しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年11月28日月曜日

説教#9:「旅人よ、何を見つめて歩むのか?」


昨日、青葉台教会のユース礼拝で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『旅人よ、何を見つめて歩むのか?』
聖書 ヘブライ11:13〜16
日時 2011年11月27日(日)
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会

【はじめに:旅人である私たち】
人生とは旅である、というようなフレーズを何処かで聞いたことがあると思います。
人生とは旅で、その旅路を行く私たちは旅人です。
恐らく、人生とは旅であり、その旅路を行く私たちは旅人であるという言葉に、
「いや、そんなことない」と反論する人はいないと思います。
この人生という旅路を行く私たちの毎日は、困難で溢れている。
そして、それを乗り越えた時の喜びもある。
時には予測不可能な状況に直面したり、
トラブルに巻き込まれたりする。
右も左もわからず、迷い歩いたりもする。
時に、挫折してつまづいたり、
悩んで立ち止まったり、
泣きじゃくったり、
顔をくしゃくしゃにして友人たちと笑い合ったり、
後悔をして一度来た道を振り返ったりもする。
出会いもあれば、別れもある。
人生とは旅であるという言葉は、
実に人生というものを適切に表現しているものといえるでしょう。
そして、人生が旅であるならば、そこには辿り着く目的地があるはずです。
私たちが目指すべき場所とは一体何処なのでしょうか?
人によって、目指しているものは様々です。
ある人は、良い大学への合格を目指す。
受験という名の旅。
またある人は、企業への就職。
就職活動という名の旅。
他にも色々挙げることができるでしょう。
夢の実現。
結婚して良い家庭を築く。
仕事の成功。
昇進、などなど。
しかし、行き着いた先に私たちは気付かされます。
これから何処へ向かえばいいのだろうか?
自分の計画が実現しても、しなくても、
辿り着いたこの場所から先にまだまだ道は続いていることに気付き、途方に暮れる。
この道は続く。
そう、死を迎えるその時まで。

【アブラハムの見つめた約束】
今日私たちに与えられたテキストはこう始まります。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。…(ヘブライ11:13)
「この人たち」とは、8~12節に書かれている、アブラハムとその妻サラ、その子イサク、イサクの子ヤコブのことです。
この手紙の著者は、単に事実のみを述べて、「この人たちは皆、死にました」とは書きませんでした。
「信仰を抱いて」という、とても重要な言葉が書かれているのです。
これは、信仰の人として彼らが地上での生涯を送り、死んだということを意味しています。
どういうことでしょうか。
信仰を抱いたということが、彼らにどのような意味を持っていたのでしょうか。
この信仰が、信仰者たちに何をもたらしたのでしょうか?
彼らの抱いた信仰について、11:1ではこうに説明されています。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ11:1)
彼らが望んでいる事柄とは、神の約束でした。
彼らが望んだ神の約束とは、神がアブラハムとの間に交わした約束でした。
それはこのようなものでした。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」 (創世記13:14~17)
「…地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12:3)
つまりこの約束は、アブラハムの子孫を祝福し、
アブラハムの子孫に土地を与え、
アブラハムとその子孫を通して、異邦人にも祝福を与えるというものでした。
この約束の成就をアブラハムとその子孫たちは望みました。
信仰によってこの約束を彼らは信じ、その生涯を送ったのです。

【旅人アブラハム】
しかし、彼らは「約束されたもの」(ヘブライ11:13)を手に入れることはできませんでした。
例えば、アブラハム。
彼は大地の砂粒や空の星のように、数多くの子孫たちをこの目で見ることはできませんでした。
彼が手に入れたのはイサクというひとり子だけでした。
そして、東西南北見渡して、見える限りすべての土地を手に入れることはできませんでした。
彼が手に入れたのは、妻サラのための墓だけでした。
神がアブラハムに対して約束したもののすべてを、この地上での生涯で受け取ることはできませんでした。
アブラハムだけでなく、サラも、イサクも、ヤコブも同じようにです。
彼らは約束されたものを受け取ることができませんでしたが、
神の約束の実現を信じて疑いませんでした。
神の約束してくださる地こそが、自分の故郷である。
それが彼らの確信でした。
見たことも、行ったこともない場所を彼らは故郷と呼びました。
それを約束してくださった神に望みを置き、
彼らは信仰によって故郷を見つめたのです。
だから彼らは、
…自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 (ヘブライ11:13)
彼らは自分たちは「よそ者」であり、「仮住まいの者」だと告白していました。
自分たちは外国人であり、この地に国籍はもっていない。
そして、ずっとここで住むつもりもない。
自分たちは、神の約束してくださる地を故郷とし、その故郷を目指す旅人なのだから、というように。
彼らは言葉とその生き様によって、自分たちが旅人であるということを言い表していました。

【私たちは天の故郷を目指す旅人】
そして、私たちも彼らと同じように、神の約束の地へと向かう旅人なのです。
彼らに与えられた約束は、キリストによって実現され、そして私たちも彼らと共に受け取っています。
キリストの十字架の死による贖いによって、私たちの罪は赦されました。
それは神との関係が回復されたことを意味しています。
キリストによって、罪の奴隷状態から、神の民とされたのです。
神の民であるということは、私たちは神の御国に住む権利を与えられているということです。
しかし、私たちがまだその御国に入れられる日は来ていません。
私たちは神の御国を「天の故郷」と呼びながら、
まだしばらくの間、この地上での生活を送っています。
この地上で天の故郷を見つめて、そこに向かって歩む日々を私たちは今送っているのです。


