しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年12月12日月曜日

説教#10:「この人を見よ」

昨日、今年の奉仕教会である三軒茶屋教会で、説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『この人を見よ』
聖書 イザヤ書52:13-53:12、ヨハネ19:4-7
日時 2011年12月11日(日)
場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会

【ピラトが見たもの~偽りの証言】
イエスは逮捕され、裁判の席に立たされた…。
以前からイエスを殺そうと計画していたユダヤ人たちは、
彼を告発し、ピラトのもとに引き渡しました。
その罪状は、イエスは自分はユダヤ人の王だと自称している、
つまり、ローマ皇帝カイザルに対すして、不敬の罪を犯しているというものでした。
もちろん、これはユダヤ人たちによる偽りの証言です。
他の人に「あなたはイスラエルの王です」(ヨハネ1:49)と言われることはありましたが、
一度も自分自身のことを、ユダヤの王とか、イスラエルの王と言ったことはありませんでした。
ピラトはイエスとの対話を通して気付きます。
イエスには何の罪もない。
彼が今この場所に立たされているのは、
このユダヤ人たちが彼を妬み、憎んでいることが原因(ヨハネ11:48)になっている。
ここにあるのは、ユダヤ人たちの妬みと憎しみ。
そして、そこから引き出された偽りの証言である、と。
だから、彼は言いました。
「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」(ヨハネ19:6)
ユダヤ人たちは、自分たちの偽りの証言が認められないとわかると、
急にイエスを訴える理由を変えます。
「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」(ヨハネ19:7)
これは、かつてイエスが「神を…父と呼んで、…自身を神と等しい者と」(ヨハネ5:18)し、神を冒瀆した、ということを言っています。
旧約聖書のレビ記24章にはこう書かれています。
主の御名を呪う者は死刑に処せられる。共同体全体が彼を石で打ち殺す。神の御名を呪うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる。(レビ24:16)
つまり、彼らの主張はこうです。
イエスは自分を神の子、つまり神と等しい者と見て、神を冒瀆した。
これはユダヤの律法によれば、死罪に値する。
だから、ローマの法によって、彼を死刑にしてくれ。
彼を「十字架につけろ」(19:6)と。
ユダヤの律法で彼は死刑にあたる罪なのだから、
自分たちで死刑を行えばいいじゃないか、と思うかもしれません。
しかし、当時のユダヤは、政治的にはローマの属州になっていたため、
ユダヤ人たちでは、イエスを死刑にする権限がなかったのです。
そのため、彼らはイエスを死刑にするために、ピラトを利用しようとしたのです。

【ピラトが見たもの~罪なきイエス】
ユダヤ人はイエスの無罪を認めようとせず、イエスをめぐる裁判は続きます。
最終的にこの裁判は、19:15に記されているユダヤ人たちの言葉で終わりました。
彼らはこう言いました。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」(ヨハネ19:15)
この言葉は、ふたつのことを意味しています。
第一に、ピラトへの脅しです。
ピラトはこれまでに自分の地位を危うくする政治的な大失敗をいくつかしています。
その内のひとつを紹介します。
ピラトはエルサレムに水道を引く工事をするために、エルサレム神殿のお金に手を出します。
それを知ったユダヤ人たちは、怒り、暴動を起こしたのです。
そのような事がこれまでに何度かあったため、ピラトはまた暴動が起きるのを恐れました。
これ以上、自分が任されているこの地域で暴動が起きたら、自分の立場もきっと危うくなってしまうという恐れです。
そして、第二に、この言葉はユダヤ人たちによる神への冒瀆を意味していました。
ユダヤ人たちは、「神以外に自分たちの王はいない」という信仰を持っているのではないでしょうか。
神の民として、彼らは生きているのではないでしょうか。
しかし、彼らは言いました。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と。
一体どうしたことでしょうか。
神への冒瀆を理由に、イエスを訴えた彼らユダヤ人たちが、
神の冒瀆ととれる言葉を言うのです。
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と言って、イエスを十字架に架けるのです。
彼らの罪によって、イエスは十字架に架けられたのです。
このようにして、ピラトはユダヤ人たちの罪を見ました。
ユダヤ人たちの偽りの証言と神への冒瀆。
騒ぎ立てるユダヤ人たちの姿と対照的に、沈黙するイエス。
ピラトはユダヤ人が騒ぎ立て、イエスを告発すればするほど、
イエスの無罪を確信したことでしょう。

