説教#14:「我が魂よ、神を待ち望め」

先日、青葉台教会のユース礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『我が魂よ、神を待ち望め』
聖書 詩編42:1〜12
日時 2012年5月13日(日)
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会
【なぜ?】
なぜ?
なぜこんな目に会わなければならないのか?
悲しみ、失意に暮れる時、
「なぜ」という疑問が絶えず私たちの内に湧き出てくる時があります。
なぜ、今この場所で生きなければいけないのか?
なぜ、今苦しまなければならないのか?
なぜ、何もかもうまくいかないのだろうか?
なぜ、神は私をすぐに助けてくださらないのか?
なぜ、なぜ、なぜ、と。
詩編42篇は、なぜ?と私たちが問いかけたくなるような状況に立たされたとき、
私たち信仰者がどのように神に祈ればいいかを教えてくれます。

【涸れた谷に水を求める鹿のように】
先程一緒に賛美した「鹿のように」はこの詩編42篇が元となって書かれたものです。
この賛美の前半は、このように歌われています。
谷川の流れを慕う鹿のように
主よ我が魂 あなたを慕う
この賛美を歌う時、私たちは鹿が渇いた喉を谷川の水を飲んで潤すように、
神様を慕い求めている姿を思い起こします。
その光景に平穏な印象を覚えます。
しかし、聖書をよく読むと、私たちが覚えるような平穏さはそこにはありません。
詩人が追い詰められた、切迫した状況に立たされていたということに気付かされます。
詩人はこう歌い始めました。詩編42:2。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)
そう、谷は涸れている。
夏の暑い時期に、川は涸れ果てます。
気温が高い中、涸れ切った喉を潤そうと、
必死に、必死に水を探し回る鹿の姿を私たちは想像することができます。
春まではここに水が流れていた。
しかし、今はこの川は涸れ切っている。
鹿にとって、この状況は命をも左右します。
この涸れ切った川に水はないかと、鹿が必死に水を探し求めているように、
詩人は神を求めているのです。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩編42:2)
しかし、なぜそれほどまでに詩人は神を求めたのでしょうか?
彼はこう歌っています。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり(詩編42:4a)
昼も夜も、つまり一日中、彼は涙を流していました。
このように歌うほどに、彼は悲しみ、失望を覚えています。
彼の喉を潤す水は、彼自身の流す涙でした。
しかし、この涙は彼の心を潤すことは決してありませんでした。
彼はその悲しみの故に、神を求めました。
彼の渇ききった魂は、神を、命の神を求めたのです。(詩編42:3)
彼のこの魂の渇きを満たすのは、神しかいないと詩人は知っていたからです。
彼の魂は渇ききり、神しかそれを満たすものはいないのです。
他のなにものも、一時的にしか自分を満たすことが出来ない。
神のみでしか、自分の心は、魂は満たすことはできない。
そう、詩人は知っていたのです。

【コラの子の出会った試練】
では、一体、なぜ彼の魂は渇ききってしまったのでしょうか?
一体彼には何があったのでしょうか?
この詩編の表題は、「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」です。
コラの子が作者だと考えられています。
コラの子とは、イスラエルの祭司の一族である、レビ族の子孫のことです。
ちなみに、モーセやアロンがレビ族の出身です。
イスラエルの王国時代の記録が記されている歴代誌によると、
コラの子たちは、エルサレム神殿で賛美を歌ったり(歴代上6:22、下20:19)、神殿の門を見張る(歴代上9:19, 31)役割があったそうです。
その後の時代のことが書かれている、エズラ記とネヘミヤ記には、バビロン捕囚から帰ってきた人々のリスト(エズラ2:40以下、ネヘミヤ7:44以下)というものがあります。
しかし、そこには、コラの子の名前が見当たらないのです。
一体どういうことなのでしょうか?
エズラ記、ネヘミヤ記の時代、つまり第二神殿時代に、コラの子たちは神殿から追放されたのだろうと考えられています。
だから、詩人は42:5でこう歌っているのです。
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。(詩編42:5)
神殿を追い出された彼は、思い起こします。
かつてイスラエルの人々と共に、喜び歌いつつ、神殿で主を賛美していたことを。
自分が与えられた奉仕を、毎日喜んでしていたあの日々を。
しかし今、彼は神殿を追放され、それらのことをすることができない。
この事実を思い出す度、彼の目は涙で溢れました。
悲しみが彼の心を支配しました。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。(詩編42:3b)
また神殿で神を礼拝したい。
しかし、その日はいつ訪れるのだろうか。
そのような日は、もう二度と訪れないのではないのだろうか。
彼は失望します。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。(詩編42:4b)
自分の内に悲しみが沸き起こるだけでなく、周りからの非難の声も彼は聞きました。
苦しんでいる自分をあざ笑う声が聴こえてきます。
絶望しきった中で、「お前の神はどこにいる」と非難されたのです。
この言葉は、もしかしたら詩人の心の中でのみ起こった言葉の可能性もあります。
失意に暮れる時、私たちは、「なぜ神はこのような事をなさるのか?」という思いを抱きます。
そして、それが続く時、やがてこの言葉は、「神はどこにいるのか?」という疑いの言葉に変わっていきます。
しかし、それは私たちの感情的な言葉であると知らなければなりません。

