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説教#235:「神の物語を生きる」

「神の物語を生きる」 聖書 サムエル記 下 7:8-17、マタイによる福音書 22:41-46 2018年 9月 30日 礼拝、小岩教会 先日、娘と一緒に、娘の好きなアニメを観ていたとき、 登場人物のある一言がとても印象に残りました。 「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。 周囲の人々が自分に対して望み、自分自身に押し付けてくる姿は、 本来の自分とは違う。 誰かの理想を押し付けられ、 自分が自分であることを否定されるストーリーなど生きられない。 「あなたがたが望むストーリーをボクは生きられない」。 子ども向けのアニメでしたが、とても考えさせられる一言でした。 それと同時に、きょうの福音書の物語において、 ファリサイ派の人々を前にしたこの時のイエスさまも 似たようなことを感じていたと思うのです。 「あなた方が望むストーリーを私は生きられない」と。 ファリサイ派の人々をはじめ、ユダヤの人々が 救い主メシアに対して抱いていたストーリーとは、 どのようなものだったでしょうか?

説教#234:「神への愛と隣人への愛」

「神への愛と隣人への愛」 聖書 ミカ書 6:8、マタイによる福音書 22:34-40 2018年 9月 23日 礼拝、小岩教会 旧約聖書の律法には、数多くの戒めが記されています。 どうやら、そこには全部で613の戒めが記されているようです。 そのような数多くある戒めの中で、一体どの命令が重要なのでしょうか。 ある時イエスさまは、このことについて、 律法の専門家から質問を受けました。 しかしこの質問は、神に喜ばれる生き方を何とかして選び続けたいという 純粋な気持ちをこの人が抱いたから出てきた質問ではありませんでした。 マタイによれば、どうやら今回も悪意をもった問いかけだったようです。 「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)。 この問いかけに対して、イエスさまは、 ひとつの戒めのみを挙げることを拒否しています。 そして、ふたつの戒めを挙げ、これらが同じように重要だと答えました。 イエスさまが重要だと語る、そのふたつの戒めとは、 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、 あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37) そして、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39) という戒めでした。 私たちの全存在をかけて、全身全霊で、神を愛することと、 共に生きる人々を自分自身のように愛するということは、 向かう方向が違うように感じます。 しかし、イエスさまにとって、このふたつのことは、 神を愛することと隣人を愛することは、 分かちがたく結びついていました。 それもそのはずです。 私たちは、自分と神との関係だけを生きているわけではありません。 神が造られたこの世界で、 神が造り、愛し、養い続けているすべての人間や すべての被造物と共に私たちは暮らしています。 もしも、神が愛し、慈しみをもって見つめているものを 私たちが傷つけ、蔑ろにするならば、神は悲しみを覚えるでしょう。 そのような行いは、神への愛を表すこととは決して言えません。 その意味で、神が愛と喜びをもって造られたこの世界を 特に、そこで共に生きる人々を私たちが愛するならば、 神を愛することになるのです。

説教#233:「生きている者の神」

「生きている者の神」 聖書 出エジプト記 3:4-12、マタイによる福音書 22:23-33 2018年 9月 16日 礼拝、小岩教会 ファリサイ派の人々がイエスさまに論争を仕掛け、失敗したその直後に、 サドカイ派と呼ばれる人々が、イエスさまのもとに近寄って来ました。 マタイは、サドカイ派の人々について、 彼らは「復活はないと言っている」と紹介しています。 このような彼らの考えは、 何だか、とても現代に生きる私たちに近いものを感じます。 「死んだ者がよみがえるなど、馬鹿げている。 死んだらそれで終わりなのだ。 その先などあるわけがない。 だから、命があり、生きている、「今」という時こそが大切なのだ」。 まさにサドカイ派の人々はそのように考えていました。 彼らのこの主張は、経験的に与えられた考えではなく、 旧約聖書に基づいたものでした。 ただし、彼らは旧約聖書の最初の5つの書物のみを 聖なる書物として受け取り、その5つの書物にのみ権威を認めていため、 たとえば、ダニエル書に「多くの者が 地の塵の中の眠りから目覚める」(ダニエル12:2)と 明確に記されているような、 死者の復活を彼らは信じていませんでした。 サドカイ派の人々にとって、復活などあり得ない話なのです。 ですから、彼らはイエスさまに論争を仕掛ける際、 復活がどれほど馬鹿げたものであるかを 人々の前で明らかにしようとするのです。

