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説教#209:「神の子が見捨てられた理由」

「神の子が見捨てられた理由」 聖書 イザヤ書 52:13−53:12、マルコによる福音書 14:43−50 2018年 3月 25日 礼拝、小岩教会 イエスさまの弟子のひとりである、イスカリオテのユダは、 ユダヤの祭司長たちとの間に、ある約束をしていました。 それは、イエスさまを彼らに引き渡す代わりに、 お金を受け取るというものでした。 祭司長たちや律法学者たちは、 イエスさまを捕らえて殺そうと考えていたため、 喜んで、ユダのこの提案に乗ることにしました。 祭司長たちとの間に、このような約束をしてから、ユダは、 イエスさまを彼らに引き渡すタイミングを見計らっていました。 過越祭のお祝いの食事を終えた後、 真夜中に、イエスさまは弟子たちを連れて、 ゲツセマネと呼ばれる場所に来て、そこで祈り始めました。 この時こそ、まさに、 イエスさまを祭司長たちに引き渡す、絶好の機会でした。 ですから、ユダは、イエスさまを捕らえて引き渡すために、 祭司長、律法学者、そして長老たちが遣わした群衆を イエスさまのもとに連れて来ました。 彼らのその手には、剣やこん棒といった武器が握られていました。 また、暗闇を照らすために、松明を持った者もいました。 想像してみると、なんと恐ろしい光景でしょうか。

説教#208:「しかし、み心のままに」

「しかし、み心のままに」 聖書 イザヤ書 50:4−9、マルコによる福音書 14:32−42 2018年 3月 18日 礼拝、小岩教会 こんなにもひどく恐れ、もだえ苦しむイエスさまの姿を 弟子たちは初めて見ました。 イエスさまは、その心に抱える苦しみや悲しみに 今にも押し潰されそうになりながら、 「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ14:34)と語り、 弟子たちの前で自らの弱さをさらけ出しました。 そして、弟子たちから少し離れたところで、 地にひれ伏して、イエスさまは祈り始めました。 ゲツセマネと呼ばれる園で、イエスさまはなぜ、 こんなにも苦しみや悲しみを抱えながら、祈られたのでしょうか。

説教#207:「『あなたがたより先に行く』と主は言われる」

「『あなたがたより先に行く』と主は言われる」 聖書 ゼカリヤ書 13:7-9、マルコによる福音書 14:26-31 2018年 3月 11日 礼拝、小岩教会 それは、「わたしを裏切ろうとしている者があなた方の中にいる」と、 「最後の晩餐」と呼ばれる、あの食事の席で、 イエスさまが弟子たちに告げたばかりのことでした。 食事を終えて、オリーブ山と呼ばれる、 エルサレムの東にある山へと向かうその途中で、 イエスさまは、弟子たちに向かって口を開きます。 「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と。 イエスさまが弟子たちに告げたことは、 彼らにとって、大きな悲しみを覚える言葉でした。 裏切り者が仲間の中にいることを知っただけでも、 彼らは動揺しました。

説教#206:「赦しを宣言する食卓」

「赦しを宣言する食卓」 聖書 申命記 16:1−8、マルコによる福音書 14:12−26 2018年 2月 25日 礼拝、小岩教会 除酵祭、過越祭という、 ユダヤのふたつの大切なお祭りの時期を迎えたとき、 イエスさまは、弟子たちと共に過越の食事をお祝いしました。 このお祭りは、かつてエジプトで奴隷の身分であったイスラエルの民に、 神の救いの手が伸ばされて、 奴隷状態から解放されたことをお祝いするお祭りでした。 ユダヤの人々は、このお祭りを毎年のように守ることを通して、 かつて自分たちの先祖が、神の憐れみによって、 エジプトから救い出されたように、 神の救いの手は、今も自分たちに伸ばされることを確認しました。 ですから、ユダヤの人々にとって、この過越の食事は、 神への感謝を確認し、将来への希望を見つめることの出来る、 喜びに溢れるひと時でした。 しかし、その食事の席において、 イエスさまは突然、弟子たちに向かって、 このようなことを語り始めました。 はっきり言っておくが、 あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、 わたしを裏切ろうとしている。(マルコ14:18) イエスさまの言葉を聞いて、弟子たちは驚き、 お互いの顔を見回したことでしょう。 そして、彼らは徐々に不安になってきます。 親しげに一緒に食事をしている仲間の誰かが、 これからイエスさまを裏切ろうとしているなんて……。 いや、それとも、まさか、気づかぬうちに、 自分がイエスさまを裏切ることになるのではないだろうか……。

