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説教#222:「気前の良い神」

「気前の良い神」 聖書 出エジプト記 16:2-5、マタイによる福音書 19:27-20:16 2018年 6月 24日 礼拝、小岩教会 何だかこれって、不公平だと思わないでしょうか? 私たちが望んでいるのは、すべての人に公平である神の姿です。 そして、神がすべての人を平等に取り扱うことです。 でも、イエスさまが語るこのたとえ話は、 不公平が語られているように思えるのです。 イエスさまが語るこのたとえ話において、 たった一時間だけぶどう園で働いた人たちは、 「ふさわしい賃金を払おう」と、 ぶどう園の主人から約束されていました。 ほんの僅かな時間しか働けないのだから、 1時間分の給料をもらえればそれで十分だと思っていたでしょう。 しかし、彼らの手に渡されたのは1デナリオン。 つまり、一日分の労働賃金でした。 彼らは、驚くほど多くの報酬を与えられたことに喜びを隠せません。 そんな彼らの喜ぶ姿を見ていた人たちは期待し始めます。 特に、朝早くから働き始めた人たちならば尚更です。 「あの主人は、なんて気前が良いんだ! 1時間しか働いていない彼らが1デナリオンももらえるなんて! ということは、朝早くから苦労して働き続けてきた自分たちは、 きっと、より多くの報酬を受け取れるはずだ!」 そのようなことを考え、期待に心を弾ませながら、 彼らは自分の順番を待っていました。 そして、いよいよ自分たちの順番が回ってきました。 手渡された金額はいくらだったでしょうか……?

説教#221:「新しい世界で生きる」

「新しい世界で生きる」 聖書 出エジプト記 20:12-17 、マタイによる福音書 19:13-30 2018年 6月 17日 礼拝、小岩教会 イエスさまが、子どもたちをご自分のもとに招き、 「天の国はこのような者たちのものである」と語った物語の直後に、 マタイは、ある一人の青年が登場する話を記しています。 この青年は、イエスさまにこのように尋ねました。 永遠の命を得るには、 どんな善いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16) 「永遠の命」とは、この地上での命が永遠のものであり、 死ぬことはない、というような意味のものではありません。 それは、神から与えられる命であり、 生き生きとした命にあふれる、 神との永遠の関係を意味する言葉です。 どうやらこの青年は、純粋に、心から、 永遠の命を得る者となりたいという願いをもって、 イエスさまのもとに来たようです。 そんな彼の質問に対して、イエスさまは、 「善い方はおひとりである」(マタイ19:17)と答えて、 神だけが善い方であることを伝えています。 その上で、私たちを命へと導きたいと願っておられる、 神の御心が、神が良しとされることが、 律法に記されているのだから、 律法を守るようにと促すのです。 「もし命を得たいのなら、 掟を守りなさい」と(マタイ19:17)。 でも、「掟を守れ」と言われても、 具体的にはどのようなことかはわかりません。 ですから、この青年は「どの掟ですか?」と イエスさまに尋ねたのです。

説教#220:「神が与えた道しるべ」

「神が与えた道しるべ」 聖書 創世記 2:18-24、マタイによる福音書 19:1-12 2018年 6月 10日 礼拝、小岩教会 きっと誰もが心のどこかで「理想」を抱いていると思います。 理想の自分、理想の生き方、 理想の社会、理想の家庭、 そして、理想の教会という具合に。 もしもすべての物事が、私たちの抱く理想通りになるならば、 どれほど喜ばしいことでしょうか。 でも、私たちは理想を掲げた後、 自分たちの置かれている状況を見るたびに、 その現実を見つめるたびに、失望し、落胆します。 理想通りにはいかない。 理想とはかけ離れている。 いや、もしかしたら、 日に日に理想から遠ざかっているかもしれないからです。 その意味で、私たちは、 理想と現実の狭間で生きているといえるでしょう。 でも、そもそも、私たちの理想の歩みとは、 一体どのような歩みなのでしょうか? 言い換えるならば、一体、何が神に喜ばれ、 何が善いことなのでしょうか……?(ローマ12:2参照) きょう開かれた福音書の物語において、 イエスさまはファリサイ派の人々と出会い、 彼らと律法の解釈をめぐる論争を行っています。

説教#219:「私たちは何度赦されたのだろうか?」

「私たちは何度赦されたのだろうか?」 聖書 創世記 4:23-24、マタイによる福音書 18:21-35 2018年 6月 3日 礼拝、小岩教会 主よ、何回赦すべきでしょうか?(マタイ18:21) 何と切実な問いかけでしょうか。 そうです、私たちにとって、 誰かを赦し、誰かから赦されることは、生涯の課題です。 私たちは、誰もが赦しを必要としています。 気づかぬうちに、誰かを傷つけているかもしれません。 何気なく口にした言葉が、 共に生きる仲間たちに深い傷を与えることがあります。 良かれと思って行動した結果、誤解を与えたり、 誰かの怒りを買ったりすることだってあります。 でも、誰かを傷つけることを恐れて生きることは、 とても息苦しいことです。 ですから、私たちは些細な傷であれば、お互いに目をつぶり、 「全く、しょうがないな」と言って、 赦し合いながら、毎日の生活を送っています。 もしも、私たちがお互いに赦し合うことに失敗するならば、 関係が壊れてしまいます。 いいえ、どちらか一方が相手を赦すことを拒絶するならば、 関係が悪化するばかりです。 ですから、私たちは、いつも誰かを赦す備えが必要です。 そして、自分自身も赦される必要があります。 私たち人間を造られた神は、 私たちがたった一人で生きていくことが出来るようには、 私たちのことを造りませんでした。 誰かと共に生き、共に生きるその誰かとの関係性を喜ぶ存在として、 神は私たち人間を創造されたのです。 ですから、私たちは誰かと共に生きることが必要です。 家族や仲間たちと一緒に生きることが必要です。 でも、残念ながら、共に生きていく上で、 関係を損ねてしまうことが時としてあります。 口喧嘩したり、 誤解してしまったり、 対立してしまったり、 理解し合えなかったり、 お互いに背を向け合うことがあるのです。 ですから、私たちには赦しが必要なのです。 この私が、目の前にいるあの人を赦す準備が必要なのです。 そして、この私が、頭に思い描いているあの人から、 赦される必要があるのです。 だから、私たちは、神に祈り求めます。 「主よ、私