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説教#244:「キリストに仕える生涯」

「キリストに仕える生涯」 聖書 エゼキエル書 34:11-24、マタイによる福音書 25:31-46 2018年 12月 2日 礼拝、小岩教会 きょうのイエスさまのたとえ話に登場する王さまは、 飢え渇く人、家がなく旅をする人、病に苦しむ人、 裸である人、牢獄につながれている人を 助けた人々に向かって、このように言いました。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたときに飲ませ、 旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、 牢にいたときに訪ねてくれた。(マタイ 25:35-36) このように言われた人たちが、キョトンとした顔で、 王さまを見つめている姿が想像できると思います。 そうです、だって、心当たりがないのですから。 自分たちが一体なぜ王さまから感謝されているのか、 さっぱりわかりません。 王さまの前に立つ人々は、 自分たちが王さまを助けたなどとは、当然、誰も思っていません。 自分たちが助けたのは、苦しんでいる自分自身の家族です。 悲しみ、嘆きのうちにある仲間たちです。 喉が渇き、お腹を空かせていた旅人たちです。 そういった人たちを助けたことは確かにありました。 でも、この王さまは優しく語りかけるのです。 「このような人々のためにあなたがしたことは、 このわたしにしたことだ。 助けを必要としていた最も小さい者たちに、あなたがしたことは、 わたしにしたことだ」と。 なぜ他の人を助けたことが、王さまを助けたことになるのか、 このたとえ話を読んでも、その理由は、正直わからないと思います。 でも、このたとえに登場する王さまが、 イエスさまご自身のことを指すとわかるならば、 私たちの目に光が与えられることでしょう。

説教#243:「王である神からの預かり物」

「王である神からの預かり物」 聖書 創世記 1:26-31、マタイによる福音書 25:14-30 2018年 11月 25日 礼拝、小岩教会 これまでイエスさまは、弟子たちや群衆に、 「世の終わりの日はいつ来るかわからない」ということを たとえを用いて伝えましたが、 きょうの福音書の物語においては、 終わりの日を待ち望む信仰者たちの生き方に イエスさまはスポットを当てています。 イエスさまが語ったたとえに登場するしもべたちは、 旅に出る主人からお金をあずかりました。 渡された金額について、「タラントン」という単位が用いられています。 5タラントン、3タラントン、1タラントンと、 しもべたちがそれぞれに受け取ったお金は、 一体、どの程度の金額だったのでしょうか。

説教#242:「天の国を生きる」

「天の国を生きる」 聖書 アモス書 5:18-24、マタイによる福音書 25:1-13 2018年 11月 18日 礼拝、小岩教会 イエスさまは、「天の国は近づいた」と語ることから、 宣教の働きを始めました。 そして、人々の病を癒し、悪霊を追い払い、 様々な奇跡を行うことによってイエスさまは、 神が救いの手を伸ばし、天の国が近づいているということを 多くの人々の前で明らかにされました。 ところで、イエスさまが伝えた「天の国」とは、 一体どのようなものなのでしょうか? きっと、多くの人は、ぼんやりとしたイメージを抱いて、 「天の国とは、死んだ後に行く世界のことだ」と考えているでしょう。 でも、そのようなイメージが先行してしまうとき、 聖書が語る「天の国」を誤って理解してしまう危険があります。 イエスさまは、天の国について語るとき、 たとえを用いて語ることを好みました。 ただ、たとえ話というものは決して、 天の国について、人々にわかりやすく語るために イエスさまが選んだ方法ではありません。 天の国は、神が私たちに恵みとして与えるものであって、 本来、私たちの現実にはないものです。 ですから、天の国は、たとえによってでしか、 表現できなかったのかもしれません。 それでは、イエスさまは、たとえによって、 天の国をどのように表現されたのでしょうか?

