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説教#259:「神はあなたを決して見捨てない」

「神はあなたを決して見捨てない」 聖書 申命記 7:6-8、マタイによる福音書 26:36-56 2019年 3月 24日 礼拝、小岩教会 マタイは、ゲツセマネと呼ばれる園で、 イエスさまが「悲しみもだえ始めた」と記しています。 悲しみもだえるイエスさまは、 「わたしは死ぬばかりに悲しい。 ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と語り、 弟子たちの前で自分の抱える弱さをさらけ出します。 そして、神の前で、「父よ、できることなら、 この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈り、 イエスさまは自分の抱える苦しみや悲しみを吐き出しました。 こんなにも弱り果てたイエスさまを 弟子たちはこれまで見たことがありませんでした。 この時、イエスさまはなぜこんなにも苦しんでいたのでしょうか。 なぜこんなにも悲しんでいたのでしょうか。 それは、イエスさまがこれから経験することと関係がありました。 死が、人間の抱える罪や弱さが、この世界の悪が、 まさにこれからイエスさまに襲いかかろうとしていました。 イエスさまは、弟子のひとりである イスカリオテのユダに裏切られようとしています。 同胞のユダヤ人たちにイエスさまが逮捕されたとき、 他の弟子たちは皆、イエスさまを見捨てて逃げてしまいます。 そして、これから十字架刑にイエスさまは定められるのです。 十字架へ至るその道において、イエスさまは、 周囲の人々から誤解され、あざけられ、 唾を吐きかけられ、ののしられながら死んでいきます。 これまでイエスさまを歓迎し、 イエスさまに期待していたあのユダヤの人々が、 手のひらを返したように、 「この男を十字架にかけろ」と叫び続け、 イエスさまを徹底的に拒絶したのです。 イエスさまがこれから経験しようとする苦しみは、 それで終わりではありませんでした。 愛する弟子たちから裏切られ、見捨てられ、 人々から拒絶されたばかりでなく、 その上、イエスさまは最終的には、 神からも見捨てられます。 イエスさまは、これから経験する これらの苦しみや悲しみを十分によくわかっていました。 想像すればするほど、胸が苦しくなります。 だから、イエスさ

説教#258:「共に食卓を囲む人々」

「共に食卓を囲む人々」 聖書 出エジプト記 24:3-8、マタイによる福音書 26:17-35 2019年 3月 17日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 親しい人たちと食卓を囲むのは、とても楽しいことです。 あっという間に、そのような楽しい時間は流れていきます。 会話が溢れてきます。 そして、心はとても満たされます。 でもその一方で、残念なことに、 楽しくない食事の時間だってあります。 喧嘩をしたとき。 悩みを抱え、思い詰めるとき。 あまり好きになれない相手と食事をするとき。 そのようなとき、嬉しいはずの食事の時間は、 とても気が重い、早く過ぎ去って欲しい時間となってしまいます。 さきほど朗読していただいた福音書の物語において、 イエスさまは弟子たちと一緒に食事の席についています。 「最後の晩餐」と呼ばれるこの食事の席についたとき、 イエスさまは一体どのような思いを抱いていたのでしょうか。 イエスさまはこの時、自分を裏切る者が、 一緒に食卓を囲んでいる弟子たちの中にいることを知っていました。 そう、イスカリオテのユダが自分を裏切ることを イエスさまは知っておられました。 そして、イエスさまは、 これから自分の身に起こることを予期しておられました。 ユダだけでなく、他の弟子たちもイエスさまを見捨ててしまうことを。 「わたしは決してつまずかない」と自信をもって語るペトロさえも、 人々の前でイエスさまのことを呪い始め、 イエスさまとの関係を否定してしまうことを。 そして、自分を快く迎え入れていた仲間のユダヤ人たちから、 イエスさまは拒絶され、死刑に定められることになります。 イエスさまはそのようなことが これから起こることをよく知っておられました。 そのすべてを知った上で、イエスさまはこの食事の席につきました。 ですから、最後の晩餐と呼ばれるこの食卓は、 実は、イエスさまを裏切り、見捨てる人々しかいませんでした。 その意味で、この食事の時間はイエスさまにとって、 あまり喜んで過ごすことのできる時間ではありませんでした。 それでも、イエスさまは、 自分を裏切ることになる弟子たちを食卓に招かれました。 悲しみを覚えながらも、愛してやまないご自分の弟子たちと 一緒に食事をとることをイエスさまは