【神を待ち望め】
私たちの心と身体はそれぞれ私たち自身の信仰に影響を与えています。
身体が弱る時、私たちは心が弱ります。
そして、心が弱り果てる時、それに引っ張られるように信仰が落ち込むことがあるのです。
心が弱り果てる時、その心の行くままにさせてはいけません。
詩人はそれを知っていました。
だから、彼は自分自身に語りかけるのです。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。(詩編42:6〜7a)
ここで詩人は客観的に自分を見つめています。
落ち込んでいるのは私の感情である。
心弱る時、信仰も弱りやすい。
それほどまでに、私たちは弱い。
だから、このようなときは、自分に語りかけるのだ、と教えてくれるのです。
どうしようもない状況で慌てふためく自分に、神を見つめるように促すのです。
この状況にばかり目を向けるのではなく、
今、神に目を向けよ、と。

【神の支配を認める】
続けて、詩人は神に語りかけます。
わたしの神よ。
わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。(詩編42:7b〜8)
激動。
彼の心の内はまさにそのような状態だったのでしょう。
しかし、そのような心の状態も、
今の自分の置かれている環境も、
神が支配されているのだと詩人は認めています。
今の現状は、「あなたの」注ぐ激流。
「あなたの」波であると、彼は確信しています。
事実、私たちの信仰生活は常に上向きとは限りません。
神を信じていても、信じていなくても、私たちの人生には波があります。
もしも、私たちの人生が常に順風満帆であったら、
私たちは神に求めることさえしないでしょう。
神がいなくても、自分の力ですべてを乗り越えられる、と。
やがてそれは神を必要としない歩みへと変わっていくのです。

私たちの経験する時が、すべて神の御手の中にあると知るならば、
たとえ激動の中にあっても、私たちは神と共にある平安を見出すのです。
神のなさることは、すべて時にかなって美しいからです。(コヘレト3:11)

【なぜと神に問う】
苦しみの中で、詩人は、「神を待ち望め」(42:6)と言っています。
なぜこれほどまでに、神に希望を置けるのでしょうか?
歴史を通して、イスラエルを神は導いてきました。
エジプトで奴隷生活をしていたとき、神はモーセをリーダーに立て、イスラエルを約束の地へと導きました。
困難とも思えた状況を、神は打ち破り、確かに自分たちを導いて下さった。
だから、私は神を待ち望むのだ、と詩人は確信しているのです。
この神が自分の人生を導いてくださらないわけはないのだ、と。
詩人を取り巻く環境は依然として変わりません。
しかし、この激動の中、彼は希望を見出しています。
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。(詩編42:9)
昼も夜も涙が自分の糧だったと言っていた彼の内に、祈りが与えられているのです。
そして、その祈りの中で彼は慈しみと主の歌を与えられるのです。
激動の中で、彼は平安を覚えます。
だから彼はこう歌います。
現状は苦しい。
しかし、それでも「なお」、告白しよう。
御顔こそ私の救い。私の神よ、と。

【失意に暮れる時】
私たちの内に、今、失望している者はいるでしょうか?
その思いを「なぜ」と神へぶつけよと、詩編42篇は教えてくれます。
そして、神こそ私たちの希望であることを思い起こしましょう。
問い続けた先に、神の内に答えを見出すのです。
そして、私たちはこれから先、思いもよらぬ困難へとぶつかるときがあるでしょう。
そのようなとき、私たちはこう祈るのです。
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。(詩編42:12)
そうやって、自分の問題から神の方に目を向け直し、神を求めるのです。
涸れた谷に鹿が水を求めるように、
私たちの主こそ、私たちを守る盾であり、
弱い時の力であり、
常に私たちが見つめて希望を抱く望みだからです。
この神にこそ、私たちは希望を置くのです。
この神に祈りつつ、私たちは共に歩んで行きましょう。

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