説教#241:「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」 聖書 イザヤ書 2:1-5、マタイによる福音書 24:36-51 2018年 11月 11日 礼拝、小岩教会 「この世界はいつか必ず終わりの日を迎える」という確信のもと、 イエスさまは、弟子たちにひとつひとつの言葉を語りかけました。 世の終わりの日が必ず訪れる。 つまり、どれほど私たちが永遠を願い求めたとしても、 すべての物事は必ず終わりの時を迎えるのです。 ただ、イエスさまの語る「終わり」とは、 完全な滅びのことではありません。 それは、神の手によって、新しく創り変えられるための終わりです。 新しい天と新しい地がやって来て、 命の終わりを迎えたすべての者が復活の生命を与えられ、 神と共に永遠に生きる。 ですから、イエスさまが語る「終わりの日」とは、 キリストを信じるすべての者の希望が実現する日といえます。 その希望の日が訪れる合図は、イエスさまによれば、 イエスさまご自身が再び私たちのもとに来ることです。 でも、ひとつ大きな問題が私たちの前に横たわっています。 それは、その終わりの日がいつやって来るのかを 誰も私たちに教えてくれないということです。

説教#240:「ラッパの音の合図を待つ」

「ラッパの音の合図を待つ」 聖書 イザヤ書 27:12-13、マタイによる福音書 24:29-35 2018年 11月 4日 礼拝、小岩教会 未来のことは、誰にもわかりません。 どれだけ性能の良いコンピューターを用いて、 AIの力を借りながら、予測を立てたとしても、 思い描いた通りの現実がやって来ることは絶対にありません。 たとえ明日の自分自身の予定を念入りに立てたとしても、 身体や心の状態、周りの人たちや天候など、 様々な要因が重なり合って、 計画通りにすべてを行うことは不可能です。 未来のことは誰にもわかりません。 未来とは、謎に包まれたものです。 このようなことは、きっと誰もが経験的に知っていることだと思います。 だからこそ、未来というものが完全に把握できないものだからこそ、 私たちは未来に何が起こるのか気になり、 とても心惹かれるのでしょう。 そんな謎に満ちた「未来」について、 すべての人のもとに必ず訪れる日がふたつあると、 聖書は私たちに告げています。

説教#239:「それから、終わりが来る」

「それから、終わりが来る」 聖書 ダニエル書 12:1-13、マタイによる福音書 24:3-28 2018年 10月 28日 礼拝、小岩教会 教会は、およそ二千年もの間、 イエス・キリストが再びこの地上に来る日を 「主の日」や「世の終わりの日」と呼んで待ち望んでいます。 でも、さきほど朗読されたイエスさまの言葉を聞くと、 この「終わりの日」というものが、 すべての人が待ち望むべき、希望に輝く日とは、 あまり感じられないように思えるかもしれません。 イエスさまの弟子たちが、 世の終わりが訪れるとき何が起こるのかと、イエスさまに尋ねたとき、 イエスさまは終わりの日のしるしとして、 様々な出来事が起こると彼らに伝えました。

説教#238:「神の招きは取り消されない」

「神の招きは取り消されない」 聖書 エレミヤ書 29:10-14、マタイによる福音書 23:34-24:2 2018年 10月 21日 礼拝、小岩教会 マタイによる福音書の23章は、 律法学者やファリサイ派の人たちへの批判が 語られることから始まりました。 最終的にイエスさまが語る批判の言葉は、 エルサレム全体に向けられています。 つまり、イエスさまのそばで話を聞いていた群衆も、 イエスさまからの批判を受けているのです。 ですから、きょうのイエスさまの言葉は、 正直、あまり喜んで聞くことが出来ないものだったと思います。 イエスさまがエルサレムの人々に対して語ったその内容は、 神の招きに誰も応じず、 神が遣わした者たちを人々が迫害したというものでした。 神が預言者たちを遣わし、彼らを通して何度語りかけても、 誰もその言葉に真剣に耳を傾けず、 人々は神の招きに応えようとしませんでした。 むしろ、エルサレムの人々は、 神から遣わされた人々を時には殺し、 時にはむち打ちにし、 また時には町から町へと追い回し迫害しました。 それは、旧約聖書の時代から、 イエスさまの時代に至るまで、 いや、それ以降の時代も変わらずに、 何度も何度も繰り返されてきたことでした。 神が遣わした人たちを拒絶することは、 神の言葉を拒絶することに等しいことでした。 そのため、神を拒絶し続けるエルサレムは、 神から見捨てられ、荒れ果てることになるだろうと イエスさまは告げるているのです。 このように、聞いていてとても心が痛くなる言葉が この時、イエスさまの口を通して語られました。 そして残念ながら、紀元70年に、 エルサレムの町や神殿はローマ軍の手によって破壊され、 イエスさまの言葉の通りになってしまいました。

