は、
人里離れた場所で、3日間もイエスさまと一緒にいたため、
食べる物が手元になくなってしまいました。
空腹のまま帰ろうとするならば、
家に帰る前に疲れ切って倒れてしまうかもしれません。
イエスさまは、ご自分のもとに集まった人々が、
病を癒されるだけで良いとは考えませんでした。
集まってきた目的が達成されさえするならば、
イエスさまの側からは、
他に何もする必要がないとも考えませんでした。
イエスさまは、空腹を覚え、疲れた人々を見て、
心動かされ、彼らを憐れむ心を抱きました。
そしてこの時、イエスさまは弟子たちの手元にある
7つのパンと少しばかりの魚を弟子たちから受け取り、
それを祝福して、 そこにいた群衆に分かち合わうことを通して、
その場にいるすべての人々を養われました。 
このように、イエスさまにとって、人々を憐れむということは、
単に、誰かをかわいそうに思ったり、同情するといった、
心の問題ではありません。
イエスさまにとって、憐れみとは、
実際に、行動を起こすことです。
目の前で苦しみ、嘆いている人々の現状を知った時、
心が動かされて、行動せずにはいられない。
それが、イエスさまが、この時の群衆をはじめ、
私たち一人ひとりに対して抱いておられる憐れみなのです。
このとき、イエスさまの前に集まっていた群衆と同じように、
私たちの人生は、ひとつ問題が解決したとしても、
また新しい困難がすぐそこに待ち受けているものです。
いえ、時には、困難や苦しみ、嘆きや葛藤の連続ともいえます。
しかし、そのような中にあっても、
神の憐れみは、私たちの生涯にいつも注がれ続けます。
ただ一度切り、特定の大きな問題のみに、
神が関わり、神が私たちを憐れむというわけではないのです。
良い時にも、悪い時にも、
私たちの生涯にわたって、
神は私たちに憐れみの心を抱き、
私たちのことを見て、心を動かされ、
行動を起こしてくださるのです。
マタイは、きょうの物語で、ふたつのことを通して、
そのことを私たちに示しているのです。
ひとつは、空腹でいるこの群衆が、
イエスさまの起こした奇跡を通して、
養われ、満腹になったというこの奇跡の起こった場所が、
「人里離れたところ」と記されていることです。
ここで用いられているギリシア語は、
「荒れ野」という意味の単語です。
つまり、マタイは明らかに、この物語を通して、
旧約聖書の時代に、イスラエルの民が
エジプトを脱出した後に荒れ野をさまよった、
あの時代の経験を思い起こすようにと、招いているのです。 
出エジプトの時代、荒れ野において、
神はイスラエルを養ってくださいました。
食べる物も十分に確保することが出来ない、
荒れ野という場所において、
神は毎日、マナという名前の食物を彼らに与えました。
それは、彼らが約束の地にたどり着くその日まで続きました。
そう、イスラエルの民が経験した荒れ野での旅は、
神の憐れみは、絶えず注がれ続けることを、
私たちに証言しているのです。
たとえ私たちの目には、希望も感じられないような、
荒れ果てた場所であったとしても、
あの日、イスラエルという信仰者の群れに
憐れみを注ぎ続けた神は、
今も、私たちに憐れみを注ぎ続けてくださるのです。
そして、マタイは、人里離れた場所で、
イエスさまが4000人もの人々を養うために、
パンを裂き、奇跡を起こしたこの出来事を通して、
最後の晩餐の席を思い起こすように招いています。
イエスさまが十字架にかけられる前夜、
弟子たちと一緒に食事をしたとき、
イエスさまはパンを祝福して、
それを裂いて、弟子たちに配りました。
この出来事と、きょうの物語を重ね合わせることを通して、
マタイは、生涯にわたって、
神の憐れみが私たちに注ぐことを伝えようとしているのです。
私たちが今、「聖餐式」と呼ぶものを、
イエスさまから守り続けるようにと命じられたものとして、
教会はその歩みの初めから今日に至るまで、
大切に守り続けてきました。
私たちは聖餐を通して、
神が私たちのために行ってくださったことを
