説教#256:「神の言葉に刺し通されるならば」
「神の言葉に刺し通されるならば」 聖書 アモス書 5:6-15、ヘブライ人への手紙 4:11-13 2019年 3月 3日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 私たちが生きる上で、 言葉は決して欠かすことの出来ないものです。 自分の思いを伝え、相手の気持ちを知るためには、 お互いに言葉を通わす必要があります。 言葉がなければ、細かな情報を伝えることは難しいでしょう。 でも、言葉がなくても、 表情や動作を通して、絵や物を通して、 伝わることもたくさんあります。 その意味で、この口から出るものや、 文字として記されるものだけが言葉なのでなく、 私たちの生き方そのものも言葉といえるでしょう。 ですから、そう考えると、 私たちは様々な言葉にいつも囲まれて生きています。 ただ、そのことは、いつも喜べることではありません。 時々、周囲の言葉に耳を塞ぎたくなるのは、 何も私だけではないと思います。 人を非難し、貶めようとする声が聞こえてきます。 陰口が囁かれるのが聞こえてきます。 自分とは違う考えや文化もち、 違う外見や生き方をする人々を 拒絶し、差別する声が聞こえてきます。 そのような声を聞いて、苦しみ、嘆く声が聞こえてきます。 平和ではなく、対立や争いが広がる声が聞こえてきます。 聞こえてくるだけならば、まだ良いのかもしれません。 悪意や敵意に満ちた言葉が、 私たちに牙をむくことだって十分あります。 相手にその気がなくても、言葉が鋭く私の心を傷つけることもあります。 そのような経験を誰もが何度も味わってきたことでしょう。 そうです、私たちはこれまでに色々な言葉に傷ついてきました。 言葉は、慰めや愛情を私たちのもとに届けると共に、 私たちを深く傷つけることも出来るのです。 言葉のもつ鋭さのようなものは、 誰もが認めるところでしょう。 ヘブライ人への手紙の著者は、神の言葉について語った際、 「どんな両刃の剣よりも鋭い」と表現しました。