説教#237:「杯の内側をきれいにせよ」

「杯の内側をきれいにせよ」 聖書 サムエル記 上 16:1-7、マタイによる福音書 23:13-33 2018年 10月 14日 礼拝、小岩教会 「あなた方は不幸だ」と、イエスさまは7回も嘆き、 弟子たちや群衆の前で悲しみを言い表しました。 この時イエスさまから「不幸だ」と語りかけられているのは、 律法学者やファリサイ派の人々のように思えます。 しかし、実際のところ、この時、 イエスさまが向き合い、語りかけていたのは、弟子たちや群衆でした。 ですから、律法学者やファリサイ派の人々を攻撃するために、 イエスさまは「不幸だ」と語り続けたわけではないと言えるでしょう。 律法学者やファリサイ派の人々の抱える問題に触れながら、 イエスさまは、弟子たちや群衆に対して、 彼らが陥る可能性のある問題について警告をし始めたのです。 弟子たちをはじめ、多くの人々が陥る可能性のある問題とは、 一言で言い表すならば、天の国を閉ざすことです(マタイ23:13)。

説教#236:「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」

「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」 聖書 ミカ書 3:5-12、マタイによる福音書 23:1-12 2018年 10月 7日 礼拝、小岩教会 イエスさまは、ご自分の弟子たちや群衆の前で、 律法学者やファリサイ派の人々について、 とても批判的なことを語りました。 その批判の内容は、大まかに分けて4つありました。 第一に、律法学者やファリサイ派の人々は、 自分たちが人々に教えていることを実行しませんでした。 つまり、彼らは権威をもって人々を教えるけれども、 その教えに基づいて生きているわけではないと、 イエスさまは指摘されたのです。 もちろん、この問題は、 律法学者やファリサイ派の人々のように、 人にものを教える立場の人だけの問題ではないでしょう。 きっと誰もが抱える課題だと思います。 誰もが理想を抱え、 この口で語るように生きたいと願うけれども、 残念ながら、その理想を完全に実現することは出来ません。 私たちは、そんな自らの弱さを身にしみて感じながら、 語る言葉とその行いが一致するように生きようと奮闘するものです。 その意味で、イエスさまが語る批判は、 すべての人に向けられる内容でもあると思います。 しかし、律法学者やファリサイ派の人々を イエスさまが批判する理由は、それだけではありませんでした。

説教#235:「神の物語を生きる」

「神の物語を生きる」 聖書 サムエル記 下 7:8-17、マタイによる福音書 22:41-46 2018年 9月 30日 礼拝、小岩教会 先日、娘と一緒に、娘の好きなアニメを観ていたとき、 登場人物のある一言がとても印象に残りました。 「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。 周囲の人々が自分に対して望み、自分自身に押し付けてくる姿は、 本来の自分とは違う。 誰かの理想を押し付けられ、 自分が自分であることを否定されるストーリーなど生きられない。 「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。 子ども向けのアニメでしたが、とても考えさせられる一言でした。 それと同時に、きょうの福音書の物語において、 ファリサイ派の人々を前にしたこの時のイエスさまも 似たようなことを感じていたと思うのです。 「あなた方が望むストーリーを私は生きられない」と。 ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤの人々が 救い主メシアに対して抱いていたストーリーとは、 どのようなものだったでしょうか?