説教#205:「愛こそが、いつまでも残りますように」

「愛こそが、いつまでも残りますように」 聖書 サムエル記 上 16:11-13、マルコによる福音書 14:1-11 2018年 2月 18日 礼拝、小岩教会 イエスさまを殺そうと計画する人々がいたこと。 そして、イエスさまの弟子の一人であったイスカリオテのユダが、 イエスさまを裏切ろうとしていたこと。 不穏な空気が漂う、このようなふたつの物語に挟まれて、 名も無き一人の女性の行動が描かれています。 正直、この女性の行動には驚かされます。 食事の席についていたイエスさまのもとへ、 彼女は香油の入った石膏の壺を持って入って行き、その壺を割って、 イエスさまの頭に香油を注ぎかけた、というのですから。 でも、食事の際に香油をかけるという行為自体は、 この当時のユダヤの文化では、とても自然なことでした。 寧ろ、この時の彼女の行動が、 その場にいた人々にとって異常に思えたのは、 「ナルドの香油」というとても高価な香油を、 彼女が惜しまずに、すべてイエスさまに注いだことにありました。 香油の入った壺を割った音が聞こえ、 香油の香りが漂ってくる。 これがナルドの香油の香りだと気づいた時、 そこにいた人々は眉をひそめ、彼女を批判し始めました。 人々は口々に彼女に対する批判を言い、 彼女へ向けられた攻撃的な言葉は、家中に響きわたりました。 なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。 この香油は三百デナリオン以上に売って、 貧しい人々に施すことができたのに。(マルコ14:4-5) 確かに、彼らの批判はもっともです。 彼女がイエスさまに注いだナルドの香油は、 300デナリオン以上の価値がありました。 それは、当時のユダヤの日雇い労働者の一年分の賃金です。 もちろん、毎日の生活だけでも大変でした。 ですから、この香油は彼女にとって、 一年分もの賃金を時間をかけて貯めて、 ようやく手に入れ、手元に置いていた大切な財産でした。 いや、もしかしたら、このナルドの香油は、 彼女だけの力では手に入れられなかったかもしれません。 ある日、両親から手渡されたものだったかもしれません。 彼女がどのようにこの香油を手に入れたにせよ、 この香油が貴...

説教#163:「閉じたものが開くとき」

「閉じたものが開くとき」 聖書 マルコによる福音書 16:1-8、イザヤ書 25:6-9 2017年 4月 16日 礼拝、小岩教会 【主イエスの葬られた墓に向かう女性たち】 それは、日曜日の早朝に起こった出来事でした。 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメという名の 3人の女性たちが、陽が昇ってまだまもない時間に、 イエス様の身体が納められているお墓へと向かって歩いていました。 こんなにも朝早くに、彼女たちがお墓まで来たその目的は、 2日前に十字架にかけられ、息を引き取った イエス様の身体に油を塗って、イエス様を葬るためでした。 でも、彼女たちはなぜイエス様の葬りを、 イエス様が亡くなってすぐに出来なかったのでしょうか。 それは、イエス様が息を引き取った日が関係していました。 イエス様が十字架の上で死を迎えたのは、 金曜日の午後3時頃のことでした(マルコ15:34)。 現代の私たちと違って、ユダヤの人々にとって、 日が沈んでから1日が始まりました。 つまり、イエス様が息を引き取ったのは、 ユダヤの人々にとって、一日の終わりの時間帯。 あと数時間後には、翌日、つまり「安息日」を迎えます。 安息日には、あらゆる行動が禁じられていたため、 葬りにも不都合が生じるという理由からか、 イエス様は急いでお墓へ納められ、葬られたのです。 ですから、安息日が明けた日に、 イエス様を慕っていたこの女性たちが、 早朝からお墓へ向かうことは、とても納得できる行動です。 愛するイエス様を葬ることが、ようやく出来る。 誠心誠意、愛をこめて、イエス様を葬りたいと願って、 彼女たちはお墓へ向かって歩んで来たのです。 ただ、彼女たちには、ひとつの心配事がありました。 イエス様が葬られたお墓の入り口は、大きな石で閉じられていたのです。 その石は、自分たちの力では、とても動かせそうにありません。 イエス様を葬るためにやって来たのは良いけれども、 「一体、誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」。 そのような不安を口々に語りながら、 彼女たちはお墓の前までやって来ました。 すると、どうしたことでしょうか。 心配に思っていたあの...