説教#232:「私たちに刻まれているもの」

「私たちに刻まれているもの」 聖書 創世記 1:26-28、マタイによる福音書 22:15-22 2018年 9月 9日 礼拝、小岩教会 きょうの物語において、あるふたつのグループが手を取り合い、 悪意をもって、イエスさまに質問を投げかけています。 第一のグループは、ファリサイ派という人々です。 彼らはユダヤの人々の間で尊敬され、とても影響力のある人々であり、 律法を通して神が語ることを忠実に守ろうと務めていた人々でした。 また、律法を忠実に守りたいと願っていたため、 彼らは、ユダヤの国がローマ帝国の支配下にあることを 快く思っていませんでした。 しかし、ローマが自分たちの信仰に介入してこない限り、 彼らは、ローマ帝国の支配を受け入れていたようです。 この時、そのようなファリサイ派の人々と手を組んだのが、 ヘロデ派の人々です。 実は、この人たちについては、 あまり詳しいことはわかっていません。 ただ、「ヘロデ派」という名前から、 ユダヤの国の王であるヘロデの権力を 支持していた人々だと推測できるでしょう。 この当時のユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にあったため、 ローマの承認を得て、ヘロデ王はユダヤの国を治めていまして。 そのため、ヘロデも、ヘロデを支持する人々も、 ローマ帝国の支配を受け入れていました。 つまり、ファリサイ派とヘロデ派という、 このふたつのグループのローマに対して抱いている思いは、真逆です。 それなのに彼らは手を組み、 ローマに納める税金についてイエスさまに質問をしたのです。 何のためにでしょう?

説教#231:「招待状はあなたの手に!」

「招待状はあなたの手に!」 聖書 出エジプト記 32:1-14、マタイによる福音書 22:1-14 2018年 9月 2日 礼拝、小岩教会 イエスさまが語った、このたとえ話の興味深いところは、 王の息子の婚宴に招待された人々が、その招きを拒否した一方で、 本来その婚宴に招待されていない人々のもとに、 王からの招待状が届いたことです。 驚くべきことに、婚宴への出席を拒否されたとき、 この王は、自分の息子の婚宴へと招く人々を制限しませんでした。 王は家来たちに「町の大通りに出て、 見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」と命じて、 善い人々も、悪い人々も婚宴へ招き始めました。 そうです、すべての人々が、神に招かれているという現実を イエスさまはこのたとえ話を通して、 このたとえを聞くすべての人々に語っているのです。 でも、このように、すべての人々を快く招いているのにも関わらず、 この王は、婚礼のための礼服を着ていない者を 婚宴の席で見つけると、自分の側近の者たちに命じて、 その人を縛り、婚礼の会場から追い出したというのです。 正直、なぜ王がこのような行動を取るのか理解できません。 というのも、婚宴の会場から追い出されたこの人は、 そもそもこの婚宴に招待されていたわけではありません。 町の大通りにいたら、突然、何の前触れもなく、 この人は婚宴の席に招かれたのです。 ですから、婚宴の席に相応しい服装を準備する時間などなく、 この場所へとやって来たのでしょう。 それなのに、婚礼に相応しくない服装であることを指摘され、 挙句の果てに、手足を縛られて、外に追い出されることになるなど、 正直、納得がいきません。 理不尽とさえ思います。 考えれば考える程、王に対する不信感が 沸き起こってくるかもしれません。 でも、この物語は実際に起こった出来事ではなく、 イエスさまが語ったたとえ話であることを 思い起こす必要があると思います。