説教#233:「生きている者の神」

「生きている者の神」 聖書 出エジプト記 3:4-12、マタイによる福音書 22:23-33 2018年 9月 16日 礼拝、小岩教会 ファリサイ派の人々がイエスさまに論争を仕掛け、失敗したその直後に、 サドカイ派と呼ばれる人々が、イエスさまのもとに近寄って来ました。 マタイは、サドカイ派の人々について、 彼らは「復活はないと言っている」と紹介しています。 このような彼らの考えは、 何だか、とても現代に生きる私たちに近いものを感じます。 「死んだ者がよみがえるなど、馬鹿げている。 死んだらそれで終わりなのだ。 その先などあるわけがない。 だから、命があり、生きている、「今」という時こそが大切なのだ」。 まさにサドカイ派の人々はそのように考えていました。 彼らのこの主張は、経験的に与えられた考えではなく、 旧約聖書に基づいたものでした。 ただし、彼らは旧約聖書の最初の5つの書物のみを 聖なる書物として受け取り、その5つの書物にのみ権威を認めていため、 たとえば、ダニエル書に「多くの者が 地の塵の中の眠りから目覚める」(ダニエル12:2)と 明確に記されているような、 死者の復活を彼らは信じていませんでした。 サドカイ派の人々にとって、復活などあり得ない話なのです。 ですから、彼らはイエスさまに論争を仕掛ける際、 復活がどれほど馬鹿げたものであるかを 人々の前で明らかにしようとするのです。

説教#231:「招待状はあなたの手に!」

「招待状はあなたの手に!」 聖書 出エジプト記 32:1-14、マタイによる福音書 22:1-14 2018年 9月 2日 礼拝、小岩教会 イエスさまが語った、このたとえ話の興味深いところは、 王の息子の婚宴に招待された人々が、その招きを拒否した一方で、 本来その婚宴に招待されていない人々のもとに、 王からの招待状が届いたことです。 驚くべきことに、婚宴への出席を拒否されたとき、 この王は、自分の息子の婚宴へと招く人々を制限しませんでした。 王は家来たちに「町の大通りに出て、 見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じて、 善い人々も、悪い人々も婚宴へ招き始めました。 そうです、すべての人々が、神に招かれているという現実を イエスさまはこのたとえ話を通して、 このたとえを聞くすべての人々に語っているのです。 でも、このように、すべての人々を快く招いているのにも関わらず、 この王は、婚礼のための礼服を着ていない者を 婚宴の席で見つけると、自分の側近の者たちに命じて、 その人を縛り、婚礼の会場から追い出したというのです。 正直、なぜ王がこのような行動を取るのか理解できません。 というのも、婚宴の会場から追い出されたこの人は、 そもそもこの婚宴に招待されていたわけではありません。 町の大通りにいたら、突然、何の前触れもなく、 この人は婚宴の席に招かれたのです。 ですから、婚宴の席に相応しい服装を準備する時間などなく、 この場所へとやって来たのでしょう。 それなのに、婚礼に相応しくない服装であることを指摘され、 挙句の果てに、手足を縛られて、外に追い出されることになるなど、 正直、納得がいきません。 理不尽とさえ思います。 考えれば考える程、王に対する不信感が 沸き起こってくるかもしれません。 でも、この物語は実際に起こった出来事ではなく、 イエスさまが語ったたとえ話であることを 思い起こす必要があると思います。

説教#230:「神の国は誰のもの?」

「神の国は誰のもの?」 聖書 イザヤ書   5:1-7、マタイによる福音書   21:33-46 2018年 8月 26日 礼拝、小岩教会 ユダヤの人々が住んでいる、パレスチナの地は、 イエスさまが生きた時代よりも1500年以上も前から、 ぶどうの栽培がなされていました。 そのため、その地で暮らす多くの人々にとって、 ぶどうの木やぶどう園についてのたとえ話は、 自分たちの日常を描く話だといえました。 そして、旧約聖書の時代、預言者たちは ぶどうの木やぶどう園をたとえに用いて、神の言葉を語りました。 このような理由から、イエスさまが語ったぶどう園のたとえ話は、 このたとえを聞いていたユダヤの人々にとって、 語られている内容を頭の中で描きやすく、 とても理解しやすいものだったと思います。 このたとえ話に登場する、ぶどう園で雇われた農夫たちには、 ぶどう園の主人から多くのものが与えられていました。 ぶどう園の主人は、彼らが働く場所を備えた上で、 彼らにぶどう園を貸し出し、そこで働かせました。 ぶどうをつくるために、 土地だけが用意されていたわけではありません。 主人の手によって、ぶどう園はすでに造られていました。 ぶどう園を野獣から守る垣根も、既に張られていました。 ぶどう酒をつくるための絞り場も、そこに備えられていましたし、 盗人や獣からぶどうを守るための見張り台も建てられていました。 このように、ぶどう園での仕事が与えられただけでなく、 そこで働くために必要なものは備えられていました。 そして、彼らは主人から信頼され、ぶどう園を任され、 ぶどう園での働きには自由が与えられていました。 このように、農夫たちに対して、 とても気前の良いぶどう園の主人の姿が 聞いている人々の心に刻まれたことでしょう。 でも、その一方で、このたとえ話はとても物騒な内容です。

