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説教#197:「闇を打ち破る知らせを歌おう」

「闇を打ち破る知らせを歌おう」 聖書 ルカによる福音書 2:1-20、イザヤ書 9:1-6 2017年 12月 24日 礼拝、小岩教会  主イエスが産まれたあの日、最初のクリスマスの夜に、  町から少し離れた荒れ野で、 数人の羊飼いたちが野宿をしていました。  彼らは、狼に羊の群れが襲われないように、  羊たちを守るため、数時間ごとに交代をしながら、  夜通し、羊の番をしていました。  彼らの多くは、農民でもあったようです。  ただ、彼らは作物を育てるための土地を持てず、  仕事で得られるお金もわずかでした。  そのため、何とか生きていくためのお金を手にするため、  羊をたくさん持っている人たちの羊を世話していたのです。  つまり、ユダヤの社会において、この当時の羊飼いたちは、  社会の底辺にいた、貧しい人たちの一人だったのです。  羊飼いたちは、自分たちの貧しい境遇で苦しんでいただけでなく、  ユダヤの人々からは偏見の目で見られていました。  「ならず者」と呼ばれ、何をしでかすかわからない人たちと、  羊飼いたちは考えられていたようです。  ですから、彼らにとって、  同じ境遇に立たされている仲間たちと一緒に、  人々の住む町を少し離れて、  荒れ野で羊の世話をしている方が、心地よかったと思います。  でも、もちろん、そのような生活に 満足しているわけではありませんでした。 好き好んで、このような生き方をしているわけではありません。  出来ることなら、人々から偏見の目で見られることなく、  町の人々と一緒に過ごしたいと願っていました。  しかし、彼らは、荒れ野に留まるしかなかったのです。  この夜、彼らを覆っていた暗闇は、  まるで、彼らの置かれている境遇を象徴するかのような暗さでした。  そんな彼らに、あの日、最初のクリスマスの日に、  神から...

説教#196:「沈黙を賛美へと変える神」

「沈黙を賛美へと変える神」 聖書 マラキ書 3:20、ルカによる福音書 1:57-80 2017年 12月 17日 礼拝、小岩教会 子どもの誕生。 それはいつの時代も喜ばしいことでした。 特に、長い間子どもが与えられずにいたエリサベトにとって、 高齢になってから子どもが与えられたことは、 どれほど嬉しかったことでしょうか。 また、エリサベトの子どもの誕生は、 彼女や夫のザカリアの親戚、 そして近所の人たちにとっても大きな喜びでした。 このように、周囲が喜びに包まれている中、 エリサベトの夫のザカリアは、一人、沈黙を守っていました。 いいえ、正確に言えば、彼は神から言葉を奪われていました。 その上、彼の周囲にいた人々が、 身振り手振りをしながら彼に接するその様子から、 どうやら、彼は耳も聞こえなくなっていたようです。 この沈黙は、何も、この時に始まったわけではありませんでした。 半年以上も前に、天使ガブリエルが、彼の前に現れて、 エリサベトが子どもを産むと告げたときから、 その言葉を信じきれなかったあのときから、 ザカリアは神によって、言葉を奪われていたのです。 この沈黙は、彼にとって、どのようなものだったのでしょうか。

