投稿

2月, 2019の投稿を表示しています

説教#255:「安息に向かって歩む旅」

「安息に向かって歩む旅」 聖書 ヨシュア記 1:1-9、ヘブライ人への手紙 4:1-10 2019年 2月 24日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 さきほど一緒に声を合わせて読み交わした、詩編84篇の詩人は、 神のみもとにこそ安らぎがあり、 神と共に歩む中にこそ平安があると感じていました。 ですから、この詩人は、喜びのうちにこのように歌いました。 いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら(詩編 84:5) 「あなたの家」。 それは神を礼拝する神殿を意味しますが、 やがて、エルサレムの神殿が崩壊した後、 この言葉は、天の神のいるところを意味するものとして、 信仰者たちから受け止められるようになりました。 つまり、「将来、天の国に受け止められるその日、 私たちは神の家に招かれ、神のもとで安らぎ、神と共に生きる」と。 このことは、ヘブライ人への手紙の著者も抱いた強い確信でした。 著者は、将来、神のみもとへと行く日を 天の都へと招かれるその日を「安息」と呼んで、読者に語りかけます。 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、 取り残されてしまったと思われる者が あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。 (ヘブライ 4:1)

説教#254:「聖霊は『今日』と言う」

「聖霊は『今日』と言う」 聖書 申命記 11:26-32、ヘブライ人への手紙 3:7-19 2019年 2月 17日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 私たちは毎週の礼拝の中で「使徒信条」を用いて、 世界中の信仰者たちと一緒に、 また歴史上のすべての信仰者たちと一緒に、信仰を告白しています。 この使徒信条の後半で、私たちはこのように告白しています。 「わたしは聖霊を信じます」と。 私たちが信じる聖霊とは、一体どのようなお方なのでしょうか。 聖書の証言によれば、十字架にかかって死んで、 死者の中からよみがえったイエスさまが天に昇り、 ご自分の弟子たちのもとを離れた後に、 イエスさまを信じるすべての人々に与えられたのが、聖霊なる神です。 聖霊は、ヨハネ福音書では、「弁護者」と紹介されています。 「弁護者」と訳されている、パラクレートスというギリシア語は、 「助け主」や「慰め主」と訳されることもありますが、 もともとは「傍らに呼ばれた者」という意味を持っています。 つまり、私たちが祈り求めると、傍らにいてくれる。 そして、私たちが叫び求めると、助けや慰めを与えてくれる。 聖霊とは、そのようなお方なのです。 何よりも、すべての信仰者に聖霊を与えることを通して、 イエスさまはすべての者の傍らに立っていてくださいます。 聖霊こそ、私たちと父なる神、 そして私たちとイエスさまを結び合わせてくださるお方なのです。 ですから私たちは、聖霊が与えられているという事実を、 使徒信条を通して、喜びをもって告白するようにと招かれているのです。 「わたしは聖霊を信じます」と。 このように、私たち一人ひとりに与えられている聖霊について、 ヘブライ人への手紙の著者は、きょうの箇所において、 詩編95篇を引用しながら、とても印象的に語っています。 だから、聖霊がこう言われるとおりです。 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 荒れ野で試練を受けたころ、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ 3:7-8)  

説教#253:「天の召しに共にあずかっている!」

「天の召しに共にあずかっている!」 聖書 出エジプト記 32:7-14、ヘブライ人への手紙 3:1-6 2019年 2月 10日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 ヘブライ人への手紙の著者は、読者に呼びかけることを通して、 キリストを信じる人々とは一体、何者であるかを伝えようとしています。 そして、何よりも、そのような人々が集う、教会という群れについて、 どのように理解するべきかを私たちに伝えるために、 著者は、読者にこのように語りかけました。 天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち(ヘブライ 3:1) 「天の召し」とは、何を意味するのでしょうか。 聖書の語る天とは、現代人が考える天、つまり空とは違います。 天とは、神が支配する領域のことです。 人間の力で、天に行くことは決して出来ません。 ですから、天の召しとは、 人間の外側からやって来るものと言えるでしょう。 すなわち、神の招きとは、私たちの手の届かないところから、 神の恵みとして私たちのもとにやって来るのです。 人間の外側ということは、 私たちの側には理由がないということです。 神の側にこそ理由があり、神の意志に基づいて、 私たちは神から招かれ、聖なる者とされているのです。 それはつまり、神によって選ばれ、神のものとされたということです。 この選びに天の召し、神の招きがあるのです。 もちろん、それは私たちから自由を奪うものでは決してありません。 私たちの意志や感情を無視して、 自分の都合の良いように動くロボットのように、 私たちを用いるために、 神が私たちを選び、私たちを神のものとしたわけではありません。 神は、私たちを宝のように大切にしてくださいます。 神の独り子であるイエスさまが、 まことの人として私たちのもとで生きたことを通して、 私たちが思うよりも、神は近くに、私たちと共におられ、 私たちと親しく関わりを持ちたいと 神が心から願っていることが明らかにされました。 つまり、私たちの人格も、感情も、 心に抱える思い煩いのすべてをも大切にしながら、 神はあなたを喜びをもって受け止めてくださっているのです。 私たちの存在のすべてを愛し、 慈しみをもって

説教#252:「神の恵みによって、すべての人のために」

「神の恵みによって、すべての人のために」 聖書 イザヤ書 63:7-9、ヘブライ人への手紙 2:5-18 2019年 2月 3日 礼拝、小岩教会 ヘブライ人への手紙の著者は、1章において、 神の御子であるイエスさまと天使たちを比較することに 多くの時間を割いています。 その際、天使たちは神によって造られた やがては朽ち果てていく被造物に過ぎないけれども、 イエスさまは神の独り子であり、神であると伝えました。 つまり、イエスさまは天使たちよりも 遥かに優れた存在であることを著者は強調しました。 しかし、2章において著者は、 詩編8篇から引用して、このように語ります。 あなたは彼を天使たちよりも、 わずかの間、低い者とされた(ヘブライ 2:7) 著者は、詩編のこの言葉が、 イエス・キリストについて語られたものと考えています。 イエスさまは、天使たちよりも遥かに優れた存在です。 いや、そもそも比べられる存在ではないのに、 それなのに、イエス・キリストは、 わずかの間、天使たちよりも低い者とされました。 どのようにして、イエスさまは低い者とされたのでしょうか。