説教#229:「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」

「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」 聖書 イザヤ書 43:6-20、マタイによる福音書 21:28-32 2018年 8月 19日 礼拝、小岩教会 このたとえ話がイエスさまの口から語られた時、 その場にいた人々は、なぜイエスさまがこのようなことを語るのか よくわからなかったと思います。 というのも、イエスさまはこの時、 あまりにも当然のことを語っているように思えるからです。 確かに、口では「言われたとおりにします」と言いながら、 実際は、約束を踏みにじって、自分の好き勝手生きる人よりも、 「いやだ、いやだ」と言いながらも、 するべきことを忠実に行う人の方が好ましいものです。 たとえの中に登場するふたりの息子たちのうち、 父親の望み通りに行なっているのは、明らかに、 口では「いやだ」と言いながらも、 父親の望み通りに行動した、兄の方です。 ですから、「この二人のうち、 どちらが父親の望みどおりにしたか」という質問に、 「兄の方こそが、父親の望み通りにした」とある人が答えると、 誰もがその答えに同意し、首を縦に振ったことでしょう。 でも、続けて語られたイエスさまの言葉には、 誰もが驚きを覚えたと思います。

説教#228:「主イエスを通して、天を見上げるならば」

「主イエスを通して、天を見上げるならば」 聖書 出エジプト記 17:1-7、マタイによる福音書 21:23-27 2018年 8月 5日 礼拝、小岩教会 イエスさまの教えを聞き、その立ち振る舞いを見て、 イエスさまに対して疑問や敵対心を抱く人々がいました。 きょうの物語に登場する、 「祭司長」と「長老」という、このふたつのグループこそ、 イエスさまに対して敵意を持ち続けた人たちです。 彼らは、ユダヤの議会を構成する人々でした。 つまり、ユダヤの国において大きな権限を持つ、 ふたつのグループに属する人々が、 この時、エルサレム神殿の敷地内で、 人々に教えを語るイエスさまに近づいて来たのです。 彼らは、イエスさまにこのように尋ねました。 何の権威でこのようなことをしているのか。 だれがその権威を与えたのか。(マタイ21:23) 彼らは決して、純粋な気持ちから、 イエスさまにこのような質問をしたわけではありません。 この質問は、イエスさまが持つ権威に対する疑問や イエスさまに対する敵意から出てきたものでした。 そのため、この質問に答えることは、とても難しいことでした。 というのも、もしもイエスさまが問題と思えるような発言をするなら、 ユダヤ議会のメンバーである彼らが持つ権限によって、 彼らはイエスさまを裁くことだって出来たからです。 ところで、なぜ祭司長たちや長老たちは、 イエスさまの権威に疑問をもち、 イエスさまに対して敵意を抱いていたのでしょうか。

