しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年3月19日月曜日

説教#12:「主の道を喜び歩もう、歌いつつ」

先日、小岩教会で礼拝説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『主の道を喜び歩もう、歌いつつ』
聖書 ハバクク書3:1〜19、ヨハネによる福音書14:5〜7
日時 2012年3月18日(日)
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【ハバクク書について】
今日私たちに与えられた小預言書、ハバクク書は、たった3章からなる短い書簡です。
聖書通読のときに、サラッと読むくらいで、実際に何が書かれているかはわからない、
というのが小預言書に対して多くの人が持つ印象でしょう。
しかし、ハバクク書には新約聖書で何度か引用されている、
とても重要なことばが記されています。
神に従う人は信仰によって生きる。(ハバクク2:4)
ハバクク2:4のこの言葉は、
ローマ、ガラテヤ、ヘブライといった新約聖書の手紙で引用されています。
神に与えられている信仰によって、私たちにはいのちが与えられている。
私達に与えられている希望のことばです。
そのような言葉が書かれているこの預言書は、ハバククという預言者が記したとされています。
預言者と聞くと、未来のことを言い当てる人というイメージがありますが、
聖書に登場する預言者は、神のことばを預かり、民に伝えた人のことをいいます。
神が預言者たちを通して伝えたのは、神の約束であったり、人々に対する裁きや警告といった宣告でした。

【ハバクク書1〜2章の概観】
神の宣告が1〜2章には記されています。
そこでは、ハバククが祈りを通して神へ訴える姿と、
ハバククに対して答える神の姿が交互に描かれています。
ハバククは、紀元前587年のバビロン捕囚の30〜60年ほど前に登場した預言者です。
彼が預言者として活動した時期は、大国アッシリアが崩壊し、大国バビロニアが勢いを増してきた後の不安定な時代でした。
この当時のイスラエルは神の前に喜ばれない生活を続けていました。
そして、ハバククの目には、神の律法が人々の内で眠っているように見えました。
律法は隣人を愛するように命令しているのに、隣人を愛さない。
愛することより、ののしり、中傷すること、利用することを選ぶ。
イスラエルの内に、不正と暴力に満ちていました。
そのようなイスラエルの状況をハバククは神に訴えたのです。
ハバククの願いは、イスラエルの民が、神に喜ばれる歩みをするということでした。
しかし、ハバククの祈りに対する答えとして、神が語られたのは、堕落した歩みをしているイスラエルに対する裁きでした。
神のとられたイスラエルへの裁きの方法とは、バビロン捕囚でした。
紀元前587年、神にかつて与えられていた地から、イスラエルの人々は異郷の地へと連れて行かれたのです。
これは、この捕囚を通して、神に従い切れていなかったことを悔い改めるため、
そしてその後に、彼らを捕囚から解放し、イスラエルの人々の信仰を立ち返らせようとするために行われた神の計画でした。
私たち人間の目から見て、信じられない方法で、神は歴史を導こうとされていることを知り、ハバククは神に訴え続けたのです。
これから起ころうとする現実を、信仰者としてどのように理解していくべきかという葛藤の中に彼は置かれていました。
そのような時、私たちは騒ぎ立てます。
しかし、その時、ハバククは主の前に沈黙しました。
与えられた「神に従う人は信仰によって生きる」という言葉を握りしめ、
神に祈り続け、賛美へと向かっていったのです。
彼の賛美は、神への信頼に溢れたものでした。
そして、3章の「預言者ハバククの祈り」(3:1)という賛美が歌われるのです。

【シグヨノトの調べ】
ハバクク書3章は「預言者ハバククの祈り。シグヨノトの調べに合わせて」(3:1)、「指揮者によって、伴奏付き」(3:19)とあるように、ひとつの詩編になっています。
イスラエルの礼拝で使われ、この詩編によって、恐らく神への賛美が捧げられたのだろうと考えられています。
この詩編で特徴的なのは、表題として「シグヨノトの調べに合わせて」とあることです。
シグヨノトという言葉は、「神の真実さに完全に信頼する」場合にのみ使われる言葉です。
その一方で、この詩編は嘆き・嘆願の詩編の先がけとも言われています。
バビロン捕囚という将来の困難や試練を見つめた時に出てきた嘆きです。
この嘆きの中にあって、ハバククは神の真実さへの完全な信頼に立ったのです。
それだけではなく、彼は神に祈り、賛美をささげました。
詩編は、祈りを知らない私たちが、どのように祈ればいいのかを教えてくれます。
私たちが信仰と現実の葛藤の内にあり、嘆きを覚えるとき、どのように祈れば良いのかをハバクク書は教えてくれるのです。