説教#162:「子ロバでありたい」

「子ロバでありたい」 聖書 マルコによる福音書 11:1-11、ゼカリヤ書 9:9 2017年 4月 9日 礼拝、小岩教会  【エルサレムに入場する人々】  ホサナ。 主の名によって来られる方に、 祝福があるように。(マルコ11:9) 詩編118篇に記されている讃美を高らかに歌いながら、 あるひとつの、奇妙な集団がエルサレムにやって来ました。  その中心にいたのは、子ろばに乗ったイエス様でした。 イエス様を取り囲んで歩む多くの人たちは、自分の服を道に敷き、  他の人々は野原から葉のついた枝を切って道に敷いて、 イエス様が進んで行く道を整えました。 これはまるで、王さまがやって来たことを喜び祝うパレードでした。 「この方こそ、私たちが待ち望んでいた王、救い主メシアだ。 ホサナ!どうか私たちを救ってください!祝福あれ!」 このように人々は熱狂的になり、叫び、歌いながら、 イエス様と共にエルサレムの町へと入って行ったのです。  ところで、イエス様の弟子たちをはじめ、当時のユダヤの人々が  待ち望んでいた王さまとは、どのような王さまだったのでしょうか。 ユダヤの人々にとって、それは、この時からおよそ1,000年前に、 この地に王国を築いたダビデのような王さまでした。 彼らにとって、ダビデ王こそ、偉大な王さまであり、理想の王さまでした。 他の国に支配されず、自分たちのもとに平和をもたらす王さまを、 神が自分たちに与えてくださるその日が来ることを、 ユダヤの人々は祈り求め、待ち望んでいました。 このとき、イエス様を取り囲んでいた人々は、 「自分たちが待ち望んでいた王が来たのだ」と叫びながら、  エルサレムに向かって歩んで来たのです。 「彼こそ、私たちの希望であり、神の約束が実現するために、 今こそ、ローマ帝国の支配から絶対的な力をもって、 この国を解放してくださるに違いない。 真の王さまである、メシアが私たちのもとに来たのだ」と、 喜びながら、人々はエルサレムの神殿へと向かって行ったのです。 「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。 いと高きところにホサ...

説教#62:「神が語り、神が行う」

『 神が語り、神が行う 』 聖書  マルコによる福音書4:26-34、エゼキエル書17:22-24 日時 2014年11月23日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【どうしてそうなるのか、その人は知らない】 イエス様の語ったこの種蒔きの譬えは、 私たちにとって、とても挑戦的なものです。 イエス様は、このように語りました。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:26-28) 蒔かれた種に対して、種を蒔いた人は一体何が出来るのでしょうか。 この譬えの中で、人がすることといえば、 種を蒔くことと、種の成長を見届けること、そしてその実を収穫することです。 種が成長するために、実を結ぶために決定的なことを、 人は全くしていないのです。 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。 そして、「ひとりでに実を結ばせる」のです。 もちろん、必要であれば、水をやったり、雑草を取り除いたりしたでしょう。 しかし、種が成長するのに決定的なことを、人は出来ないのです。 そして、その成長過程の中で、何が起こっているのかを知らないのです。 【人の努力によらず、神のわざによって成長する】 なぜこの譬えが私たちにとって、とても挑戦的なものだといえるのでしょうか。 それは、私たちは、自分の力で物事を進めたいという思いが強くあるからです。 私たちは、出来る限り知りたいと願います。 自分の把握できる範囲で、物事が進行していたら、とても安心します。 すべての事柄が、自分にとって都合の良いように進むことを願うならば、 出来る限り、その物事に関与して、意見することでしょう。 そうやって、私たちは、自分が関わる物事、計画や予定を進めていくのです。 しかし、イエス様はこの譬えを通して、宣言しているのです。 「神の国は、そのようなものではない。 私たちが努力したから、この地上に築かれるものでは決してない」と。 それは、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」ので...

説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

『 異質な香りを放つ共同体 』 聖書  エフェソの信徒への手紙5:1-5 日時 2014年11月20日(木) 場所 KGK、御茶ノ水ブロック 【キリスト者の倫理の原則】 あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。 あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。 あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、 あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。 エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。 ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。 それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。 エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。 自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、 神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。 そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、 私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。 キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。 キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、 和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。 このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、 著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。 これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。 キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。 そこから始めることにによってのみ、 「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。 【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】 では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。 著者は、5章1節でこのように述べています。 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1) あなたがたは、神に愛されている子ども。 そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。 私たちが、才能があったからでも、 多くの財産をもっていたからでも、...

