説教#7:「丘の頂に立って」(たまちゅう合宿#2、日大合宿#4)

#2「丘の頂に立って」(説教音源:たまちゅう合宿日大合宿
聖書 出エジプト記17:8-13、エペソ6:10-18
日時 2011年9月17日(土)
場所 たまちゅう合宿(相原キリスト集会)
*この説教は日大KGK夏合宿での説教(#4「丘の頂で」、ブログ未掲載)に、テーマに合わせて手を加えたものです。

【はじめに】
私たちは今日、合宿を終え、それぞれの家へと帰ります。
そこには日常が待っています。
私たちの日常には、日々多くの戦いがあります。
自分自身の内に、罪との戦いがあります。
多くの誘惑とも出会います。
また、友人関係の中に、信仰と現実との葛藤という戦いがあります。
昨夜、私たちは自分たちが約束の民として召されていることを確認しましたが、
この世に遣わされている私たち、約束の民であるキリスト者が、
問題や試練を免れるという約束は、聖書のどこにもありません。
信仰の決断を迫られるという戦いもあるでしょう。
時に信仰を守るための戦いもあります。
福音のもたらす価値観とは余りにも違う日常がそこにあります。
私たちの日常は戦いで満ちています。
私たちがこの世に生きる限り、絶えず戦いの中に私たちは身を置いているのです。
戦いは、内にも外にもあります。
このような日常に私たちはこれから遣わされていくのです。
その上で、合宿最終日の今日、私たちはイスラエルとアマレクの戦いの記事を通して、神の派遣について共に教えられたいと思います。

【神の杖を持ち、丘の頂へ】
エジプトから脱出し、約束の地を目指すイスラエルは、アマレクとの戦いに直面します。
この戦いに際して、モーセはヨシュアに対してこのように言いました。
男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂に立つ。(出エジ17:9)
神の杖を手に持ち、丘の頂に立つ、それがこの戦いにおけるモーセの役割でした。
かつて神は、モーセに杖で海を打たせて、葦の海を二つに分ける奇跡によって、イスラエルの民をエジプトの手から救い出しました。
「神の杖」は、イスラエルを導くという事の象徴です。
私達が直面する困難の中にあっても、神は絶対的主権を持って導いてくださるのです。
そのような神が共にいる、それが神の杖を手に持ったことの意味でしょう。

そして、モーセは丘の頂に立ちました。
神はモーセを戦場ではなく、丘の頂という、イスラエルの民のための祈りの場へと導かれたのです。
このアマレクとの戦いの記事で特徴的なのは、
私たちの関心が戦っているヨシュアではなく、丘の頂で手を上げて祈っているモーセに向けられていることでしょう。
この戦いの結果を左右するのは、ヨシュアの働きではなく、モーセの祈りでした。
イスラエルのためにとりなす、モーセの祈りがこの戦いを左右したのです。

【戦いの最前線〜丘の頂で】
そのことが顕著に現れているのが17:11でしょう。
モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった。(出エジ17:11)
ここには祈りの力強さが記されています。
モーセが手を上げている間、イスラエルのために両手を上げとりなしの祈りをしている間、イスラエルは優勢になりました。
反対に手を下ろすと、つまり、モーセがとりなしの祈りに疲れ、祈ることをやめると、
アマレクが優勢になり、イスラエルが危機に陥ったのです。
この戦いを左右していたのは、戦いに出て行ったヨシュアでもなく、敵のアマレクの人々でもなく、丘の頂にいたモーセの祈りだったのです。
この戦いの最前線は、ヨシュアのいた戦場ではなく、この祈りの場である丘の頂でした。
この丘の頂から戦場全体を見渡し、モーセは戦いの中で最も祈りを必要としている人や場所のために、祈りを捧げました。