説教#257:「惜しまない愛」

「惜しまない愛」 聖書 申命記 15:7−11、マタイによる福音書 26:1−16 2019年 3月 10日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 「もったいない!」 「何でこんな無駄遣いをするんだ!」 「どうしてこんなに時間やお金を無駄に使ってしまうのだろうか?」 誰もがきっと、これまでに、 そんな思いを何度も抱いてきたことでしょう。 そのような思いを私たちが抱いてしまうのは、 自分たちが持っているものには限りがあると気づいているからです。 何もないところからお金が降ってくることはありません。 好き勝手欲しいものを買っては、破産してしまいます。 時間が無限にあるわけもなく、 私たちには与えられているのは、 1日に24時間、1年に365日です。 すべての物事に時間的な制約や期限があります。 何よりも私たちの身体は衰えていくものです。 この地上での生命や身体を永遠に用いることが出来るわけありません。 人それぞれに与えられている能力や才能だって、 自分という人間の体力や時間をすり減らして用いていくわけですから、 確実に限りのあるものです。 この世界に存在するすべてのものには限りがあります。 そして、私たち自身に出来る限界もあります。 だからこそ、私たちは物事に優先順位をつけて、 大切だと思うものを大切にします。 そして、優先度の低いものに財産を注ぐことは 無駄や浪費だと感じるわけです。 そんな私たちにとって、 名もなき女性がイエスさまに高価な香油を注いだ物語は、 私たちが当然と思っている価値判断やそれに基づく行動が、 「本当にそれで良いのか?」と、 私たちに改めて問いかけてくる物語だと思います。 ある女性がイエスさまに高価な香油をかけたとき、 イエスさまの弟子たちは「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と、 疑問の声を上げました。(マタイ26:8−9)

説教#256:「神の言葉に刺し通されるならば」

「神の言葉に刺し通されるならば」 聖書 アモス書 5:6-15、ヘブライ人への手紙 4:11-13 2019年 3月 3日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 私たちが生きる上で、 言葉は決して欠かすことの出来ないものです。 自分の思いを伝え、相手の気持ちを知るためには、 お互いに言葉を通わす必要があります。 言葉がなければ、細かな情報を伝えることは難しいでしょう。 でも、言葉がなくても、 表情や動作を通して、絵や物を通して、 伝わることもたくさんあります。 その意味で、この口から出るものや、 文字として記されるものだけが言葉なのでなく、 私たちの生き方そのものも言葉といえるでしょう。 ですから、そう考えると、 私たちは様々な言葉にいつも囲まれて生きています。 ただ、そのことは、いつも喜べることではありません。 時々、周囲の言葉に耳を塞ぎたくなるのは、 何も私だけではないと思います。 人を非難し、貶めようとする声が聞こえてきます。 陰口が囁かれるのが聞こえてきます。 自分とは違う考えや文化もち、 違う外見や生き方をする人々を 拒絶し、差別する声が聞こえてきます。 そのような声を聞いて、苦しみ、嘆く声が聞こえてきます。 平和ではなく、対立や争いが広がる声が聞こえてきます。 聞こえてくるだけならば、まだ良いのかもしれません。 悪意や敵意に満ちた言葉が、 私たちに牙をむくことだって十分あります。 相手にその気がなくても、言葉が鋭く私の心を傷つけることもあります。 そのような経験を誰もが何度も味わってきたことでしょう。 そうです、私たちはこれまでに色々な言葉に傷ついてきました。 言葉は、慰めや愛情を私たちのもとに届けると共に、 私たちを深く傷つけることも出来るのです。 言葉のもつ鋭さのようなものは、 誰もが認めるところでしょう。 ヘブライ人への手紙の著者は、神の言葉について語った際、 「どんな両刃の剣よりも鋭い」と表現しました。