説教#227:「信仰が祈りを生み、祈りが生活となりますように」

「信仰が祈りを生み、祈りが生活となりますように」 聖書 エレミヤ書 8:8-13、マタイによる福音書 21:18-22 2018年 7月 29日 礼拝、小岩教会 きょう私たちに与えられた、福音書の物語について、 私はずっと疑問を抱いていました。 「空腹を覚えたイエスさまは、 なぜいちじくの木を枯らしたのだろうか?」と。 マタイ福音書の前半に記されていた物語を思い出してみてください。 荒れ野で40日もの間、断食をして、空腹を覚えていたとき、 「石をパンに変えれば良いじゃないか?」と誘惑を受けても、 イエスさまはその誘いには応じなかったではありませんか。 イエスさまは、自分自身を満足させるために 奇跡を行うことはありませんでした。 それなのに、空腹を覚えていたこの時、 なぜイエスさまは、いちじくの木を枯らしたのでしょうか? まるで、きょうのこの物語は、 お腹が空いている時に見つけたいちじくの木に、 実がなっていないことを知って、不機嫌になって、 イエスさまがいちじくの木を枯らしてしまったかのように見えます。 イエスさまがエルサレムを訪れた時期は、 毎年3月末から4月頃に行われる、 過越祭と呼ばれる、ユダヤのお祭りの時期でした。 いちじくの木に実がなるのは、夏の初めと秋の2回ですから、 本来、いちじくが実る季節ではありません。 それなのに、いちじくの木は葉をつけて、 いかにも実があるように見えました。 ということは、外見は、実があるように見えるのに、 実際は実がないことに、イエスさまは怒りを覚えたのでしょうか? いずれにせよ、イエスさまの行動は、 自分勝手な理由のように思えてきます。 果たして、そのような自分勝手な理由で、 イエスさまはいちじくの木を枯らしてしまったのでしょうか? また、もしもそうでないのならば、 一体、なぜイエスさまはこのような行動を取ったのでしょうか?

説教#226:「ここは神の家」

「ここは神の家」 聖書 マラキ書 3:1-4、マタイによる福音書 21:12-17、詩 8 2018年 7月 22日 礼拝、小岩教会 エルサレムにやって来たイエスさまが、 一番最初に足を運んだ場所は、エルサレムにある神殿でした。 神殿はエルサレムの都の中心であり、 ユダヤの人々にとっては、世界の中心であり、 この地上で最も聖なる場所でした。 人々は神と出会うために、神殿に足を運び、 そこで神に祈り、犠牲を捧げ、神を礼拝しました。 イエスさまがエルサレムを訪れたこの時は、 「過越祭」と呼ばれるユダヤのお祭りの時期だったため、 各地から多くの人々がこの地に訪れていました。 この時、エルサレム神殿の敷地内で、 誰もが入ることが出来る『異邦人の庭」と呼ばれる場所で、 多くの人々が見ている中で、事件は起きました。 なんと、イエスさまが突然、 神殿の庭で売り買いしていた人たちを追い出し、 両替人たちの台や、鳩を売る人々の腰掛けを倒し始めたのです。 イエスさまは一体なぜこのようなことをしたのでしょうか?

説教#225:「都が揺れ動く時」

「都が揺れ動く時」 聖書 列王記 上 1:32-40、マタイによる福音書 21:1-11 2018年 7月 15日 礼拝、小岩教会 ホサナ、ホサナ。 「主よ、救ってください」という意味の「ホサナ」という言葉を叫びながら、 ロバに乗った一人の男を取り囲む集団がエルサレムの町に入場しました。 ロバに乗る男に従う多くの人々は、 自分の着ていた服や、木の枝を敷いて、彼が進む道を整えました。 彼が多くの人々に重要な人物として受け止められ、 エルサレムにやって来たことは、誰の目から見ても明らかでした。 この集団は、徐々に徐々にエルサレムの町に近づいてきます。 彼らがエルサレムの町に入場した頃には、 彼らが叫ぶ声もエルサレムの人々にはっきりと聞こえてきました。 ダビデの子にホサナ。 主の名によって来られる方に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。(マタイ21:9) ダビデの子? どうやらこの群衆にとって、ロバに乗るあの男はダビデの子のようです。 ダビデの子とは、ユダヤの人々にとって、 自分たちの民族を異教徒の支配から救い出し、 まことの王として民を導く、救い主を示す称号でした。 ユダヤの人々は、ダビデの子である、救い主メシアが 神によって自分たちのもとに送られてくると、信じていました。 メシアが来ることは、聖書を通して与えられている希望でしたし、 ユダヤの人々が心から待ち望んでいたことでした。 ですから、ダビデの子と噂される人がいたならば、 その人に注目し、騒ぎ出すのはユダヤ人であるならば当然のことでした。 そのため、群衆からダビデの子と呼ばれ、 ロバに乗ってエルサレムにやって来たイエスという人を見た エルサレムの人々の反応は、とても自然なものだったと思います。 「いったい、これはどういう人だ」。 エルサレムの町の人々は、メシアと噂されているイエスさまが、 どういう人なのか知りたいと騒ぎ出したのです。 「彼こそが、待ち望んでいたメシアだろうか?」と、 口々に語り、期待しつつも、動揺を覚えて、都は騒ぎ出したのです。 マタイは、この時のエルサレムの町の様子を たった一言で表現しています。 「騒いだ」と。 実は、この言葉は「地震で揺れ動く」ことを意味する動詞です。 地震で大地が揺れ動くほどに、イエスさ...