何度も何度も確認しています。
すべての人の罪をゆるすため、
主イエスが十字架にかかり、死なれた、ということを。
神がイエスさまを死者の中からよみがえらせたことを通して、
復活の命にあずかる希望が、私たちに与えられたことを。
主キリストにあって、
教会は、ひとつの体であるということを。
そして、私たちが天の御国にたどり着くその日まで
神が羊飼いのように、私たちを養い続けてくださることを。
私たちは、聖餐を受け続けることを通して、
何度もそのことを再確認し、神の恵みを受け取っているのです。
そうです、羊飼いである、私たちの主なる神は、
遠い場所から、私たちのことを、
ただ立って、眺めている方なのではありません。
神は、私たちを愛するあまり、心動かされ、身を乗り出し、
私たちのことを見つめておられます。
いいえ、神は見ているだけでは満足できず、
実際に、手を伸ばされるお方です。
事実、イエスさまを私たちのもとに送ることを通して、
私たちの罪を赦し、救いの希望を与えてくださいました。
私たちが人生の旅路の途中で疲れを覚えるとき、
イエスさまはこう言われます。
「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう」。
そう言って、私たちに手を取って、
再び立ち上がり、歩み出す力をイエスさまは与えてくださるのです。
また、神は、聖霊なる神を私たち一人ひとりに与え、
私たちと共にいることを選んでくださいました。
そうです、私たちを憐れみ、私たちのために心動かされ、
私たちのために行動を起こしてくださる方は、
今も、そしてこれからも、私たちと共に歩んでくださいます。
そして、聖霊なる神を通して、
イエスさまは私たち一人ひとりと一緒にいて、
私たちに憐れみを注ぎ続けてくださっています。
それは、私たちの生涯において、変わることのない事実なのです。
ただ、そうは言っても、
時に、神の憐れみがわからないことが私たちにはあります。
でも、そんな時は、イスラエルの民が約束の地にたどり着くまで、
神が、毎日、毎日、マナを与えたことを思い出してみてください。
マナ。
その意味は、「これ、何?」です。
イスラエルの民は、約束の地にたどり着く日まで、
自分たちの置かれている境遇について、
神の養いや神の導きを受けながらも、
神の前で何度も何度も問い続けたのだと思います。
「一体、この意味は何なのか?」
「この出来事の意味は、私たちにとって、何なのか?」と。
私たちだって、生きている上で、
「これ、何?」と、何度も問いかけたくなります。
多くの場合、すぐにその意味も、理由もわかりません。
常に、「これ、何?」なことばかりです。
でも、神の恵みによって、
私たちにとって確かなことがあります。
それは、イスラエルの民が約束の地に辿り着いたように、
私たちが天の御国にたどり着く日まで、
神は、私たちを憐れみ、
私たち一人ひとりの歩みを導いてくださるということです。
人生という、私たちの歩むこの旅の途上において、
神は少しずつ、「これ、何?」の意味を
明らかにしてくださることでしょう。
でも、中には、全く意味がわからない苦難や悲しみもあります。
でも、天の御国に私たちがたどり着く時、
神は、私たちが何度も何度も問い続けていた、
「これ、何?」の意味を明らかにしてくださいます。
使徒パウロは、その確信について、こう書いています。
「神を愛する者たち、
つまり、御計画に従って召された者たちには、
万事が益となるように共に働くということを、
わたしたちは知っています」(ローマ8:28)と。
これは、私たち一人ひとりに与えられている、確かな確信です。
ですから、天の御国に受け入れられるその日、
私たちは、必ず、心から確信することが出来るのでしょう。
「神の憐れみは、私たちの生涯において、
確かに、溢れるほど注がれていた」と。

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