【主の憐れみを求めて】
この詩編は、3:2のハバククの嘆願から始まります。
主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ/数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。 (ハバクク3:2)
嘆きの内にあったハバククは祈ります。
祈りの中で、神の約束や、神がこれまでイスラエルにしてくださったことを思い起こします。
そして、約束してくださった真実な方である、神に訴えるのです。
「あなたの名声を聞きました」とハバククは歌っています。
この「名声」という言葉は、「記録」という意味の言葉が使われています。
記録とは、神がイスラエルにこれまでされてきた事のことです。
歴史を通して働かれた神のみわざを想い起こし、ハバククは「畏れを抱きます」。
いつの時代も、イスラエルは神に導かれてきました。
だから、今の現状においても、神よ、導き給えと祈っているのです。
そして、「数年のうちにも、それを生き返らせ/数年のうちにも、それを示してください」と祈りを続けます。
神の内にある計画を遅らせることなく、実行してくださいとの願いです。
神の約束に基づいた神の計画への信頼がそこにあります。
たとえ、それがイスラエルに対するさばきを含んでいたとしても、
神は真実な方であるから、これまで歴史を通してイスラエルを導いてきたように、
最も良い方向へとイスラエルを導いてくださるという信頼があったのです。
そして、ハバククは神にこのように願うと共に、
「怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください」と、神の憐れみを求めます。
イスラエルの罪のために、神の怒りがあるのは当然のことだとハバククは知っていました。
神は罪を最も憎みます。
罪のために、イスラエルは神に喜ばれない悲惨な者たちの集まりとなっています。
この状態を神は喜ばれませんでした。
しかし、彼らを見捨てることをせず、神は彼らを愛する決断をし続けました。
彼らが罪人から、神の民として生きる者となることを願ったのです。
矛盾しているように思いますが、そこに愛があったのです。
神がこの悲惨な状態にある人間を愛する決断をしたのです。
それは神の憐れみです。
その憐れみを、主よ、忘れないでください、とハバククは懇願するのです。
私たちにとって、あなたの憐れみがどうしても必要なものなのです、と。

私たちもハバククやイスラエルと同様に、神の憐れみを求め続ける必要があります。
キリストの贖いこそ、神の憐れみのあらわれです。
キリストが私たちのために十字架に架かり、
命を捨て、罪を赦してくださったことこそ、神の愛の現れです。
ここに愛があるのです。
私たちはそこにすがるしかありません。
このキリストの愛にすがるしか、救いはないのです。
誰もが神の前では罪を犯し続ける罪人です。
キリストの贖いなしには、神との親しい関係を築いて、生きることはできません。
キリストの贖いなしでは、私たちは死んだも当然です。
それは、罪の報酬が死だからです。
しかし、キリストによって私たちに与えられているのは、いのちなのです。
だから、私たちは主に拠り頼み続けるのです。
そして、その憐れみを信じ、真実な神に信頼するのです。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(哀歌3:22〜23)
【主の道を求めて】
さて、3〜7節で、ハバククはこの憐れみ豊かな神の力強い行為を振り返っています。
そして、8〜16節では、戦士なる神の姿が歌われています。
「馬」と「海」(ハバクク3:8,15)という言葉が出てきて、
イスラエルがかつて、エジプトから逃れ、紅海を渡ったという体験を思い起こします。
かつてエジプトに対して、神が戦われたように、
神はバビロンに対しても、イスラエルのために戦われる。
まさにシグヨノトの調べです。
「神の真実さに完全に信頼」した上で、歌われた歌でした。

6節ではこう歌われています。
主は立って、大地を測り/見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ/永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。(ハバクク3:6)
私たちの身の回りのものは、すべて変化をします。
絶えず変わり続けます。
それが自然なことです。
すべてのものが揺り動かされます。
私たちが信頼して立っているこの大地でさえ、大きく揺れます。
とこしえにそびえ立つであろう山々でさえ砕かれ、
永遠に残るとも思えた丘でさえも沈みます。
まして、主が立ち上がり、そうされようと決断したら、それらが残るはずがない。
動かないはずがない。
砕かれないはずはない。
沈まないはずはない。
しかし、その中で変わらないものがあります。
それは主の道です。
主の道は永遠に変わらない、とハバククは声高らかに歌ってるのです。
主の道、それは憐れみの道でしょう。
神の民を、神の御元へと導く道です。
それは喜びの道。
神の憐れみで満ちた道。
その道は決して、裁きを終着点とはしません。
もちろん、時として、憐れみゆえの裁きがその途上にありますが、
裁くことを最終的な目的としていません。
この主の道を私たちは歩んでいるのです。
出エジプトの出来事がそうでした。
かつてイスラエルは神に導かれてエジプトから脱出したとき、
目の前に海、後ろにはエジプト軍という危機に晒されました。
しかし、その時、神は紅海を割って、そこに道をつくるという方法でイスラエルの人々を救われました。
主の道は変わらず、救いへと辿り着くのです。
海やエジプト軍という絶望が終着点ではなかったのです。
主の道は変わらず、憐れみの道なのです。