説教#255:「安息に向かって歩む旅」

「安息に向かって歩む旅」 聖書 ヨシュア記 1:1-9、ヘブライ人への手紙 4:1-10 2019年 2月 24日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 さきほど一緒に声を合わせて読み交わした、詩編84篇の詩人は、 神のみもとにこそ安らぎがあり、 神と共に歩む中にこそ平安があると感じていました。 ですから、この詩人は、喜びのうちにこのように歌いました。 いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら(詩編 84:5) 「あなたの家」。 それは神を礼拝する神殿を意味しますが、 やがて、エルサレムの神殿が崩壊した後、 この言葉は、天の神のいるところを意味するものとして、 信仰者たちから受け止められるようになりました。 つまり、「将来、天の国に受け止められるその日、 私たちは神の家に招かれ、神のもとで安らぎ、神と共に生きる」と。 このことは、ヘブライ人への手紙の著者も抱いた強い確信でした。 著者は、将来、神のみもとへと行く日を 天の都へと招かれるその日を「安息」と呼んで、読者に語りかけます。 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、 取り残されてしまったと思われる者が あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。 (ヘブライ 4:1)

説教#254:「聖霊は『今日』と言う」

「聖霊は『今日』と言う」 聖書 申命記 11:26-32、ヘブライ人への手紙 3:7-19 2019年 2月 17日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 私たちは毎週の礼拝の中で「使徒信条」を用いて、 世界中の信仰者たちと一緒に、 また歴史上のすべての信仰者たちと一緒に、信仰を告白しています。 この使徒信条の後半で、私たちはこのように告白しています。 「わたしは聖霊を信じます」と。 私たちが信じる聖霊とは、一体どのようなお方なのでしょうか。 聖書の証言によれば、十字架にかかって死んで、 死者の中からよみがえったイエスさまが天に昇り、 ご自分の弟子たちのもとを離れた後に、 イエスさまを信じるすべての人々に与えられたのが、聖霊なる神です。 聖霊は、ヨハネ福音書では、「弁護者」と紹介されています。 「弁護者」と訳されている、パラクレートスというギリシア語は、 「助け主」や「慰め主」と訳されることもありますが、 もともとは「傍らに呼ばれた者」という意味を持っています。 つまり、私たちが祈り求めると、傍らにいてくれる。 そして、私たちが叫び求めると、助けや慰めを与えてくれる。 聖霊とは、そのようなお方なのです。 何よりも、すべての信仰者に聖霊を与えることを通して、 イエスさまはすべての者の傍らに立っていてくださいます。 聖霊こそ、私たちと父なる神、 そして私たちとイエスさまを結び合わせてくださるお方なのです。 ですから私たちは、聖霊が与えられているという事実を、 使徒信条を通して、喜びをもって告白するようにと招かれているのです。 「わたしは聖霊を信じます」と。 このように、私たち一人ひとりに与えられている聖霊について、 ヘブライ人への手紙の著者は、きょうの箇所において、 詩編95篇を引用しながら、とても印象的に語っています。 だから、聖霊がこう言われるとおりです。 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、 荒れ野で試練を受けたころ、 神に反抗したときのように、 心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ 3:7-8)  

