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説教#214:「からし種ひと粒ほどの信仰を与えてください」

「からし種ひと粒ほどの信仰を与えてください」 聖書 創世記 18:16-33、マタイによる福音書 17:14-20 2018年 4月 29日 礼拝、小岩教会 イエスさまの弟子たちは、四六時中、 いつもイエスさまと一緒だったわけではありませんでした。 マタイによる福音書の10章によれば、 弟子たちはイエスさまによって選ばれ、 「天の国は近づいた」と宣べ伝えるために、 町や村へと遣わされて行きました。 イエスさまは言います。 「あなた方が遣わされた場所で、 あなた方が出会う、病人たちの病をいやしなさい。 悪霊を追い払いなさい」(マタイ10:8参照)と。 このような使命を与えられた弟子たちは、 イエスさまと行動を共にしつつも、 時には、その与えられた使命に従って、 天の国を人々に宣べ伝えたのです。 さきほど読んでいただいた、 マタイによる福音書17章の物語に目を移してみると、 この時、弟子たちはふたつのグループに分かれて 行動を取っていたことがわかります。 ひとつ目のグループは、 ペトロとヤコブとその兄弟のヨハネ。 彼らは、イエスさまに連れられて、 高い山に登り、そこで不思議な体験をしました。 彼らはイエスさまが 栄光に輝く姿へと変えられた様子を目撃しました。 また、イエスさまが エリヤとモーセと語り合う光景に立ち会いました。 そして、彼らは、神の声を聞きました。 自分たちに語りかける神の声を聞いた時、 彼らは恐れを覚えましたが、 この時のすべての経験を通して、 イエスさまがどのような方であるかを知り、 この3人の弟子たちは大きな励ましを受けました。 特に、「あなたは生ける神の子、メシア」と、 イエスさまに告白したペトロは、 自分の信仰の告白により強い確信を得たと思います。 このように、大きな励ましを受けた3人の弟子たちは、 他の弟子たちと合流するために、 イエスさまと一緒に山を降りて行きました。 仲間の弟子たちがいる場所へ行ってみると、 そこには、たくさんの人が集まり、 何やら騒がしくしていました。

説教#213:「その時、主と同じ姿に変えられる」

「その時、主と同じ姿に変えられる」 聖書 イザヤ書 53:1-5、マタイによる福音書 17:1-13、詩121 2018年 4月 22日 礼拝、小岩教会 ペトロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ。 この3人の弟子たちは、とても不思議な経験をしました。 イエスさまに連れられて、高い山へ登ると、 イエスさまの姿が彼らの目の前で変わり、 「顔は太陽のように輝き、 服は光のように白くなった」のです(マタイ17:2)。 そして、気がつくと、イエスさまと一緒に、 モーセとエリヤがいて、彼らが語り合っているのです。 ペトロにとって、この時の光り輝くイエスさまは、 まさに天に属する存在のように思えました。 ユダヤ人たちの伝承によれば、 イエスさまと一緒に語り合う、モーセやエリヤという、 あの偉大な信仰者たちもまた、天に属する存在です。 そのため、ペトロは感動のあまり、 「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と語り、 イエスさまにこのように提案します。 お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。 一つはあなたのため、一つはモーセのため、 もう一つはエリヤのためです。(マタイ17:4) ペトロのこの提案は、イエスさまにとって、 ふたつの意味で受け入れることが出来ないものでした。 ひとつは、イエスさまが山に登る前に、弟子たちに、 ご自分の死について語られたことと関係があります。 ペトロは、相変わらず、イエスさまが語った言葉を 受け入れることが出来ていませんでした。 イエスさまが苦しみ、殺されることになることなど、 簡単に受け止めることは出来ません。 苦しみを受け、人々から蔑まれ、 死ぬことになるイエスさまの未来よりも、 ペトロは、イエスさまが栄光のうちに輝いている、 今、この時の姿をずっと見ていたかったのです。 だから、少しでも、イエスさまが栄光に輝く時が続くように、 「仮小屋」を建てる提案をペトロはしたのです。

説教#212:「私たちの望みか?神のみ心か?」

「私たちの望みか?神のみ心か?」 聖書 エレミヤ書 15:15-21、マタイによる福音 16:21-28 2018年 4月 15日 礼拝、小岩教会 「ペトロ、あなたは神のことを思わず、 人間のことを思っている」。 まさか自分がこのようなことを イエスさまから言われることになるとは、 ペトロ自身考えていなかったと思います。 ペトロは、その直前にイエスさまが語ったことが どうしても受け入れられませんでした。 「イエスさまがエルサレムで、 長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて 殺されることになるなんて! ありえない! そのようなこと、信じられない!」 神の子であり、救い主メシアであるイエスさまに、 そのようなことが起こるなど、 ペトロにとって、あってはならないことだったのです。 ですから、ペトロは、 イエスさまのことを考えて、語ったつもりでした。 「主よ、とんでもないことです。 そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と。 「とんでもないことです」と訳されている言葉は、 ギリシア語から直訳すると、 「あなたに憐れみがあるように」と訳すことができます。 ご自分の苦難や死について語りだすイエスさまを心配し、 イエスさまの悩みや悲しみを真剣に受け止めて、 ペトロはイエスさまに語ったつもりでした。 「神があなたを憐れんでくださり、そのような事が あなたに起こらないようにしてくださいますように!」と。 しかし、イエスさまの言葉を借りるならば、 どうやらペトロは、神の思いに心を向けず、 人間的な思いや事柄に心を向けていたようです。 「ペトロよ、あなたは人間の事柄に心を向けてしまっている。 私は、神の計画に従って、 これから十字架の苦難に向かって歩もうとしている。 神の子であるメシアが苦しみ、命を落とすこと。 それが神の計画なのだ。 神の事柄に目を向けなさい」と、 イエスさまはペトロに語られたのです。 このとき、イエスさまがペトロに語った言葉は、 私たち一人ひとりにも深く関係のある言葉だと思います。 きょうの物語を通して、神は私たちに問いかけているのです。 「あなたは