説教#60:「神の国の福音に生きる」

『 神の国の福音に生きる 』 聖書  マルコによる福音書4:21-25、レビ記19:15-18 日時 2014年11月9日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【神の国が明らかにされる】 イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21-23) イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。 不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。 すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。 そのどちらでもありません。 それは、このテキストの前後関係から明らかです。 イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。 そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。 この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。 ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。 たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、 それは明らかになる。 今、私たちの目の前に広がっている光景は、 神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。 イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。 【主イエスは「来た」】 では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。 ここで注目すべき重要な言葉があります。 それは、「来る」という言葉です。 この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。 それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。 私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。 そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。 実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。 しかし、イ...

説教#59:「神は諦めずに語り続ける」

『 神は諦めずに語り続ける 』 聖書  マルコによる福音書4:13-20、申命記30:11-14 日時 2014年11月2日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【あなたは一体どんな土地なのか?】 イエス様は、自分で語った「種蒔きのたとえ」を、ひとつの解釈を加えて説明をしました。 この説明を聞いた人々は、こう思ったことでしょう。 「このたとえにおいて、一体、私はどの土地なのだろうか」と。 与えられた神の言葉を、道端に落ちた種のように扱っていないだろうか。 神の言葉を自分ものとしてしっかりと掴まず、 受け取ったものを放っといて、気付いた時にはなくしてしまっていないだろうか。 それとも、神の言葉を聞いたその時は喜んで受け入れるけども、 家に帰ったら、聞いたことなど忘れてしまうから、自分は「石だらけの土地」なのだろうか。 目の前にある魅力的なことばかりに目が向いてしまってばかりだから、「茨だらけの土地」だろうか。 それとも、神の言葉をしっかり聞く、良い実を結ぶ土地だろうか。 イエス様の語る「種蒔きのたとえ」で、自分は一体どの位置に立っているのだろうか、と人々は自らに問い掛けたことでしょう。 【私たちは、様々な土地の状態を持つ】 しかし、イエス様はこの譬えの解説を通して、 「あなたは実を結ぶ良い土地」、「あなたは実を結ばない悪い土地」 といった具合に、人間の分類分けをしているわけではありません。 どれかひとつに、自分の立ち位置を確定できるほど、人間は単純な存在ではありません。 常にどれかひとつの状態であることなど、あるはずもありません。 私たちは、様々な状態に揺れ動く存在です。 この譬えの中で語られている「道端」のような状態のときも、 「石だらけの土地」のような状態のときも、 茨に囲まれているような状態のときも、 そして、神の言葉が「良い実を結ぶ土地」の状態のときも、十分にあり得ます。 また、様々な状態の土地が、私たちの心や、生活のすべての領域に広がっているともいえるでしょう。 種、つまり神の言葉が、根付きやすい場所もあれば、 神の言葉を拒絶したくなる場所もあります。 一時的になら、神の言葉を聞いて、受け入れることのできる場所...

説教#58:「神のわざによって実を結ぶ」

『 神のわざによって実を結ぶ 』 聖書  マルコによる福音書4:1-12、イザヤ書6:9-13 日時 2014年10月26日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【主イエスが好んで語った「譬え」】 イエス様は、ご自分のもとに集まって来た人々に、様々な教えを語りました。 中でも、イエス様は、「たとえ」を用いて人々に語ることを好んだようです。 今日私たちに与えられたテキストを見てみると、 この日も、イエス様のもとに多くの人々が集まって来たことがわかります。 場所はガリラヤ湖のほとり。 イエス様は舟に乗って、腰掛け、いつものように人々に教えを語りました。 この日、イエス様が人々に語ったのは、有名な「種蒔きのたとえ」でした。 種蒔き。 それは、この当時の人々にとっては、とても親しみのある、日常的な事柄でした。 そう、イエス様は、人々が教えを聞いて、その意味を理解しやすいように、 彼らが日々の生活の中で使う言葉を用いて、たとえを語ったのです。 【譬えによって秘密にされている?】 しかし、人々に親しみやすい話をしているにも関わらず、 イエス様は、このたとえを話した後、12人の弟子たちに向かってこのように言いました。 あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。(マルコ4:11) イエス様のこの言葉を通して、 このたとえは、神の国について語っているものだということがわかります。 それと同時に、イエス様は、たとえを用いて語ることによって、 人々に「神の国の秘密」を秘密のままにしているかのように感じます。 人々に親しみのある日常的な言葉を用いて語っているにも関わらず、 なぜ、弟子たち以外の人々には、その意味を伝えることをしなかったのでしょうか。 それは、イエス様は、たとえを解説しないことにこそ意味を見出していたからです。 聴き手に、そこで語られていることの意味を考えさせ、 自分に関係のあることなのだと考えさせることが、イエス様がたとえを用いて語ったことの狙いでした。 そして、たとえの意味を明確にしないことによって、 語られたたとえが何を意味し、何を伝えようとしているかを、 聞いている人々...