【祈り支え合う交わり】
この丘の頂に登ったのはモーセだけではありませんでした。
アロンとフルもモーセと一緒にこの場所にいました。
共にイスラエルのため、とりなしの祈りを捧げたのです。
しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。(出エジ17:12、新改訳第三版)
ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(新改訳第三版)とあります。
こう約束されているように、神様は確かに私達に最善の時を用意してくださっていると、私達は信じています。
しかし、1年や2年、5年、10年、20年と、時に待たされる事があるのかもしれません。
苦しい忍耐の期間を強いられる事があるのです。
そんなとき、私達の手は、モーセのように重くなるのだと思います。
誰もが祈ることに疲れを覚えるときがあるでしょう。
いや、慣れていない人は、そもそも祈ることにも困難を覚えたりもします。
絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)と聖書では命令されていますが、
私たちの弱さを知っている神は、共に祈る仲間を備えてくださっています。
だからこそ、一人では祈り続けることが難しいときでも、祈るべき祈りを絶やさず捧げ続ける事が出来るのです。
モーセにはアロンとフルという助けが備えられていました。
彼らはモーセの足下に石を置き、腰掛けさせました。
この丘の頂に腰を据えて、共に祈り続けようと彼を励ますのです。
両脇から彼の腕を支え、手が下がらないようにしました。
彼らがモーセの祈りを支えました。
彼らの助けもあって、モーセの手は日が沈むまで、上げられ続けました。
私たちひとりひとりにもこのような祈りの助け手が必要なのではないでしょうか。

少し私自身の話をさせてください。
私は4年間の学生生活を振り返ったとき、その中で一番自分にとって尊い時間は、KGKを通して与えられた日大KGKのメンバーとの祈り会、特に学部での祈り会でした。
「学生時代の一番の思い出は?」と聞かれたら、きっとこの「祈り会」と答えることでしょう。
週1回、私がいつも通っているあのキャンパスのあの部屋で、3、4人で祈り合っていました。
時には2人で祈る時もありました。
時には1人で祈る時もありました。
毎週一回、あの部屋で祈り続けることを許されました。
本当に感謝な交わりの時でした。
そして、今もその祈りの輪は存在しています。
今回のこの合宿も、日大だけではなく、教会や同期会、家族など
これまで築いてきた祈りの輪の中で祈られ、準備を進めてきました。
一人では祈り続けるのが困難なときも多くあります。
そのような時でさえも、彼らと共に祈り合えたことにとても感謝しています。
ブロックや学内など、ここで与えられているメンバーが、良き祈りの友となって、生涯支え合える交わりをもち続ける事が出来たらと心から願っています。

【モーセとして〜とりなす】
さて、私たちはモーセのように戦いの最前線が祈りだと知る必要があります。
戦いの中にあり、祈りを必要としているヨシュア、イスラエルの民のためにとりなすように召されています。
祈りを必要としているあの人のために。あの共同体のために。この世界のために。
この学内に集うメンバーのために。
教会に集うメンバーのために。
ブロックや学内、教会の働きのために。
「目をさまして…祈りなさい」(コロサイ4:2)とパウロは言っています。
昼の子ども、光のこどもとして私たちはこの世界を見渡す必要があります。
丘の頂に立ってこの世界を見渡し祈るように、私たちは日々召されているのです。

【アロンとフルとして〜支える】
また、モーセは民のリーダーとして立てられていました。
群れのためにとりなし祈るリーダー、モーセ。
私たちは、彼を支えるアロンとフルのように祈るようにも召されています。
立てられているリーダーのための祈りはとても必要です。
リーダーシップをとる者には多くの誘惑、多くの戦い、多くの葛藤があるからです。
教会の牧師、学内リーダー、それぞれの役員たち、
私たちは彼らのために祈るように召されています。
そして、モーセの必要としている祈りを共に祈った。