説教#211:「天の国の鍵」

「天の国の鍵」 聖書 イザヤ書 22:20-23、マタイによる福音書 16:13-20 2018年 4月 8日 礼拝、小岩教会 ある時、イエスさまは弟子たちにこのように問いかけました。 人々は、人の子のことを何者だと言っているか。(マタイ16:13) 「人の子」とは、イエスさまが自分のことを指す場合に、 好んで用いられた表現です。 つまり、イエスさまは、「周りのみんなが、 私のことをどのように言ってるのか知ってますか?」と、 弟子たちに尋ねられたのです。 たしかに、イエスさまについての噂は、 多くの人たちのもとに広がり、 ガリラヤやその周辺で暮らす人たちをはじめ、 ユダヤの国の中で話題となっていたため、 人々はイエスさまについて色々と話していたことでしょう。 イエスさまの語った教えを聞いたある人は、 イエスさまのことを律法を教える教師だと思いました。 またある人は、イエスさまのことを、 癒やしの奇跡を行う人だと考えました。 疑い深い人たちは、イエスさまについて、 悪霊の力を用いて、悪霊を追い払う危険人物だと考えていました。 イエスさまの故郷であるナザレの人たちは、 彼は大工の息子なんだと話しつつ、 そんな彼がなぜこのような活動をしているのか 全く理解できないとぼやきます。 人々がイエスさまについて話すこのような声は、 当然、弟子たちの耳に入ってきたことだと思います。 イエスさまについて、良い反応や評価を聞くこともあれば、 中には悪い反応や評価もありました。 そのように人々の間で色々な反応がある中で、 弟子たちは、イエスさまに対する人々の期待が伝わる言葉を選び、 イエスさまに伝えました。 「イエスさま、ある人たちは、あなたのことを見て、 洗礼者ヨハネがよみがえって活動していると考えています。 またある人は、預言者エリヤやエレミヤの再来と考え、 あなたがこれからなそうとしている働きに期待をしています」と。 このとき、イエスさまは、世間の自分に対する評価が気になったから、 自分が人々からどのような人間として見られているのかを 弟子たちに尋ねたわけではありません。 イエスさまは、弟子たちにこのように言われたのです。 「確かに、あなた方の周りの人々は、 私についてこのように語ってい

説教#210:「十字架と復活こそ、希望のしるし」

「十字架と復活こそ、希望のしるし」 聖書 ヨナ書 2:1-11、マタイによる福音書 16:1-12 2018年 4月 1日 礼拝、小岩教会 「天からのしるしを見せてください」。 そう言って、イエスさまに近づいてきた人々がいました。 彼らは、「ファリサイ派」と「サドカイ派」の人々であったと マタイは記しています。 イエスさまの生きた時代、ユダヤの国には、 いくつかのグループが存在していました。 その中でも代表的で、人々の間で影響力のあったグループが、 ファリサイ派とサドカイ派と呼ばれる人々でした。 しかし、ファリサイ派とサドカイ派の間には、 共通点よりも、違う考えの方が多かったようです。 たとえば、ファリサイ派は死者の復活を信じている一方で、 サドカイ派は死者の復活はないと信じていました。 特に、ファリサイ派の人々は、「口伝律法」と呼ばれる、 長い時間をかけて積み重ねてきた律法の解釈や議論を大切にしました。 一方で、サドカイ派はそのような「口伝律法」を認めていませんでした。 そのため、ファリサイ派とサドカイ派の間には、 常に対立があったようです。 でも、それなのに、きょう開かれた物語では、 ファリサイ派とサドカイ派の人々が一緒に、 イエスさまのもとに近づいて来て、 「天からのしるしを見せてください」と質問しているのです。 対立関係があるにも関わらず、 彼らが手を取り合って、イエスさまのもとに来た理由は、 明らかに、イエスさまに対する敵意を彼らが持っていたからでしょう。 イエスさまのことを陥れるためであれば、 たとえ対立関係にある人々であっても、 彼らは一緒に手を取り合うことが出来たのです。 それでは、この時に、彼らがイエスさまに求めた、 「天からのしるし」とは一体、何を意味するのでしょうか?