説教#195:「小さな賛美に耳を傾けよ」

「小さな賛美に耳を傾けよ」 聖書 創世記 1:31、ルカによる福音書1:26-56 2017年 12月 10日 礼拝、小岩教会 ガリラヤのナザレという町に、   マリアという名の若い女性がいました。   あるとき、彼女は旅に出ることにしたそうです。   彼女が目指した場所とは、親戚のエリサベトが暮らす、   ユダ地方にある町でした。   このとき、彼女は急いでエリサベトの家を目指したようです。   ナザレからユダまで歩いて移動をすると、3~4日かかります。   そのような旅をすることを、   マリアが急に思い立った理由は何だったのでしょうか? それは彼女が旅に出る決断をする前に、 彼女のもとに天使ガブリエルが訪れたことに関係がありました。   天使が自分の前に現れることさえ、驚くべきことでしたが、   天使ガブリエルは、もっと信じられないことを彼女に語りました。   それは、マリアが男の子を産むこと。   産まれてくる子が、神の子と呼ばれること。   そして、その子が、永遠にイスラエルを治める者となることでした。   「どうして自分が選ばれたのだろうか?」   「どうしてそのようなことが、ありえるのだろうか?」   不思議に思うこと、疑問に思うことはたくさんありました。   しかし、マリアは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)   と告げる、ガブリエルの言葉を信じました。   神がこれから行われること、そして自分の身にこれから起こることを、   信仰をもって、彼女は受け止めました。   「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と。   このときマリアは、親戚のエリサベトが、   高齢であるにも関わらず、身ごもったことを   ガブリエルを通して知りました。   人間の目にはあり得ないこと、信じられないことが、   エリサベトの身に起こったを知りました。 ...

説教#194:「口が閉ざされたところに、救いが来た」

「口が閉ざされたところに、救いが来た」 聖書 ルカによる福音書 1:5-25、ゼカリヤ書 2:14-17 2017年 12月 3日 礼拝、小岩教会   その日は、祭司であるザカリアにとって、とても喜ばしい日でした。   年におよそ2回まわってくる、神殿の当番をするこの週、   彼はアビヤ組の祭司たちで仕事の分担をするためにくじを引いたところ、   神殿の聖所に入り、祭壇の前に立って、香をたく役目が当たりました。   香をたいたときに上がる煙は、ユダヤの人々の祈りを象徴していました。   香をたくことで象徴される人々の祈りを代表して、   ユダヤの人々のために祈る役割こそ、 この時、ザカリアに与えられた役目です。   どうやら、祭壇の前で香をたくというこの役目は、通常、 一生の間に1度か2度しか経験できなかったようです。 ですから、この日はザカリアにとって待ち望んでいた日でした。 ついにこの日が来たのだと、彼は心から喜んで、 白い祭司の衣をまとって、神殿の聖所へと入って行ったのです。 しかしこの日、ザカリアの身に大きな事件が起きました。  

説教#150:「驚きに満ちた旅」

「驚きに満ちた旅」 聖書 ルカによる福音書2:41-52、サムエル記 上 2:18-21 2017年 1月 15日 礼拝、小岩教会 【トラブルに溢れる日々】 事故やトラブルには、出来る限り遭いたくありません。 でも、私たちが生きる限り、 事故やトラブルに遭遇することは、どうしても避けられません。 どれだけ注意を払ったていたとしても、怪我はしますし、失敗もします。 私たちはたった一人で生きているのではなく、 様々な人と日々関わり合って、助け合いながら生きています。 だからこそ、人との関わりの中で起こるトラブルは、 よく耳にしますし、私たち自身も経験します。 大切な約束を忘れてしまったり、 何気ない一言で目の前にいる人を傷つけ、悲しませてしまったりすることで、 私たちはトラブルを引き起こしてしまいます。 時に口論になったり、 また時には、お互いに理解し合えずにすれ違い合ってしまったりします。 このようなトラブルに巻き込まれたり、事故を引き起こしてしまったとき、 私たちはそれらを何とか解決しなければと、焦り、心を奪われます。 ですから、そういった面倒事は 出来る限り避けたいというのが、正直なところです。 そんな誰も望んでいないようなトラブルが、  イエス様の両親に訪れたことを、ルカはきょうの物語を通して報告しています。 