【道であり、真理であり、命であるイエスを見つめて歩む】
この「主の道」という言葉は、新改訳聖書では「その軌道」と訳されています。
なぜこのような訳され方がしているかというと、
主の道は、主が通られる道という意味を含んでいるからです。
私たちが歩む「主の道」は先に主が通られているのです。
今日一緒に開きましたヨハネによる福音書14章で、イエス様はトマスにこう言いました。
わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)
私たちは自らの将来を見つめる時、まったく道がないように思える時があります。
道があると思っていたら、実はそこは道ではなかったと思える時もあります。
まるで誰もいない、足跡もない、看板もない雪山でひとり、遭難しかけているような感覚を覚えるときもあります。
何処へ行けばいいのかわからず、途方に暮れ、命の危険さえも感じます。
そのような私たちに、聖書は、イエス様が道であり、真理であり、命であると確信をもって宣言しているのです。
イエス様だけが、この雪山から家に戻るための正しい道を知っているのです。
そして、私たちの先に進み、道をつくってくれるのです。
愛する家族と温かな食事の待つあの家へ続く道を。
イエス様は、この「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と力強く宣言しています。
事実、イエス様は私たちの罪を赦すために十字架に架かり、死んで、復活されました。
私たちの罪によって断たれた神との関係を回復するために。
イエス様を通してのみ、父なる神との関係が回復されるのです。
だから、主イエスこそ、道、真理、命なのです。
私たちにとって、この方を完全に信頼して歩むことこそ、最も喜ばしい歩みなのです。

【主によって、喜び迎える】
しかし、この主の道ですが、常に喜びとは限りません。
「イエス様を信じて、クリスチャンになってから、ずっとハッピーな人生を送っています!」
このようにいう信仰者はひとりもいないでしょう。
喜びもあれば、悲しみもあるのがこの主の道です。
この道を歩む時、私たちは17節のような状況になるときが十分にあります。
いちじくの木に花は咲かず/ぶどうの枝は実をつけず/オリーブは収穫の期待を裏切り/田畑は食物を生ぜず/羊はおりから断たれ/牛舎には牛がいなくなる。(ハバクク3:17)
何もかも失い、希望が持てず、悲しみに暮れる状態です。
しかし、ハバククはこの状況さえも喜ぶことができています。
彼の名前の意味は「喜び迎える」。
その名の通り、彼はこの状況さえも喜び迎えました。
しかし、わたしは主によって喜び/わが救いの神のゆえに踊る。 (ハバクク3:18)
なぜ彼は喜ぶことが出来たのでしょうか。
それはこの道を歩んでいる途上の、「今」だけを見つめたわけではなかったからです。
彼が見つめ続けたのは、主の道のゴール、輝かしい勝利です。
主が最終的に導こうと思われている場所、約束、終わりのとき主と共にいる希望を見つめ、今の状況さえも喜んだのです。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ローマ8:28、新改訳)
今この時が、すべて最終的な目標に向かって益となるように共に働いていることを知っているのです。
それを知り、ハバククは感情的には喜ぶことはできないが、
信仰によって、霊にあって、喜び迎えることができたのです。

【歌いつつ、主の道を喜び歩む】
時に、この道を歩む時、この足に疲れや弱さを覚えることがあります。
そのような時、主は私たちの足を雌鹿のように強めてくださいます。
主にあって、足は強くされ、高台も難なく歩むことができるのです。
私たちは主に信頼して、主の道を歩んで行きましょう。
主イエスの他には拠るべきものないのです。
いや、それどころか、この道を歩む私たちを主イエスから引き離すものはひとつありません。
パウロの確信はこのようなものでした。
…死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:38〜39)
私たちは主イエスを喜び迎えましょう。
喜び歌いましょう。
喜び歌いつつ、共に主の道を歩み続けましょう。
神の真実さに完全に信頼しつつ。
シグヨノトの調べに合わせて。