説教#227:「信仰が祈りを生み、祈りが生活となりますように」
「信仰が祈りを生み、祈りが生活となりますように」 聖書 エレミヤ書 8:8-13、マタイによる福音書 21:18-22 2018年 7月 29日 礼拝、小岩教会 きょう私たちに与えられた、福音書の物語について、 私はずっと疑問を抱いていました。 「空腹を覚えたイエスさまは、 なぜいちじくの木を枯らしたのだろうか?」と。 マタイ福音書の前半に記されていた物語を思い出してみてください。 荒れ野で40日もの間、断食をして、空腹を覚えていたとき、 「石をパンに変えれば良いじゃないか?」と誘惑を受けても、 イエスさまはその誘いには応じなかったではありませんか。 イエスさまは、自分自身を満足させるために 奇跡を行うことはありませんでした。 それなのに、空腹を覚えていたこの時、 なぜイエスさまは、いちじくの木を枯らしたのでしょうか? まるで、きょうのこの物語は、 お腹が空いている時に見つけたいちじくの木に、 実がなっていないことを知って、不機嫌になって、 イエスさまがいちじくの木を枯らしてしまったかのように見えます。 イエスさまがエルサレムを訪れた時期は、 毎年3月末から4月頃に行われる、 過越祭と呼ばれる、ユダヤのお祭りの時期でした。 いちじくの木に実がなるのは、夏の初めと秋の2回ですから、 本来、いちじくが実る季節ではありません。 それなのに、いちじくの木は葉をつけて、 いかにも実があるように見えました。 ということは、外見は、実があるように見えるのに、 実際は実がないことに、イエスさまは怒りを覚えたのでしょうか? いずれにせよ、イエスさまの行動は、 自分勝手な理由のように思えてきます。 果たして、そのような自分勝手な理由で、 イエスさまはいちじくの木を枯らしてしまったのでしょうか? また、もしもそうでないのならば、 一体、なぜイエスさまはこのような行動を取ったのでしょうか?