説教#255:「安息に向かって歩む旅」

「安息に向かって歩む旅」
聖書 ヨシュア記 1:1-9、ヘブライ人への手紙 4:1-10
2019年 2月 24日 礼拝、小岩教会
説教者 稲葉基嗣

さきほど一緒に声を合わせて読み交わした、詩編84篇の詩人は、
神のみもとにこそ安らぎがあり、
神と共に歩む中にこそ平安があると感じていました。
ですから、この詩人は、喜びのうちにこのように歌いました。

いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら(詩編 84:5)

「あなたの家」。
それは神を礼拝する神殿を意味しますが、
やがて、エルサレムの神殿が崩壊した後、
この言葉は、天の神のいるところを意味するものとして、
信仰者たちから受け止められるようになりました。
つまり、「将来、天の国に受け止められるその日、
私たちは神の家に招かれ、神のもとで安らぎ、神と共に生きる」と。
このことは、ヘブライ人への手紙の著者も抱いた強い確信でした。
著者は、将来、神のみもとへと行く日を
天の都へと招かれるその日を「安息」と呼んで、読者に語りかけます。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、
取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
(ヘブライ 4:1)
神によって安息が与えられる日は必ず来ます。
でも、残念ながら、私たちはそのことを簡単に忘れてしまいます。
というのも、現実は、困難に溢れ、心も身体も疲れを覚えるからです。
頭を悩ませる問題は次々と起こり、
目まぐるしい日々を私たちは過ごしています。
安息など、今この時、得られるとは思えない場面がしばしばあります。
まして、安息が与えられることを
将来の希望として抱くことなど難しいように感じてしまうのです。
現代に生きる私たちにも通じるような問題に、
当時の信仰者たちも悩まされていたからこそ、
この手紙の著者は、読者に向かってこのように語りかけました。

だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、
取り残されてしまったと思われる者が
あなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。
(ヘブライ 4:1)

「神の安息にあずかる約束がまだ続いている」と言う時、
著者は、明らかに、旧約聖書の時代を思い起こすように招いています。
というのも、「神の安息にあずかる約束」について触れた後、
著者はヨシュアという名前を読者に思い起こさせたからです。
ヨシュアの生きた時代は、イスラエルの民が約束の地へと入って行き、
その地を自分たちの土地として手に入れた時代でした。
ヨシュアはその時代のイスラエルの指導者でした。
この情報だけを聞くならば、
ヨシュアやイスラエルの成功物語のように聞こえるでしょう。
しかし、決してそうではありません。
「約束の地」として神が示した、カナンの地にたどり着くまで、
イスラエルの民は荒れ野を40年間もさまよい続けました。
約束の地を求めて歩むその旅の途中、彼らは何度も落胆しました。
何度も神を疑い、不信仰に陥りました。
何度も神に与えられている約束を忘れてしまいました。
しかし、安息など感じられずにいたイスラエルの民を
神は何度も何度も励まし続けました。
そして、ヨシュアがイスラエルの民のリーダーとなった時、
ついに約束の地にイスラエルはたどり着いたのです。
旧約聖書の「ヨシュア記」という名の書物は、
1章において、約束の地を目の前にしたとき、
イスラエルの民が困難を感じていたことが伺えます。
というのも、1章の前半において、
ヨシュアは神から「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましを受けています。
イスラエルの民を導くヨシュア自身が
これから直面するであろう出来事に恐れを抱いていたからこそ、
神は彼にこのような励ましの言葉を語ったのでしょう。
ヨシュアが恐れを抱くのは当然です。
この時、目の前に約束の地が広がっていましたが、
ヨシュアやイスラエルの民の前には、ヨルダン川が流れていました。
このヨルダン川ですが、
実は渡るのは相当過酷な川でした。
ヨルダン川は、通常は幅が30メートル、
深さが2~3メートルの川でした。
3メートルということは、どう考えても足が付きません。
しかも、ちょうどこの時期は春だったため、洪水の時期でした。
通常より川の水量も増え、ヨルダン川の流れは急になっていました。
そこに流れる川は、まさに激流。
ですので、どう考えても、
この川を渡るのは無理な話です。
それも、自分だけでなく、
イスラエルの民全員が渡らなければならないのです。
イスラエルの民は、力の強い、運動神経のある、
泳ぎの得意な者だけではありません。
子どもたちや老人たちもいたことでしょう。
そのため、無理に渡ろうとしたら、
多くの死者が出てしまうかもしれません。
今まで荒れ野で生活をしていたため、
舟など当然もっているはずありません。
そして、川を越えたその先にあるのは、城壁都市エリコです。
ヨルダン川を渡ると、もう引き返すことはできません。
この川を渡ったならば、敵と必ず戦わなければならないのです。
そして、これらふたつの困難を乗り越えた後も、
カナンの地の人々との衝突や戦いが続くであろうことは、
簡単に想像することが出来ます。
不安要素はたくさんあって、数えればきりがありません。
ヨシュアがこの時抱えていた不安や恐れは、このようなものでした。
もちろん、現代を生きる私たちだって、
ヨシュアと同じような思いを抱くことがあります。
目の前に広がる現実が、ヨルダン川の激流のような、
乗り越えるのが困難な状況のように思えることがあります。
ヨルダン川を越えた先に、エリコの町があったように、
どう頑張っても乗り越えられそうにない壁に
突き当たる感覚を覚えることだってあります。
でも、そのような中であっても、平安を抱くことが出来ると、
神はヨシュアやイスラエルの民に、
そして何よりも私たち一人ひとりに伝えているのです。
ヨシュアの物語は、力強く、私たちに励ましを与えます。
イスラエルの民が激しく流れるあのヨルダン川を渡る時、
神に信頼して、足を踏み出し、その足が水に触れた時、
ヨルダン川の激しい水の流れは止まりました。
まさに、そこに、その瞬間に、神は安息を用意されることを
ヨシュアの物語は私たちに向かって宣言しているのです。
神は必ず、最終的に、約束の地という安息の場所へと
私たちを招いてくださる方です。
それと共に、私たちが神に信頼して歩み出す時、
神は必ず私たちと共にいてくださり、
必要な助けを私たちに与えてくださるのです。
だから、神はヨシュアとイスラエルの民に、
そしてこの物語を読む私たち一人ひとりに
「雄々しくあれ、強くあれ」と励ましの言葉を語りかけるのです。
このような確信を抱きながら、ヘブライ人への手紙の著者は、
神が最終的に安息を与えてくださるという約束に、
希望を抱いて歩むようにと招いているのです。

それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。
(ヘブライ 4:9)

確かに、イスラエルの民は、ヨシュアと共に、
安息の地へと入ることができました。
でも、そこはイスラエルにとって、
永遠の安息の地ではありませんでした。
彼らは何度も土地を奪われ、何度も追放されました。
ですから、彼らにとって、神の約束した安息は、
未だに完全な形では訪れていないのです。
その意味で、安息日の休みは神の民に残されています。
つまり、将来、神のみもとに招かれるその時にこそ、
神のもとで安らぎを得ることを通して、神の約束は実現するのです。
ところで、著者がこのことを伝えるために、
ヨシュアを引き合いに出したのには、大きな理由がありました。
「ヨシュア」というヘブライ語の名前を
ギリシア語に直すと、「イエスース」です。
つまり、ヘブライ人への手紙の著者は、
ヨシュアが約束の地へイスラエルの民を導いた出来事と、
イエスさまを通して、実現する安息へと導かれる未来とを
重ね合わせて見たのです。
ヨシュアがイスラエルの民を約束の地へと導いたように、
イエスさまは、必ず、安息へと導いてくださいます。
イスラエルの民だけでなく、すべての者を、
イエスさまは安息へと招いて、こう言われます。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。(マタイ11:28)

私たち一人一人も、
このような安息へと向かう旅路へと招かれています。
この旅は、将来にのみ、
神のもとで安息を得るというような旅では、もちろんありません。
私たちの信仰の旅路は、イエスさまが伴ってくださる旅です。
私たちが疲れる時、重荷を背負う時、
イエスさまが私たちを背負ってくださる旅です。
だから、この旅路を行く私たち一人ひとりに
イエスさまはこのように語りかけておられます。

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ 14:27)

心を騒がせてしまう出来事は数多くあります。
不安でいっぱいになってしまうことも多くあります。
でも、この世界を造り、この世界をおさめておられる神は、
いつも、そしていつまでも私たちと共にいてくださいます。
あなたを愛し、あなたを決して見捨てない神が、
あなたといつも共におられます。
あなたの罪を赦すために、あなたを救い出すために、
生命をかけてまで十字架にかかってくださった方が、イエスさまが、
この信仰の旅路をあなたと共に歩んでくださいます。
だから、私たちは、イエスさまによっていつも安息を与えられています。
ですから、私たちは心が騒いでしまうときも、おびえそうなときも、
神のみもとに確かな安息を見出しながら、一歩一歩、
目の前の道を歩んで行くことが出来るのです。
どうか、慈しみに溢れる主である神の守りと安息が、
いつもあなた方と共にありますように。

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