しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年3月26日月曜日

説教#13:「共に歩むことへの招き」

先日、三軒茶屋教会で礼拝説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『共に歩むことへの招き』
聖書 創世記1:1〜5、ヨハネの手紙一1:5〜7
日時 2012年3月25日(日)
場所 日本ナザレン教団・三軒茶屋教会


【人の抱える闇〜共に歩めない共同体】
私たちが生きるこの世界を見るとき、私たちのこの目には一体何が映るでしょうか。
神が創られた美しい自然。
歴史的な建造物。
空を飛ぶ鳥。
多くのビルがそびえ立つ大都市。
そして、行き交う人々。
多くのものがこの目に映ります。
その一方で、社会の闇と呼べるようなものとも、私たちは出会います。
人々が傷付け合い、争いの絶えることのない現実。
利益を追い求め、競いあう人々の姿。
積み重ねてきた人々の過ちによって、崩れ行く自然の姿。
これらのことは、テレビのニュースや新聞で見るだけのことで、
自分とは全く関係のない非日常的なことなのでしょうか。
いえ、そんなことはありません。
必ずといっていいほど人間がその問題の中心にいるからです。
そうである限り、私たちとは切っても切り離せない問題です。
そして、私たちが生きるこの社会の抱える闇は、
私たち一人ひとりの内にある闇でもあります。
今日開かれたヨハネの第一の手紙の著者は、
私たちがキリストから離れた歩みをしている状態を、
「闇の中を歩む」(Ⅰヨハネ1:6)と表現しています。
誰もが自らの罪を、神と人の前に覆い隠そうとし、闇へと葬ります。
少しずつ、少しずつ、自分の中に暗い闇の領域が広がっていくのです。
そして、人が集えば集うほど、闇がますますその深みを増していく感覚を覚えます。
人が共に生きようとする時、
手を取り合うべきなのに、裏切り合い、
愛し合うべきなのに、憎しみ合います。
信じ合うべきなのに、疑い合って、
励まし合うべきなのに、貶め合います。
これらのことが、共に生きる人々との間で起こり続けています。
私たちは、闇の中に生き、罪を抱えながら生きなければならないのでしょうか。
罪に悶え苦しむ現実がある中で、
私たちは喜びをもって共に生きることが出来るのでしょうか。

【神は光〜闇から光が輝き出よ】
このような私たちの現実を知った上で、
ヨハネの第一の手紙の著者はこのように書いています。
神は光であり、神には闇が全くない(Ⅰヨハネ1:5)
自らの罪に気付けば気付くほど、光であり、闇が全くない神は、
私たち人間とはまったく違う存在であるということを私たちは知ります。
その違いに気付けば気付くほど、どんどん神が遠くなるように感じるのです。
その光の輝きが強く感じれば感じるほど、自らの闇の深さに気付き、絶望さえ覚えます。
私たちにとって、神は遠くの方でただ輝いているだけの存在なのでしょうか。
著者は、そのことを読者に伝えるために書いたのでしょうか。

いや、そんなことは絶対にありません。
著者は4章でこう言っています。
神は愛です。 愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4:16)
愛なる神は、私たちから遠ざかるどころか、私たちの内に留まろうとされているのです。
私たちの内に留まり、共に生きようとされます。
この愛なる神は、私たちのもとに歩み寄ってこう言われました。
「光あれ」(創世記1:3)
この世界に対する神の最初の語りかけが、この言葉でした。
聖書を開いて最初のページから読む時、
一番最初に出会う神の私たちに対する直接の語りかけです。
神がこう言われる前、「地は混沌であって、闇が深淵の面に」(創世記1:2)あったと創世記1:2には記されています。
この地は混沌だった、つまり秩序のない状態だったと訳されていますが、
ここでは新改訳で使われている、「茫漠」という訳のほうがいくらかもとの意味に近いと考えられます。
地は、人や生物の住めるようなところではない「荒涼とした荒地」でした。
何の生き物も育たず、作物も取れない「生産不可能な土地」でした。
そこはいのちを見出すことのできない地でした。
それは、 この地で生きることに、光を見出だせない状態です。
そのような地に、神は「光あれ」と言われたのです。
そこから、神がつくられた天地において、創造のわざがはじめられたのです。
誰も生きられず、収穫もない地に、神はいのちを与えられたのです。
この神の天地創造の物語は、イスラエルの人々の中で、口で語り継がれ、
バビロン捕囚によってバビロニアへと連れていかれた捕囚時代に文字として記されたと考えられています。
それまでイスラエルの中で語り継がれてきた天地創造の話を、
イスラエルの人々は苦しい捕囚の現実の中で見たのです。
茫漠とした地に、神は「光あれ」と言われ、創造のわざをはじめられました。
この闇が広がる地に、「光あれ」と言われ、光を差し込まれました。
天地創造のときに、この地に光を与えられたように、
この混沌とした現実に「光あれ」と神は言わるのだ、とイスラエルの人々は神に希望を見出したのです。
闇が広がる捕囚という現実の中で、神に光を見たのです。
神こそ、私たちの光である、と。(詩編27:1)
神は私たちの置かれている現実に目を向けてくださいます。
私たちが闇と思えるような場所に、
自分自身では解決は到底望めない問題に、
神は光を与えてくださるのです。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:3)
神は、私たちの傷ついたところに、光を与えてくださいます。
それは、神の光によって、私たちの傷が周囲に晒されるためではありません。
その傷が回復されるため、神は私たちに「光あれ」と言われるのです。
神は私たちの光なのです。
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷ついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩編139:23〜24、新改訳)
【光の中を歩む〜神と共に歩む】
さて、私たちは、光の中を歩むようにと神から招かれています。
光の中を歩むとは、神に喜ばれる歩みをするということです。
神から光の中を歩むようにと招かれている私たちですが、
果たして、神の招きに応えて、神が喜ぶ歩みができているのでしょうか。
正直、どう頑張っても、私たち自身の力でそれを行うのは無理でしょう。
ヨハネは1:6でこう言っています。
わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。(Ⅰヨハネ1:6)
神との交わりを持っていながら、闇の中を歩む。
私たちの罪の現実を実に正確に言い当てた言葉です。
こちらの領域では神と共に生きながら、
他の別のところでは、神を無視して、この世に倣った(ローマ12:2)生き方をする。
光の中を歩む自分と、闇の中を歩む自分の二重生活を繰り広げます。
光の中を歩む時の仮面と、闇の中を歩む時の仮面を、実に巧妙に使い分けているのです。
パウロはローマの信徒の手紙の中でこう語っています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。…もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。(ローマ7:15, 20)
罪を犯して、神に喜ばれない歩みを続けてしまうのは、罪人だからしょうがないでしょ、
というような開き直りを、パウロはしているのではありません。
彼は自分自身の罪を何とかしようと苦しみました。
神に喜ばれる歩みがしたいと心から願っていました。
しかし、どう頑張っても、また闇の中を歩んでしまう。
もはや、自分の力では何もできないという、罪の現実に対する絶望です。
自分の内には救いはない。
この自分さえも頼ることができない。
しかし、彼は救いを見出していました。
キリストによってのみ、救いがあるのだということを。
キリストによってのみ、光の中を歩む者へと変えられる。
キリストによってのみ、光の子(エフェソ5:8)とされるのだと。
私たちを蝕む罪は、キリストによって赦されているのだから、
今、私たちは光の中を歩むことができるのです。
キリストによって、完全な勝利者(ローマ8:37、新改訳)とされているのです。
この方と共に、キリストと共に、私たちはこの歩みを進めるのです。
彼は、私たちの行く道を照らしてくださいます。
神の光のもとへ行くとき、もはや私たちは闇の中を歩むことはないのです。