説教#224:「主よ、憐れんでください」

「主よ、憐れんでください」 聖書 イザヤ書 35:1-6、マタイによる福音書 20:29-34 2018年 7月 8日 礼拝、小岩教会 イエスさまが生きた時代、 パレスティナという地域において、 気候や衛生面の理由から目を患い、 失明をする人が多くいたそうです。 目が見えなくなってしまったとき、 家族や友人たちの助けがあれば良いのですが、 頼るあてもない人たちは、道端に座りこみ、 物乞いをして生活をしていたようです。 彼らは人通りの多い、町の入り口付近で、 一日中通り掛かる人々に叫び続けていました。 「どうか助けてください。 苦しむこの私を憐れんでください」と。 目が見えなくなってしまったために、 大変な毎日を送っている自分たちを憐れんで、助けて欲しい というのが、彼らの日常的な叫びでした。 きょうの物語に登場する、目の見えない二人にとっても、 エリコの町の入り口付近を通りかかる人々に向かって、 助けを求めて叫び続けることは日常的なことでした。

説教#223:「仕える者になりなさい」

「仕える者になりなさい」 聖書 エレミヤ書 25:15-17、マタイによる福音書 20:17-28 2018年 7月 1日 礼拝、小岩教会 イエスさまが弟子たちと共にエルサレムへと向かう途中のことです。 ゼベダイの子たちの母親がイエスさまにお願いをしようと 近づいて来て、ひれ伏しました。 彼女の願いは、自分の息子たちが、 将来イエスさまが座るであろう王座の右と左に座ることでした。 つまり、イエスさまによってもたらされる天の国において、 息子たちが大きな地位を持つことでした。 ゼベダイの子たちとは、 イエスさまの弟子であるヤコブとヨハネのことです。 どうやら、彼らは弟子たちの中でも、 イエスさまが特別に信頼を置く弟子であったようです。 というのも、イエスさまが逮捕される直前に ゲツセマネの園で祈る際、 イエスさまがご自分のそばにいることを許したのが、 ペトロ、ヤコブ、ヨハネでした。 また、高い山で、イエスさまの姿が変わり、 イエスさまがモーセとエリヤと一緒に語り合う姿を 見ることが許されたのも、この3人でした。 このようにイエスさまから大きな信頼を受け、 これからもイエスさまに従って生きようとしている自分の息子たちが、 天の国において確かな地位を得ることが出来るようにと、 ヤコブとヨハネの母親は願ったのです。 でも、これは母親が自分勝手に願ったことではありませんでした。 ヤコブもヨハネも、心から望んでいたことでした。 だから、彼らは自分の母親を止めることはしません。 その上、「このわたしが飲もうとしている杯を あなたがたは飲むことができるか」という問いかけに、 母親ではなく、ヤコブとヨハネの二人が 「できます」と答えているのです。 ヤコブも、ヨハネも、将来イエスさまが治める天の国において、 名誉と権威のある、大きな地位を持ちたい。 重要な人物になりたいと、彼らは心から願ってやまなかったのです。 でも、やはり母親も、そしてヤコブとヨハネも、 イエスさまが言うように、 自分が何を願っているか、分かっていませんでした。 イエスさまは、そのことを教えるために、 「杯」という言葉を用いて、彼らに尋ねま...