【ヨシュアとして〜戦う】
そして、私たちは祈られているヨシュアでもあります。
実際に戦場に赴くヨシュアです。
彼は祈られていることを知っている。
そして、この箇所を読む私たちは、ヨシュアが祈られる必要があったと知っている。
つまり、戦場へと赴く私たちは祈られる必要があります。
祈りに背中を押され、今委ねられている務めへと突き進んで行きます。
私たちを支える祈りとは、教会の祈りでしょう。
そして、学内の友人たちの祈りです。
ブロックの友人たちの祈りです。
戦場へと向かう私たちは、祈られる必要があります。

【祈りは絆】
祈りは私たちの絆です。
今年の中央線ブロックのテーマは「祈りの交点」、 多摩ブロックのテーマは「神の家族」 と聞いていますが、
この祈りにおいて、私たちは違う場所にいながらも、交わりを持つのです。
そして、重荷があるが、自分が実際にその場所へ行けなくても、
私たちは祈りをもって、彼と共にあるのです。
愛する神の家族が、赴く戦場へと共に駆けつけることができなくとも、
私たちは彼女のために祈るのです。
モーセのように、丘の頂に立ち、彼らを祈り支えるのです。
祈りが、遣わされる地でバラバラの場所にいる私たちひとりひとりをつなぐ絆となるのです。
この固い絆に結ばれた祈りの輪を、私たちは共同体の内に、
学内の内に、ブロックの内に、関東地区の内に形成し、
それぞれの日常へと遣わされていくのです。
祈りによって、渡井は彼と共に、彼の委ねている働きに加わるのです。
共同体(教会)の一員として私たちは召され、使わされているという事実があります。
それを意識するにしても、しなくても、
私たち一人ひとりの働きは共同体と共にあるのです。

【神の武具を取れ】
さて、エフェソ6:14〜18は戦場へと向かう私たちひとりひとりに与えられている言葉です。
私たちは内にも外にも戦いがあります。
実際の戦場は、私たちが日々遣わされている様々な場所です。
それはどこか。
大学、バイト先、家庭、サークルなど、多くの場所へ私たちは主に遣わされていきます。
そして、その場所で、信仰の葛藤、誘惑、罪を犯させようとする悪の力など霊的な戦いがあります。
だから、私たちは神のすべての武具を取る必要があります。
神のすべての武具、それは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備えであるはきもの、信仰の大盾、救いのかぶと、御霊の与える剣である神の言葉です。

真理の帯を締めているでしょうか。
帯は私たちの服を引き締めます。
そして、動きやすくします。
自由にするのです。
真理によって自由とされるのです。
私たちはキリストによって、自由とされているのです。
真理によって、自由されているでしょうか。
遣わされている場所で、自由とされているでしょうか。
罪によって支配されていないでしょうか。

正義の胸当てをつけているでしょうか。
正義によって、神の義によってこの心が守られる必要があります。
他のものを基準とした正義を振りかざすのがこの世です。
その中で、私たちは神の義を胸に当て、心に抱き、生きているでしょうか。
神の国とその義とをまず求めなさい。
そう、主イエスは言われているのです。

平和の福音の備えをはいているでしょうか。
喜びの訪れを、キリストの訪れを伝えにいく準備を整えているでしょうか。
私たちはこの世へ福音を携えて出ていくようにと召されているのです。

信仰の大盾を持っているでしょうか。
この大盾が試練という矢から私たちを守ります。
信仰とは、常にキリストと密接な人格関係にあることを意味しています。
完全にキリストを信頼し、キリストに寄り添って歩むとき、試練から無事に守られます。

救いのかぶとをかぶっているでしょうか。
救いを思い起こし、感謝を覚えているでしょうか。
このかぶとが過去の罪に対する赦しと、来たるべき日の罪に打ち勝つ力とを与えてくれます。

そして、私たちは神のことばを受け取っているでしょうか。
神のことばは剣です。
防御の武器であるとともに、攻撃の武器でもあります。
つまり、私たちが罪と戦う武器であると同時に、この世の罪と戦う攻撃の武器として与えられているのです。