【光の中を歩む〜共同体と共に歩む】
そして、光の中を歩む者は、共に生きる交わりへと招かれています。
…神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(Ⅰヨハネ1:7)
私たちは、共に生きようとする時、自らの罪のために互いに傷付け合ってしまいます。
手を取り合うべきなのに、裏切り合い、
愛し合うべきなのに、憎しみ合い、
信じ合うべきなのに、疑い合い、
励まし合うべきなのに、貶め合ってしまいます。
そのような私たちが、光の中を歩む時、互いに交わりを持つようになると書かれているのです。
私たちは傷付け合うとき、徐々に自分たちの間を隔てる壁をつくりだします。
キリストにあって罪赦される時、この隔ての壁が打ち壊され、互いに交わりを持つことが可能になるのです(エフェソ2:14〜15)。
光の中を共に歩む共同体へと変えられるのです。
ヨハネの第一の手紙が書かれた目的は、まさにそこにありました。
第一ヨハネ1:3。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。(Ⅰヨハネ1:3)
手紙の読者が、父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりへと加えられること。
そして、互いに交わりをもつようになること。
これが著者の心からの願いでした。
その交わりは、「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら」(Ⅰヨハネ1:7)実現すると宣言されています。
神が与えてくださっている光の中を共に歩もうという招きがなされているのです。

私たちは今、受難節を過ごしています。
主イエスが十字架に架かるまでの道において受けたその苦しみを想い起こすときです。
私たちは想い起こしましょう。
交わりへと私たちを導くために、
教会で許されている交わりへと私たちを導くために、
今日、この場所で持たれている交わりへと私たちを導くために、
キリストは十字架の上で苦しまれました。
私たちがこの場所に集い、共に神を礼拝できていることは、神の憐れみゆえです。
私たちが与えられている交わりとは、キリストの罪の贖いがあってこそ実現したものなのです。
キリストに感謝すべきものなのです。
そして、私たちが思っている以上に、あり得ないものが今実現しているのです。
私たちが思っている以上に、喜ぶべき交わりがここにあります。
神の招きに応えて、私たちは「共に」交わりを持ち、
「共に」歩み続けようではありませんか。

【主の招き〜光を携えて共に歩む】
私たちは日々、闇とも思えるような場所へと出て行きます。
しかし、恐れる必要はありません。
私たちからこの光を奪い去るものは何一つないからです。
わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(ローマ8:39)
それぞれが委ねられている場所へと、光を携えて歩む者とされています。
それは決して光を握り締めることではありません。
光を握り締める時、光はその役割を十分に発揮することができません。
神の光を受け取る時、私たちは世の光とされているのです。
マタイによる福音書にはこう書かれています。
「…あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:14〜16a)
私たちの日々の歩みは、与えられている光を共に分かち合う歩みです。
それは神が「光あれ」と言って、この地を祝福したように、
神が私たちを通して、人々を祝福する歩みです。
それは神が「光あれ」と言って、暗闇に光を灯したように、
神が私たちを通して、希望を与える歩みです。
また、それは闇の中を歩む人々に、光の中を共に歩もうと招く、
与えられている喜びの福音を人々に伝える歩みです。
そして、それは信仰と希望と愛で溢れる(Ⅰコリント13:13)交わりを築きあげる歩みです。
私たちはこの光を携えて歩むように招かれているのです。
主の招きに応え、私たちは光の中を歩み続けましょう。
神が招いてくださるこの交わりと共に。