【キリストに留まり、歩み続ける】
このように、私たちは天の故郷を目指す旅人ですが、
私たちは旅人として、どのような歩みをすればよいのでしょうか。
まず、第一に私たちはすべての場所で「常に」「旅人」として歩むべきです。
言い換えるならば、すべての場所でキリスト者として生き、
すべての場所で、天の御国を見つめる、ということです。
それは彼らが定住者にならずに、「よそ者」として生き続けたことから明らかです。
すべての場所で、私たちは旅人として生きることが求められているのにもかかわらず、
私たちは、「二重生活」をする者になっていないでしょうか。
神に喜ばれるように生きられる部分と、
いやどうしてもここは取り扱って欲しくない、
どうしてもここだけは譲れないという部分。
この場所ではクリスチャンとして生きられるけども、
あそこではクリスチャンとして生きられない、というように。
いや、事態はもっと深刻です。
たくさんの自分がいる。
家庭での自分、
学校での自分、
サークルでの自分、
教会での自分。
なぜこうも違うのだろうか?
なぜ一貫して、すべての場所で旅人として、神の民として、キリスト者として生きられないのだろうか?
私たちは問われなければなりません。
すべての場所でキリスト者としているだろうか。
言葉だけでなく、生き方で主を告白できているだろうか。
キリストに留まる「基留者」として生きているだろうか。


【都を待ち望む】
第二に、天の故郷がどのような場所かを知り、
そこに希望をもって歩む必要があります。
天の故郷は「都」であると、16節には書かれています。
都とはどのような場所でしょうか。
それは多くの人々が互いに交わり合う場所です。
私たちは毎日、都会の喧騒の中で過ごし、
人との壁や人間関係の複雑さなどを感じながら生きています。
天の故郷もそのような都なのでしょうか。
いや、絶対にそんなことはありません。
そこには、偽りのない愛に満ちた交わりがあります。
神との親しき交わり、
兄弟姉妹と呼べる人たちとの、愛の交わりです。
私たちは程度は違えど、人間関係の中で傷つき、傷付け合いながら生きています。
そして、傷つき、傷つけられることに恐れながら生きています。
時に、交わりに失望することもあります。
しかし、天の故郷で偽りのない愛に満ちた交わりが実現するのです。
今、この地上で許されている周囲の人達との関係が、
この天の故郷へ向かう旅が進むに連れて、徐々に、徐々に、完成へと向かっていくのです。
傷ついた交わりは回復へ。
喜びの交わりは更に喜びへ。
涙は拭い去られ、喜びへと変えられるのです。
そして、この都を備えてくださるのは神なのです。
たくさんの建築物がこの世界には溢れています。
しかし、すべてが完璧とはいえない。
不正もあれば、ミスもある。
建設途中の建物も、廃墟もある。
神が私たちのために備えてくださる都はそうではない。
神が計画をもって私たちのために設計され、
神の手によって準備された都なのです。
そこに私たちは招かれている。


【天の故郷を熱望する】
第三に挙げたいのは、この天の故郷を「熱望」して歩むということです。
ただ見つめるだけではありません。
熱望するのです。
いや、既に私たちは、天の故郷を熱望する旅人であるはずなのです。
しかし、私たちは「天の故郷」以外のものに心を奪われる傾向があります。
天の故郷を熱望すべきなのに、他のものに目を向けて歩んでしまうのです。
天の故郷へ向かう旅路を行く私たちの足に「絡みつく罪」(ヘブライ12:1)は確かに存在します。
しかし、この世のものは過ぎ去っていくため、
私たちはそこに望みを置くことはできません。
ただ、神のみに望みを置き、天の故郷を熱望するのです。


【共同体としての旅】
しかし、全ての人がここでいってるような歩みが出来るわけではないでしょう。
私たちがひとりでこの旅を続けるには、困難が多すぎます。
喜ぶべきことに、私たちの天の故郷へと向かう旅は、ひとりでするものではありません。
この旅は教会という共同体のものとしてなされている旅です。
教会の交わりの中で共に励まし合いながら、私たちは天の故郷を熱望します。
つまずく者がいれば、手を差し出し、
立ち止まる者がいれば、共に立ち止まります。
落胆するものがいれば、背中を押して励まし、
泣くものがいれば、共に泣き、
喜ぶ者がいれば、共に喜ぶ。
そのような共同体として教会の交わりが私たちと共にあるのではないでしょうか。


【失望に終わらない旅】
そして、私たちのこの旅は失望で終わることは決してありません。
この旅の終わりは、天の故郷への到着です。
死がその終着点ではないのです。
天の故郷に辿り着く者は、ひとりとして失望することはありません。
かつて地上から天の故郷を見つめて喜んでいた以上に、
私たちは喜びで満たされるはずです。
私たちは希望を抱いてこの旅を続けることができるでしょう。


【信仰と希望と愛を抱いて】
私たちは神の約束という希望を抱いて、
天の故郷へと向かうこの度をしますが、
その旅の途上で、私たちは多くのものを手にします。
それらを時に手放し、
時に保持し、
時に固執します。
しかし、すべてのものを持って、天の故郷に入れるわけではありません。
では、この旅をする上で本当に必要なものは何なのでしょうか。
私たちがこの旅を歩む上で、最も必要なものは何でしょうか。
携えるべきものが3つあります。
それは、「信仰と希望と愛」(Ⅰコリント13:13)です。
信仰、それは私たちの歩みを支える杖です。
これによって険しい道を歩むことができます。
希望、それは私たちが目指すべき目的地である、天の故郷を指し示すコンパス(羅針盤)です。
このコンパスの針は決して狂うことがありません。
愛、それは神からの招き。
神が私たちを愛し、招いてくださるからこそ、私たちは天の故郷を目指す旅人になることができました。
だから今日の説教題「旅人よ、何を見つめて歩むのか?」に対して、私たちはこう答えよるのです。
信仰と希望と愛、私たちはこれらを携えて、歩み続ける。
天の故郷を見つめながら。