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10月, 2018の投稿を表示しています

説教#239:「それから、終わりが来る」

「それから、終わりが来る」 聖書 ダニエル書 12:1-13、マタイによる福音書 24:3-28 2018年 10月 28日 礼拝、小岩教会 教会は、およそ二千年もの間、 イエス・キリストが再びこの地上に来る日を 「主の日」や「世の終わりの日」と呼んで待ち望んでいます。 でも、さきほど朗読されたイエスさまの言葉を聞くと、 この「終わりの日」というものが、 すべての人が待ち望むべき、希望に輝く日とは、 あまり感じられないように思えるかもしれません。 イエスさまの弟子たちが、 世の終わりが訪れるとき何が起こるのかと、イエスさまに尋ねたとき、 イエスさまは終わりの日のしるしとして、 様々な出来事が起こると彼らに伝えました。

説教#238:「神の招きは取り消されない」

「神の招きは取り消されない」 聖書 エレミヤ書 29:10-14、マタイによる福音書 23:34-24:2 2018年 10月 21日 礼拝、小岩教会 マタイによる福音書の23章は、 律法学者やファリサイ派の人たちへの批判が 語られることから始まりました。 最終的にイエスさまが語る批判の言葉は、 エルサレム全体に向けられています。 つまり、イエスさまのそばで話を聞いていた群衆も、 イエスさまからの批判を受けているのです。 ですから、きょうのイエスさまの言葉は、 正直、あまり喜んで聞くことが出来ないものだったと思います。 イエスさまがエルサレムの人々に対して語ったその内容は、 神の招きに誰も応じず、 神が遣わした者たちを人々が迫害したというものでした。 神が預言者たちを遣わし、彼らを通して何度語りかけても、 誰もその言葉に真剣に耳を傾けず、 人々は神の招きに応えようとしませんでした。 むしろ、エルサレムの人々は、 神から遣わされた人々を時には殺し、 時にはむち打ちにし、 また時には町から町へと追い回し迫害しました。 それは、旧約聖書の時代から、 イエスさまの時代に至るまで、 いや、それ以降の時代も変わらずに、 何度も何度も繰り返されてきたことでした。 神が遣わした人たちを拒絶することは、 神の言葉を拒絶することに等しいことでした。 そのため、神を拒絶し続けるエルサレムは、 神から見捨てられ、荒れ果てることになるだろうと イエスさまは告げるているのです。 このように、聞いていてとても心が痛くなる言葉が この時、イエスさまの口を通して語られました。 そして残念ながら、紀元70年に、 エルサレムの町や神殿はローマ軍の手によって破壊され、 イエスさまの言葉の通りになってしまいました。

説教#237:「杯の内側をきれいにせよ」

「杯の内側をきれいにせよ」 聖書 サムエル記 上 16:1-7、マタイによる福音書 23:13-33 2018年 10月 14日 礼拝、小岩教会 「あなた方は不幸だ」と、イエスさまは7回も嘆き、 弟子たちや群衆の前で悲しみを言い表しました。 この時イエスさまから「不幸だ」と語りかけられているのは、 律法学者やファリサイ派の人々のように思えます。 しかし、実際のところ、この時、 イエスさまが向き合い、語りかけていたのは、弟子たちや群衆でした。 ですから、律法学者やファリサイ派の人々を攻撃するために、 イエスさまは「不幸だ」と語り続けたわけではないと言えるでしょう。 律法学者やファリサイ派の人々の抱える問題に触れながら、 イエスさまは、弟子たちや群衆に対して、 彼らが陥る可能性のある問題について警告をし始めたのです。 弟子たちをはじめ、多くの人々が陥る可能性のある問題とは、 一言で言い表すならば、天の国を閉ざすことです(マタイ23:13)。

説教#236:「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」

「キリストを見て学び、そしてキリストに倣え」 聖書 ミカ書 3:5-12、マタイによる福音書 23:1-12 2018年 10月 7日 礼拝、小岩教会 イエスさまは、ご自分の弟子たちや群衆の前で、 律法学者やファリサイ派の人々について、 とても批判的なことを語りました。 その批判の内容は、大まかに分けて4つありました。 第一に、律法学者やファリサイ派の人々は、 自分たちが人々に教えていることを実行しませんでした。 つまり、彼らは権威をもって人々を教えるけれども、 その教えに基づいて生きているわけではないと、 イエスさまは指摘されたのです。 もちろん、この問題は、 律法学者やファリサイ派の人々のように、 人にものを教える立場の人だけの問題ではないでしょう。 きっと誰もが抱える課題だと思います。 誰もが理想を抱え、 この口で語るように生きたいと願うけれども、 残念ながら、その理想を完全に実現することは出来ません。 私たちは、そんな自らの弱さを身にしみて感じながら、 語る言葉とその行いが一致するように生きようと奮闘するものです。 その意味で、イエスさまが語る批判は、 すべての人に向けられる内容でもあると思います。 しかし、律法学者やファリサイ派の人々を イエスさまが批判する理由は、それだけではありませんでした。