【ピラトが見たもの~人の力の限界】
さて、ピラトはそんなイエスを、何とかして無罪にしようと奮闘しました。
いや、正しく言うならば、
何とかして、ユダヤ人たちが望むイエスの死刑を、
自分自身が裁くことなく、彼らユダヤ人たちの判断で、取り下げさせようとします。
ピラトは、過越祭でだれか一人を釈放するという慣例を利用して、イエスを釈放しようとしました。
しかし、彼の計画は空しく終わりました。
代わりに釈放されたのは、バラバでした。
次に、鞭で打つことによって、十分な刑罰をイエスは受けたと思わせようとしました。
しかし、ユダヤ人たちはそれでは気が済まず、「十字架につけろ」と訴え続けます。
そして、次の手段はこうでした。
兵士たちによって茨の冠をかぶり、紫の服を着せられたイエスを指して言うのです。
「見よ、この男だ」(ヨハネ19:5)
さぁ、この男の悲惨な様を見なさい。
お前たちの王がこのようになっているんだ。
同情して、彼を赦してやれないだろうか。
このイエスの姿を思う時、今日一緒に開いたイザヤ書の苦難の僕であるキリストを預言する言葉を想い起こします。
そこにはこう書かれています。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/ わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。…苦役を課せられて、かがみ込み/ 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/ 毛を切る者の前に物を言わない羊のように/ 彼は口を開かなかった。(イザヤ53:3, 7)
このようなイエスの姿を見よ、とピラトは言ったのです。
しかし、ユダヤ人たちは訴えをやめませんでした。
「十字架につけろ」(19:6)という声は高まるばかりでした。
私たちは、ピラトのこの姿に人の力の限界を見ます。
ピラトは自分自身の限界を思い知ったことでしょう。
そして、こう思ったことでしょう。
ユダヤ人たちよ、イエスをもっと正しい目で見つめよ、と。
しかし、この言葉を言った本人であるピラトこそ、
正しい目でイエスを見つめる必要があったのかもしれません。
ピラトは、確かにイエスを見ました。
彼の無実を認めたという意味では、ピラトはイエスを正しく見つめていたということでしょう。
しかし、それでもピラトが一番に見つめていたのは、自分自身の立場でした。
ユダヤ人たちの暴動を恐れ、イエスをどうするかという自分の決断を先送りにする。
バラバの釈放の件といい、鞭打ちの件といい、
彼はイエスの死刑判決をユダヤ人たちの反応に任せっきりでした。
彼は実に曖昧な態度を取り続けました。
イエスを死刑にするという決断も、
イエスを無罪のものとして釈放するという決断も、
彼には出来なかったのです。
彼はユダヤ人たちの暴動を恐れて、イエスという正しい道を選ぶことができませんでした。

【私たちが見たもの~罪】
さて、この記事を読む私たちは、
ユダヤ人の願い通りに、十字架に架けられるイエスの姿を目撃します。
そこでは、人々の罪が露わになり、罪人として生きる人々の、罪人としての現実が晒し出されました。
ユダヤ人たちは偽りの証言をし、神を冒瀆しました。
ピラトはイエスが無罪と確信しながら、ユダヤ人を恐れたため、結果的にイエスを十字架に架けてしまった。
聖書は人の罪の結果として、これらのことを描いています。
では、罪とは一体なんでしょうか。
罪とは、ギリシア語でハマルティアといいます。
とても有名な単語なので、どこかで聞いたことがあると思いますが、
その意味は「的外れ」です。
日本語で「的外れ」というとき、意識せずに的を外してしまっていると、私たちは考えてしまいます。
しかし、聖書が語っている「的外れ」とはそういうことではありません。
自ら進んで違う的を選び、その的を射ぬこうとする姿をいうのです。
つまり、神という正しい的へ向かわず、
自ら進んで他の的へと向かう姿を罪というのです。
決して、悪いことのみを指して罪といっているのではありません。
それらは結果に過ぎません。
聖書が問題にしているのは、神との関係です。
今、あなたは神を見つめているのか、ということが問われるのです。
それを思うと、イエスの裁判の場面での、ユダヤ人やピラトの姿はとても象徴的です。
神を知り、神を信じるユダヤ人たちが、
神を知りながら、イエスを十字架に架けるという間違った的に向かって歩んでいたのです。
キリストと関わり、彼について知りながら、
ピラトは自分の身の安全を見つめ続けました。
ユダヤ人やピラトだけではなく、
兵士たちも、その光景を傍観していた人々も、逃げた弟子たちも、
キリストを見つめることなく、他のものを見つめていた。
この場所にいた人々こそ、私たち自身の姿なのだと気付くのです。
しかし、自分の罪を見つめていても、私たちは絶望するばかりです。
そこに救いはありません。
この罪の現実に悲しみが深まるばかりです。

