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11月, 2018の投稿を表示しています

説教#243:「王である神からの預かり物」

「王である神からの預かり物」 聖書 創世記 1:26-31、マタイによる福音書 25:14-30 2018年 11月 25日 礼拝、小岩教会 これまでイエスさまは、弟子たちや群衆に、 「世の終わりの日はいつ来るかわからない」ということを たとえを用いて伝えましたが、 きょうの福音書の物語においては、 終わりの日を待ち望む信仰者たちの生き方に イエスさまはスポットを当てています。 イエスさまが語ったたとえに登場するしもべたちは、 旅に出る主人からお金をあずかりました。 渡された金額について、「タラントン」という単位が用いられています。 5タラントン、3タラントン、1タラントンと、 しもべたちがそれぞれに受け取ったお金は、 一体、どの程度の金額だったのでしょうか。

説教#242:「天の国を生きる」

「天の国を生きる」 聖書 アモス書 5:18-24、マタイによる福音書 25:1-13 2018年 11月 18日 礼拝、小岩教会 イエスさまは、「天の国は近づいた」と語ることから、 宣教の働きを始めました。 そして、人々の病を癒し、悪霊を追い払い、 様々な奇跡を行うことによってイエスさまは、 神が救いの手を伸ばし、天の国が近づいているということを 多くの人々の前で明らかにされました。 ところで、イエスさまが伝えた「天の国」とは、 一体どのようなものなのでしょうか? きっと、多くの人は、ぼんやりとしたイメージを抱いて、 「天の国とは、死んだ後に行く世界のことだ」と考えているでしょう。 でも、そのようなイメージが先行してしまうとき、 聖書が語る「天の国」を誤って理解してしまう危険があります。 イエスさまは、天の国について語るとき、 たとえを用いて語ることを好みました。 ただ、たとえ話というものは決して、 天の国について、人々にわかりやすく語るために イエスさまが選んだ方法ではありません。 天の国は、神が私たちに恵みとして与えるものであって、 本来、私たちの現実にはないものです。 ですから、天の国は、たとえによってでしか、 表現できなかったのかもしれません。 それでは、イエスさまは、たとえによって、 天の国をどのように表現されたのでしょうか?

説教#241:「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」 聖書 イザヤ書 2:1-5、マタイによる福音書 24:36-51 2018年 11月 11日 礼拝、小岩教会 「この世界はいつか必ず終わりの日を迎える」という確信のもと、 イエスさまは、弟子たちにひとつひとつの言葉を語りかけました。 世の終わりの日が必ず訪れる。 つまり、どれほど私たちが永遠を願い求めたとしても、 すべての物事は必ず終わりの時を迎えるのです。 ただ、イエスさまの語る「終わり」とは、 完全な滅びのことではありません。 それは、神の手によって、新しく創り変えられるための終わりです。 新しい天と新しい地がやって来て、 命の終わりを迎えたすべての者が復活の生命を与えられ、 神と共に永遠に生きる。 ですから、イエスさまが語る「終わりの日」とは、 キリストを信じるすべての者の希望が実現する日といえます。 その希望の日が訪れる合図は、イエスさまによれば、 イエスさまご自身が再び私たちのもとに来ることです。 でも、ひとつ大きな問題が私たちの前に横たわっています。 それは、その終わりの日がいつやって来るのかを 誰も私たちに教えてくれないということです。

説教#240:「ラッパの音の合図を待つ」

「ラッパの音の合図を待つ」 聖書 イザヤ書 27:12-13、マタイによる福音書 24:29-35 2018年 11月 4日 礼拝、小岩教会 未来のことは、誰にもわかりません。 どれだけ性能の良いコンピューターを用いて、 AIの力を借りながら、予測を立てたとしても、 思い描いた通りの現実がやって来ることは絶対にありません。 たとえ明日の自分自身の予定を念入りに立てたとしても、 身体や心の状態、周りの人たちや天候など、 様々な要因が重なり合って、 計画通りにすべてを行うことは不可能です。 未来のことは誰にもわかりません。 未来とは、謎に包まれたものです。 このようなことは、きっと誰もが経験的に知っていることだと思います。 だからこそ、未来というものが完全に把握できないものだからこそ、 私たちは未来に何が起こるのか気になり、 とても心惹かれるのでしょう。 そんな謎に満ちた「未来」について、 すべての人のもとに必ず訪れる日がふたつあると、 聖書は私たちに告げています。