説教#57:「主イエスによって結ばれた共同体」

『 主イエスによって結ばれた共同体 』 聖書  マルコによる福音書3:31-35、創世記2:18-25 日時 2014年10月19日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【最も強い絆とは何なのか?】 私たちは、様々な絆によって他の人々と結びついています。 血のつながり、同じ時間や経験の共有、 夫婦や恋人という男女間の愛、 利害関係、地域社会、趣味、出身地、 世代の近さ、学校、職場、インターネットなど、 私たちは様々なものによって、人との結びつきを得ています。 では、そのような結びつきの中で、最も強い絆とは一体何なのでしょうか。 今日開いた聖書の物語を通して、神は私たちに問いかけます。 「あなたにとって、最も強い絆とは一体何なのか」と。 【「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」】 イエス様の母マリアと、彼の兄弟たちはイエス様についての悪い噂を聞きつけて、 彼を取り押さえにやって来ました(3:21参照)。 イエス様がいる家に着いてみると、 家の中は、彼の話を聞く人々でいっぱいだったため、 彼らは家の外に立ち、使いの者を通して、イエス様を呼びました。 「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(マルコ3:32) 使いの者が、イエス様にこのように報告した時、 その場にいた人々は、イエス様は当然、直ぐに話を打ち切って、 身内の人々に会いに行くと思ったことでしょう。 しかし、この知らせを聞いたイエス様は、このように言われたのです。 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33) なぜイエス様は、このようなわかりきったことを聞くのか、と思うでしょう。 生まれてからずっと一緒に過ごしてきた家族について、 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、尋ねるのはおかしなことです。 その場にいた人々も不思議に思ったことでしょう。

説教#56:「あなたたちが宝の民だから」

『 あなたたちが宝の民だから 』 聖書  マラキ書3:16-18、マルコによる福音書3:20-30 日時 2014年10月12日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【悪い噂が広まる】 イエス様が宣教の働きを始めてから、各地にイエス様の噂は広まっていきました。 しかし、どうやら、その噂は良いものばかりではなかったようです。 イエス様の行動を見て、 「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)と言う人々もいたのです。 当時、気が変になっていると思える行動をする人は、 悪霊の支配下にあると人々から考えられていました。 そのため、身内の人たちがイエス様を取り押さえに来た、とマルコは報告しているのです。 この悪い噂がこれ以上広まる前に、 身内の人々は、イエス様の宣教の働きをやめさせようとしたのかもしれません。 【エルサレムから来た律法学者たちの主張】 しかし、身内の人々がイエス様を取り押さえに来るよりも前に、 イエス様についての悪い噂を聞きつけてやって来た人々がいました。 マルコは、彼らを「エルサレムから下って来た律法学者たち」(マルコ3:22)と紹介しています。 エルサレムは、ユダヤ教の中心地です。 そのエルサレムから、宗教的指導者である律法学者たちがやってきたのです。 それは、悪い噂が流れているイエス様について、調査をするためでした。 その調査の結果、彼らはしきりに言うのです。 「あの男はベルゼブルに取りつかれている」 「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マルコ3:22) イエス様がこれまで行ってきた、病の癒やしや悪霊追放は、 悪霊の頭であるベルゼブルの力によるものだ、と彼らは言うのです。 イエス様は良い力ではなく、悪の力を用いている、悪の代理人だ、という訴えです。 もちろん、そのようなことは決してありません。 イエス様は、そのような方では決してありません。 しかし、いつものように人々の病を癒し、悪霊を追い出したとしても、 イエス様は、自分が悪の代理人ではないということを証明することはできません。 そのため、イエス様は、たとえを用いることによって、 自分が悪の側にではなく、神の側に立っているということを証明したので...