【私たちが見たもの~神の愛】
この裁判の席においても、人々の罪が深まり、罪が露呈されました。
その中で、言われた言葉に私たちは希望を見出します。
「この人を見よ」(ヨハネ19:5)
ピラトは決して、この言葉を信仰的な言葉として語っているわけではありません。
しかし、聖書を読む私たち信仰者は、この言葉を信仰の言葉として受け取ります。
この人にこそ、救いはあるのだ。
主イエス・キリストにこそ、救いはある。
だから、彼を見よ、と。
ヨハネ3:16にはこう書かれています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
私たち人間の目には、十字架上で死んだイエスの姿は絶望でしかありません。
しかし、ここにこそ救いがあるのです。
十字架の死を通して、イエスは私たちひとりひとりの罪を負い、死にました。
私たちの罪を赦すためにです。
罪によって、神に向かうことが出来ない私たちが、
神に顔を向けて、神との関係が回復されるように。
イエス・キリストの十字架を通してのみ、私たちの救いがある。
彼が担ったのはわたしたちの病/ 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/ わたしたちは思っていた/ 神の手にかかり、打たれたから/ 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/ わたしたちの背きのためであり/ 彼が打ち砕かれたのは/ わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/ わたしたちに平和が与えられ/ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/ 主は彼に負わせられた。(イザヤ53:4~6)
人の力でこの救いを勝ち取ることはできません。
ただ一方的な神の恵み、神の愛なのです。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)
【イエスが見つめたもの】
イエスの生涯は、十字架を見つめるものでした。
十字架へと向かう歩みでした。
この十字架に向かう地上での歩みの始まりが、イエスの誕生だったのです。
私たちは今、アドベントの時を過ごしています。
アドベントはイエスの降誕を待ち望み、喜ぶときです。
イエスの誕生こそ、神が私たちを愛し、私たちと共にいることの証なのです。
この喜びを胸に、私たちは主イエスを見つめるべきなのではないでしょうか。
イエスは単に、自分の死を見つめて生きたわけではないでしょう。
人々の罪を見つめ、悲しむ歩みだったことでしょう。
イエスは私たち人間の罪を見つめて、悲しんだ時、
決して、その十字架への歩みをやめようとはしませんでした。
寧ろ、イエスは十字架の死のその先にある希望を見つめたのです。
神の計画によって、キリストによって人々の罪を贖い、
将来人々が神に立ち帰る将来がある、という希望を見つめたのです。
それゆえに、愛の眼差しをもって私たちを見つめ続けたのです。
イエスが愛の眼差しをもって、喜び見つめたもの、
それこそ、キリストによって救われた者たちの集まりである教会でしょう。
私たちは主が召しだした教会という群れに加えられているのです。

【この人を見よ】
さぁ、私たちは共に、私たちの救い主イエス・キリストを喜び、見つめましょう。
この人を見よ。
キリストにこそ、私たちの救いがあるのだから。
私たちはこれから遣わされていく場所において、
主イエス・キリストを通して与えられている、救いを握りしめて、
キリストから目を離さず、喜びをもって歩み続けようではありませんか。