【祈りこそ最大の武器】
最後にパウロはこのように書いています。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18、新改訳第三版)
まるですべての武具を祈りを持って身につけなさいと言わんばかりです。
そして、それと共に、武器のひとつとして祈りをあげているのです。
祈りはあらゆるものに優った武器だということを、私たちは知らなければなりません。
それはなぜか。
私たちが祈る対象は、全能の神だからです。
すべてを知り、すべてを導き、すべてを支配している神です。
この神に私たちは祈っています。
神が私たちを後ろから守ってくださるのです。
神が私たちを前から引いて、導いてくださるのです。
主よ、導いてください。
主よ、お守りください。
そう神に訴えるとき、神様は私たちにとってもっともよい方法で、彼の計画を実行なされます。

「すべての祈りと願いを用いて」とありますが、これは個人的なことも、そうでないことも祈りなさいという意味です。
どんなことも祈りなさいという意味です。
どんなことも祈っているでしょうか。
そして、どんな時でも祈っているでしょうか。
御霊が私たちの内に自由に働き、祈ることができているでしょうか。
御霊が悲しんでおられることを、喜んでおられることを真に知っているでしょうか。
御霊によって、祈っているでしょうか。
そのためには、絶えず目を覚ましていなければなりません。
目を覚まし、神の前に立ち続けているでしょうか。
眠りを貪っていないでしょうか。
惰性の祈りを捧げていないか。
ただただ、私たちは問われます。

「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし…祈りなさい」と書かれています。
我慢と忍耐の違いについて、以前考える時間があったのですが、
今、私の内に与えられている答えは、時に対する姿勢の違いです。
神の時を信じる姿勢です。
すべての聖徒のために、神の時を信じ、祈る。
我慢はこの時を、自らの時とします。
神の時であるのに、自分がその時を支配しようとするのです。
私たち現代人は、忙しいとよく言いますが、
自らその「時」というものをコントロールしようとしているのです。
忍耐、それは神の時を信じ、待ち望むこと。
神の時を信じ、待ち望み、すべての聖徒のために祈ることが、私たちに求められているのです。

【この世界に遣わされる】
私たちはこの世へと遣わされていきます。
日常へと遣わされていきます。
教会の礼拝が終わるとき、私たちは祝祷をもって派遣されます。
キリストの恵みを携えて、神の愛を携えて、聖霊との親しき交わりを携えて、
私たちは遣わされていくのです。
そして、祈りを携えて、教会の人々の多くの祈りを携えて、
私たちは遣わされていくのです。
行った場所で、多くの人達と出会うのです。
多くの状況と出会うのです。
そこで、誠実に、忠実に、愛を持って仕えることが求められているのです。
戦いの時は、しっかりとこの武具をもって望む必要があります。

モーセ、アロンとフル、ヨシュア、それぞれの祈りを私たちは見てきました。
モーセの祈りだけを私がするのではありません。
アロンとフルの祈りだけを私がするのではありません。
ヨシュアのように遣わされるだけではありません。
遣わされながら、丘の頂に登り、とりなし祈り続けるのです。

私たちは問われる必要があります。
今、丘の頂に立ち、祈り捧げているのか。
神の武具をもって、遣わされているのか。
これが私たちの召しです。
モーセのように祈る召しが、
アロンとフルのように祈る召しが、
ヨシュアのように遣わされた場所で委ねられた働きをする召しが私たちにあるのです。
これらは誰もが神から与えられている、神からの召しなのです。
私たちは神から遣わされていきます。
そのことを覚え、この合宿を終えたときに帰っていく、日常へと遣わされていきましょう。
主が、確かに私たちと共にいて、私たちを愛し導いてくださる。
神はそのように約束してくださっているのです。
私たちは約束を信じ、約束を携えて出て行きましょう。
共に祈り合って、それぞれの地へと出て行きましょう。
召された私たちは、主の召しにふさわしく歩みましょう。

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