説教#253:「天の召しに共にあずかっている!」

「天の召しに共にあずかっている!」 聖書 出エジプト記 32:7-14、ヘブライ人への手紙 3:1-6 2019年 2月 10日 礼拝、小岩教会 説教者 稲葉基嗣 ヘブライ人への手紙の著者は、読者に呼びかけることを通して、 キリストを信じる人々とは一体、何者であるかを伝えようとしています。 そして、何よりも、そのような人々が集う、教会という群れについて、 どのように理解するべきかを私たちに伝えるために、 著者は、読者にこのように語りかけました。 天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち(ヘブライ 3:1) 「天の召し」とは、何を意味するのでしょうか。 聖書の語る天とは、現代人が考える天、つまり空とは違います。 天とは、神が支配する領域のことです。 人間の力で、天に行くことは決して出来ません。 ですから、天の召しとは、 人間の外側からやって来るものと言えるでしょう。 すなわち、神の招きとは、私たちの手の届かないところから、 神の恵みとして私たちのもとにやって来るのです。 人間の外側ということは、 私たちの側には理由がないということです。 神の側にこそ理由があり、神の意志に基づいて、 私たちは神から招かれ、聖なる者とされているのです。 それはつまり、神によって選ばれ、神のものとされたということです。 この選びに天の召し、神の招きがあるのです。 もちろん、それは私たちから自由を奪うものでは決してありません。 私たちの意志や感情を無視して、 自分の都合の良いように動くロボットのように、 私たちを用いるために、 神が私たちを選び、私たちを神のものとしたわけではありません。 神は、私たちを宝のように大切にしてくださいます。 神の独り子であるイエスさまが、 まことの人として私たちのもとで生きたことを通して、 私たちが思うよりも、神は近くに、私たちと共におられ、 私たちと親しく関わりを持ちたいと 神が心から願っていることが明らかにされました。 つまり、私たちの人格も、感情も、 心に抱える思い煩いのすべてをも大切にしながら、 神はあなたを喜びをもって受け止めてくださっているのです。 私たちの存在のすべてを愛し、 慈しみをもって

説教#252:「神の恵みによって、すべての人のために」

「神の恵みによって、すべての人のために」 聖書 イザヤ書 63:7-9、ヘブライ人への手紙 2:5-18 2019年 2月 3日 礼拝、小岩教会 ヘブライ人への手紙の著者は、1章において、 神の御子であるイエスさまと天使たちを比較することに 多くの時間を割いています。 その際、天使たちは神によって造られた やがては朽ち果てていく被造物に過ぎないけれども、 イエスさまは神の独り子であり、神であると伝えました。 つまり、イエスさまは天使たちよりも 遥かに優れた存在であることを著者は強調しました。 しかし、2章において著者は、 詩編8篇から引用して、このように語ります。 あなたは彼を天使たちよりも、 わずかの間、低い者とされた(ヘブライ 2:7) 著者は、詩編のこの言葉が、 イエス・キリストについて語られたものと考えています。 イエスさまは、天使たちよりも遥かに優れた存在です。 いや、そもそも比べられる存在ではないのに、 それなのに、イエス・キリストは、 わずかの間、天使たちよりも低い者とされました。 どのようにして、イエスさまは低い者とされたのでしょうか。

説教#251:「だから、想い起こせ」

「だから、想い起こせ」 聖書 申命記 4:32-40、ヘブライ人への手紙 2:1-4 2019年 1月 27日 小岩教会、礼拝 私たちはいつも、大切なことを忘れてしまう危険と隣り合わせでいます。 重要な書類の提出締切、試験の中で問いかけられる言葉の意味、 大切な人との待ち合わせ、パスワードや暗証番号に至るまで、 私たちにとって忘れてはいけないことは、数多く存在します。 もちろん、忘れたいことも数多くあります。 それでも、忘れてはいけないことを、忘れてしまうことは、 出来る限り避けるべきことなのは、 誰にとっても当然のことと言えるでしょう。 今日、神は、ヘブライ人への手紙の著者を通して、 「だから、わたしたちは聞いたことに いっそう注意を払わねばなりません。 そうでないと、押し流されてしまいます」(ヘブライ 2:1) と私たち一人ひとりに語りかけています。 この手紙の著者がこのように語るのは、 明らかに、私たちが大切なことを忘れてしまうことがあるからです。 ここで「注意を払う」と訳されている言葉は、 「耳を傾ける」という意味をもつ、ギリシア語が用いられています。 つまり、私たちは大切なことを忘れてしまうと同時に、 そもそもその大切なことを私たちに告げる言葉を聞かずに、 「聞き流してしまう」危険だってあるのです。 ところで、著者がこのとき、 この手紙を送った人々に注意を払ってほしいと、 しっかりと耳を傾けてほしいと、 切実に願ったこととは、一体どのようなことだったのでしょうか。