説教#149:「その目で神の救いを見よ」

「その目で神の救いを見よ」  聖書 ルカによる福音書2:22-40、ダニエル書7:13-14  2017年 1月 8日 礼拝、小岩教会  【神の救いを待ち望む人々:シメオンとアンナ】  イエス様が生まれて40日が過ぎてから(ルカ2:22、レビ12:2-4)、  ヨセフとマリアはイエス様をエルサレムへと連れて行きました。  ユダヤの律法によれば、最初の男の子が生まれた際、 その子を神の前に捧げる儀式をする必要がありました。 そのため、イエス様の両親は律法に従って、 神殿で鳩を捧げるために、エルサレムへとやって来たのです。  この時、イエス様の家族がふたりの人物と出会ったと、ルカは報告しています。  ひとりは、シメオンという名の男性。 そして、もうひとりはアンナという名の女性で、 彼女は神の言葉を人々に伝える預言者でした(ルカ2:36)。 ルカは、シメオンの言葉を多く記録し(ルカ2:29-32、34-35)、 アンナについては短い報告で留めています(ルカ2:36-37)。 偶然同じ場所に居合わせたため、この二人は同じ話の中に登場しています。 そのため、一見この二人には強い繋がりがないように感じます。 しかし、ルカの記述から、この二人に共通することがあったことがわかります。 それは、シメオンも、アンナも、 神の救いを「待ち望む人」であったということです。 では、シメオンやアンナはどのような救いを待ち望んでいたのでしょうか。 ルカによれば、シメオンは「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたそうです。 彼は、神の慰めが自分たちイスラエルの民に必要であると感じていました。 ということは、現在のイスラエルが神の民としての理想からかけ離れ、 あるべき状態にはないと、シメオンは感じていたということでしょう。 それは、シメオンだけでなく、 その時代の多くのユダヤ人たちが感じていたことでした。 その根本的な原因のひとつは、 イスラエルの地がローマ帝国の属州となっていたことにありました。 彼らの心からの願いは、ローマ帝国の支配から完全に解放されて、 神に与えられたこの約束の地で、喜びをもっ...

説教#148:「主イエスに結ばれて生きよ」

「主イエスに結ばれて生きよ」 聖書 ルカによる福音書2:21、申命記30:1-10 2017年 1月 1日 礼拝、小岩教会 【1月1日は主イエスの「命名日」】  新年あけましておめでとうございます。  皆さんの新しい1年の歩みの上に、主キリストの平和と祝福を祈ります。  さて、新しい年を迎えるとき、 私たちはこれからの1年の予定をあれこれと思い巡らし、 色々な計画を立て、いくつかの決意をもって新しい年を歩み始めます。  そのような計画や決意の影には、  昨年の1年の歩みを振り返った中で都合の悪いことや反省をリセットし、  出来るなら忘れ去って、切り替えて歩みたいという思いがあります。  もちろん、それは決して悪いことではありません。 起こった出来事を完全になかったことにすることは出来ませんが、 それでも、信仰者は主キリストにあって、  いつでも、いつからでも新しく歩み始めることが出来るのですから。  でも、私たちを取り囲む年末年始の雰囲気に流されて、  一緒に忘れてしまってはいけないことがあります。 それは、イエス・キリストがお生まれになったという知らせです。 クリスマスの後こそ、私たちはイエス様の誕生を喜ぶべきではありませんか。 きょうの箇所で、ルカは短いけれども、重要なことを私たちに伝えます。  八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:21) 教会はおよそ2000年間の間、  12月25日にイエス様の誕生をお祝いしてきました。  12月25日から数えて8日目が、1月1日です。  そのため、新しい年の最初の日は、  イエス・キリストの「命名日」としてお祝いされています。 

