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説教#8:「キリストの使節として」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。 『キリストの使節として』 聖書 ネヘミヤ記2:17-20、Ⅱコリント5:19-21 日時 2011年10月16日(日) 場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

説教#2:「痛みを伴う歩み」

「痛みを伴う歩み」 聖書 詩編126:5-6、Ⅱコリント12:7-10 日時 2011年8月7日(日) 場所 出雲南教会、木次教会 【はじめに:痛みを伴う歩み】 私たちは毎日、多くの「痛み」を抱えながら生きています。 それは、持病や怪我といった身体的な痛みかもしれません。 身体的な痛みは、私たちの生活に制限を与えます。 今まで出来たことを出来なくしたり、 それによって、諦めなければならないことが出てきたりするなど、 その痛みは、時に私たちの心とも関係してきます。 また、それは友人や家族など、周囲の人たちとの関わりの中で受けた傷による、この心の痛みかもしれません。 人それぞれ抱えている「痛み」は様々ですが、 多かれ少なかれ、確かに私たちの内に痛みというものはあります。 私たちは、ある程度の痛みは、受け入れることが出来るにしても、 それが積み重なってきたり、 予想外のタイミングや、想像以上の痛みだった場合、 困惑し、落胆してしまいます。 そして、次第に問いが生まれてきます。 一体、この痛みにはどのような意味があるのか。 なぜ私に、と。 【パウロの抱えた「痛み」】 今日、私たちに与えられたこの箇所で、著者パウロは「ひとつのとげが与」(12:7)えられたと語っています。 パウロに与えられたこの「とげ」とはどのようなものだったのでしょうか。 パウロのいう「とげ」が何なのかを私たちは正確に知ることは出来ません。 しかし、「身に一つのとげが」という言葉から、肉体的疾患を彼は患っていたと解釈することが出来ます。 実際、パウロに与えられたとげがどのようなものであったにせよ、 このとげが痛みを伴うものであったことは明白です。 彼はこのとげによって痛み苦しんでいました。 パウロは、この痛みにより、多くのストレスを抱えたことでしょう。 眠れぬ夜もあったかもしれません。 肉体の不自由さを覚え、自分自身に苛立ちを感じるときもあったかもしれません。 そして、何より、このとげによって与えられている痛みにより、 自分の宣教が妨げられている、制限されていると感じたかもしれません。 このとげが自分の宣教の枷となっている、と。 それを思うと、「これを私から去らせて」(12:8、新改訳)欲しいと願う、 パウロの三度の祈りの必死さ...