説教#250:「永遠に変わることのない方を信頼する」

「永遠に変わることのない方を信頼する」 聖書 イザヤ書 61:1-4、ヘブライ人への手紙 1:5-14 2019年 1月 20日 礼拝、小岩教会 ヘブライ人への手紙は、「手紙」という表題が付いていますが、 実は、当時の教会で語られた3つの説教が収められた書簡だと、 現在では考えられています。 さきほど読んでいただいた箇所を読むと、 この手紙が、もともとは説教であるといわれる理由が よくわかると思います。 というのも、著者は旧約聖書から7つもの引用を行って、 今日の箇所を述べているからです。 聖書を土台にして、その時代の信仰者たちに相応しく、 神の言葉を伝えることは、いつの時代も教会が行ってきたことです。 そう考えると、ヘブライ人への手紙が朗読されることを通して、 1世紀の末に、キリスト教会の中で当時の信仰者たちに語られた 説教の雰囲気が何となく伝わってくる気がします。 それでは、旧約聖書から多くの引用を行うことを通して、 著者は今日のこの箇所によって、 一体、何を人々に伝えたいと願っていたのでしょうか。 一読して気づくのは、 御子、つまりイエス・キリストと天使が比較されていることでしょう。 著者は、天使とキリストの比較について、このように語り始めます。 いったい神は、かつて天使のだれに、 「あなたはわたしの子、 わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、 更にまた、「わたしは彼の父となり、 彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。 (ヘブライ 1:5) 天使とは、神の言葉を携えて、 人々に伝えるメッセンジャーだと考えられていました。 その意味で、天使たちは、 神の言葉を伝える重要な役割を担っている存在だと言えるでしょう。 しかし、そのような天使たちに対して、 神は決して、「わたしの子」とは言わなかったと、 著者は旧約聖書からの引用を通して伝えています。 天使たちはあくまで神によって造られた者に過ぎず、 イエス・キリストのみが、神から「子」と呼ばれ、 神に対して「父」と語ることの出来る存在だと、 著者は宣言しているのです。

説教#249:「神は諦めずに語り続ける」

「神は諦めずに語り続ける」 聖書 サムエル記 上 3:1−10、ヘブライ人への手紙 1:1−4 2019年 1月 13日 礼拝、小岩教会 私たちの日常は、言葉に満ちています。 私たちが行くところ何処においても、 様々なものが、様々な人たちが、私たちに語り掛けてきます。 家の中での家族との会話。 駅のホームのアナウンス。 行き交う人々の会話。 テレビを通して聞く言葉。 スマホやパソコンの画面から目に入ってくる情報。 街を歩けば、広告が目に映り、 流行りの音楽が絶えず鳴り響いています。 このように思い巡らしてみると、私たちは普段から、 実に、多くの言葉に囲まれていることがわかるでしょう。 私たちはそれらの言葉を心に留めたり、 右耳から左耳へと抜けていくように、忘れたてしまったり、 まったく気に留めなかったりします。 様々な言葉に、怒りを覚えたり、悲しんだり、 喜んだり、気まずくなったりします。 このように、語り掛けられる言葉に対する 私たちの反応は実に様々です。 さきほど読んでいただいたヘブライ人への手紙は、 「神は、語られた」という言葉から始まっています。 神は、かつて預言者たちによって、 多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた (ヘブライ1:1) 著者は、この手紙をはじめるにあたり、 この文書が朗読されるのを聞く人々の過去に注意を向けさせます。 「今、神の言葉が語られている」ではなく、 何よりも、かつて、神は多くのかたちで、様々な方法によって、 あなた方の先祖たちに語り続けてきた、と。