説教#55:「境を打ち破る、神の国の福音」

『 境を打ち破る、神の国の福音 』 聖書  出エジプト記19:20-25、マルコによる福音書3:13-19 日時 2014年10月5日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【主イエスのもとにやってくる人々】 イエス様のもとには、毎日のように、様々な人々が集まってきました。 祭司やファリサイ派の人々、漁師、徴税人、病を抱えた人、悪霊にとりつかれた人など、 実に様々な人々が、イエス様のもとにやってきたようです。 ある人は、病気を癒してもらうために。 ある人は悪霊を追い払ってもらうために。 ある人は、神から与えられた律法について議論するために。 また、ある人は、その律法についての議論を通して、イエス様を貶めるために。 イエス様のもとに集まった人々は、イエス様の噂を聞いて、集まってきました。 イエスという人が、病を癒やした。 悪霊を追い払った。 律法をこのように解釈した。 イエスの語る教えは、権威ある新しい教えだ、などといったような噂を聞いて、 毎日のように、人々はイエス様のもとにやって来たのです。

説教#54:「あなたにとって、主イエスとは何者か?」

『 あなたにとって、主イエスとは何者か? 』 聖書  列王記上5:9-14、マルコによる福音書3:7-12 日時 2014年9月28日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【主イエスの宣教に対する様々な反応】 イエス様が行った宣教に対して、人々は様々な形で反応しました。 ある者は喜び、ある者は噂を広め、 ある者は疑いを覚え、 ある者は信じて、イエス様を尋ねて旅立ちました。 当時のユダヤの宗教的指導者であるファリサイ派の人々は、 自分たちの考える基準で律法を守らないイエス様の姿を見て、 次第にイエス様に対する憎しみを覚えるようになってきました。 3:6には、このように記されています。 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3:6) 2章から3章5節までは、イエス様と人々の間でなされた論争が記されていました。 律法の解釈を巡る論争です。 これらの論争の結果として、ファリサイ派の人々はイエス様を憎み、 イエス様を殺すための相談を始めたのです。 そのような意味で、イエス様の宣教は、ファリサイ派の人々に対しては成功したとはいえませんでした。 彼らの怒りや憎しみを感じ取ったからでしょうか。 イエス様は、弟子たちと一緒にガリラヤ湖の方へと立ち去られた、とマルコは報告しています(マルコ3:7参照)。

説教#53:「安息日が告げる祝福」

『 安息日が告げる祝福 』 聖書  出エジプト記20:8-11、マルコによる福音書3:1-6 日時 2014年9月21日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【安息日における生命の保護】 イエス様は、安息日によく人々の病を癒していました。 人々は、イエス様が病人を癒すその姿に驚き、 また、イエス様の語る言葉を権威ある新しい教えだと言って、喜んで聞いていました。 しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様のことを快く思わなかったようです。 というのは、イエス様が病人を癒やす行為は、安息日に禁じられている労働に含まれていると彼らは考えたからです。 もちろん、ファリサイ派の人々にとっても、安息日における生命の保護は重要なものと考えられていました。 しかし、医療行為に関しては、命の危機がある時にのみしか、許されていなかったようです。 つまり、命の危険がない病だと判断されたならば、 その病の癒やしは律法違反だから、安息日以外の日にすべきだと言われたのです。 イエス様が安息日に行った癒やしは、命の危険にある人だけが対象ではありませんでした。 ですから、ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの行為を非難し、イエス様を敵視するようになっていったのです。

説教#52:「安息日は誰のためのもの?」

『 安息日は誰のためのもの? 』 聖書  申命記5:12-15、マルコによる福音書2:23-28 日時 2014年9月14日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【人々の注目が集まる】 イエス様は様々な人々から注目を集めていました。 神の前に敬虔な人として、 そして、聖書をよく知る教師として、イエス様は人々から見られていました。 しかし、イエス様に人々の注目が集まったのには、その他にも理由がありました。 悪霊を追い出し、多くの人の病を癒す。 そして、当時の社会からのけ者にされていた、罪人や徴税人たちと食事をする。 その上、敬虔な人なら当然行うはずの断食を行わない。 このようなイエス様の行動や語る言葉を、人々は見聞きしてたため、 イエス様と彼の弟子たちの行動に注目するようになりました。 そして、ある安息日にも、イエス様と弟子たちの行動に人々の注目が集まったのです。

説教#51:「キリストにある新しい生き方」

『 キリストにある新しい生き方 』 聖書  マルコによる福音書2:18-22、ホセア書2:14-25 日時 2014年9月7日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会

説教#47:「喜びの食卓への招き」

『 喜びの食卓への招き 』 聖書  マルコによる福音書2:13-17、ホセア書1:1-2:3 日時 2014年8月31日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会