説教#147:「居場所を与えるために来られた方」

「居場所を与えるために来られた方」  聖書 ルカによる福音書2:1-20、申命記10:17-19 2016年 12月 25日 礼拝、小岩教会  【泊まる場所が見つからないマリアとヨセフ】 皆さん、クリスマスおめでとうございます。 きょう私たちは、この礼拝を通して、  私たちの救い主である、イエス・キリストがお生まれになったことを  一緒にお祝いする時間を過ごしています。  きょう一日、世界中のあらゆる教会で、  イエス様の誕生が喜ばれ、お祝いされていることでしょう。  そして、愛する家族や友人たち、また教会の人々と 一緒に楽しいひとときを過ごし、 美味しい食事を食べて、 プレゼントをお互いに交換し合う。  そのように、日本だけでなく、世界中が喜びに包まれ、  楽しく、明るい雰囲気になるのがクリスマスの日です。  そうであるならば、私たちのこの喜びのきっかけとなった  イエス・キリストの誕生は、さぞかし喜びに包まれ、  華やかに、多くの人に祝われたのだろうと想像してしまいます。  でも、どうやらそうではなかったと、  先ほど朗読していただいた聖書の言葉は私たちに告げます。  ルカはイエス様の誕生について、このように書いています。  ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7) イエス様の両親であるヨセフとマリアは、  当時の皇帝の勅令に従って、住民登録をするために、  ユダヤ地方にあるベツレヘムの町を訪れていました。  当時の人々は、旅に出た際、  行った先々の地に住む親戚や知人を探し出して、 その人の家に泊めてもらったそうです。 7節で「宿屋」と訳されている言葉は、 商業的な宿泊場所ではなく、個人の家の客間を意味しています。 ですから、ヨセフとマリアも、当時の人々の習慣に従い、 一晩泊めてもら...

説教#146:「マリアと共に歌え」

「マリアと共に歌え」  聖書 ルカによる福音書 1:46-56、サムエル記 上 2:1-10 2016年 12月 18日 礼拝、小岩教会 【私たちは歌う】  皆さんはどのようなときに歌を歌うでしょうか。  もちろん個人差はあるでしょうが、  私たちは様々なときに歌を口ずさみます。  単調な作業を続けているときは、  その場を華やかに、また楽しくするために、  口笛を吹いたり、鼻歌を歌ったりします。 子育て中の方は、子どもと一緒に遊んだり、  子どもをあやしたりするために歌います。 「いろは歌」や「アルファベットの歌」など、  歌を用いて、必要な知識や教養を身につけることは、  恐らく多くの人たちが経験してきたことでしょう。  また、単純に歌うことが好きだから歌う人もいれば、 ストレスを発散する目的で、大声で歌う人もあるでしょう。  このように、私たちは生活の様々な場面で歌を歌ってきましたし、  きっとこれからも歌い続けます。  楽しいときも、悲しいときにも、  嬉しいにも、苦しいときも、 その時、その瞬間の自分の気持ちに寄り添ってくれる歌を  私たちは選び、歌を口ずさみます。 

説教#145:「そして、世界は喜び躍る」

「そして、世界は喜び躍る」 聖書 ルカによる福音書 1:39−45、イザヤ書 61:10−11 2016年 12月 11日 礼拝、小岩教会 【マリア、エリサベトのもとへ挨拶へ行く】 「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と天使から告げられた、 イエス・キリストの母となるマリア。 彼女はその後、親戚のエリサベトに会うために、旅に出たそうです。 マリアが住んでいたナザレから、 エリサベトのいるユダまで、およそ150kmあります。 当時の移動手段は徒歩ですので、 移動のために3,4日は必要です。 決して近くはないこの道のりを旅することを、 どうやらマリアは「急いで」(ルカ1:39)決断したそうです。 マリアをこのような行動へと駆り立てたのは、神ご自身でした。 神は、ご自分が遣わした天使を通して、 マリアが男の子を産むことを伝えた後、このように語りました。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。(ルカ1:36−37)  「不妊の女」と呼ばれていたエリサベトが、 お腹に子を宿してから、もう6ヶ月になる。 この事実は、「神に出来ないことは何一つない」ことを、 マリアに確信させるものでした。 それと同時に、子どもを身ごもるはずがないのに、身ごもるという、 あり得ない出来事が起こったエリサベトは、 自分と近い境遇にあるとマリアは感じたのでしょう。 だから、是非とも、早い内にエリサベトに会いたい。 そのような願いが、自分の内側から沸き起こり、 その思いに促されて、マリアはエリサベトのもとへ行く決意をしました。 この物語の語り手のルカも、エリサベトのもとへと急ぐマリアに引っ張られ、 どこか急ぎ足で話を進めているようにも感じます。 旅のための身支度や、マリアの旅の様子など全く描くことなく、 物語は一気にエリサベトの暮らす家へと移ります。

説教#144:「神に出来ること、出来ないこと」

「神に出来ること、出来ないこと」 聖書 ルカによる福音書 1:26-38、創世記 18:9-15 2016年 12月 4日 礼拝、小岩教会 【サラとマリア】 きょうは、ふたつの物語を一緒に朗読して頂きました。 このふたつの物語には、 同じような状況に立たされている女性の姿が描かれています。 ひとりの女性の名前は、サラ。 彼女は、神によって遣わされた人を通して、 神が自分の夫のアブラハムに告げた言葉を聞きました。 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(創世記18:10) この話をこっそりと聞いていたサラは、ひそかに笑いました(創世記18:12)。 というのも、彼女はこの時すでに89歳でした。 常識的に考えれば、89歳の女性に子どもが生まれるはずありません。 では、もう一人の女性はどのような人物だったのでしょうか。 ルカによる福音書に登場した女性の名前は、マリア。 彼女のもとにある日、ガブリエルという名の天使がやって来て、 その天使は彼女にこのように告げました。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33) この天使の言葉に、マリアは戸惑い、恐れを抱きました。 そして、反論します。 「どうして、そのようなことがありえましょうか。」(ルカ1:34) 彼女がこのように戸惑い、反論する理由はとてもよく理解できます。 というのも、彼女は婚約期間中ではありましたが、 男性と性交渉をした経験などなかったのですから。 彼女が、子どもを身ごもるわけなどありません。 そんなのあり得ない話なのです。

説教#143:「おめでとう、恵まれた方」

「おめでとう、恵まれた方」 聖書 ルカによる福音書 1:26-34、創世記 18:9-10 2016年 11月 27日 礼拝、小岩教会  【天使ガブリエルの挨拶】  ある日、神がガブリエルという名の天使を、ナザレという田舎の村にいる ひとりの女性のもとに遣わしたことから、きょうの物語は始まります。 マリアという名の女性のもとに天使ガブリエルは現れて、 このように言いました。  「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28) 「おめでとう」と訳されている言葉は、 「喜び」という意味をもつギリシア語が使われています。 ただ、この言葉はごく普通の挨拶の言葉で、 出会ったときにも、別れるときにも用いられるものでした。 そして、「主があなたと共におられる」という表現も、 当時のユダヤの人たちにとっては慣用的な挨拶です。 ですから、ギリシア語聖書を読むと、 天使ガブリエルはマリアに単に挨拶をしただけのようにも受け取れます。 しかし、突然、自分のもとに現れた天使が語り始めたこの言葉を、 マリアは単なる挨拶とは受け取ることが出来ませんでした。 まさにこれらの挨拶が本来持っていた意味として、 彼女はこれらの言葉を受け取ったのです。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28) 突然、神の使いから祝福の言葉を告げられたのですから、それは当然驚きます。 ですから、「マリアはこの言葉に戸惑い、考え込」んでしまいました。 「いったいこの挨拶は何のことか」(ルカ1:29)と。 【「おめでとう」とは決して言えない状況に立つマリア】  「なぜ神は天使を遣わして、自分に祝福の言葉を語るのだろうか」と、 マリアが考え込んでいると、天使ガブリエルは 神から預かったメッセージを彼女に告げました。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:31) 婚約期間中であるマリアは、ガブリエルの語ったこの言葉を聞いた後、 「わたしは男の人を知りません」(ルカ1:34)と答えました。 彼女はどう考えても子どもを身ごもるわけがないのです。 ...