しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年6月21日木曜日

説教#15:「愛の共鳴」


先日、青葉台教会のユース礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『愛の共鳴』
聖書 ホセア書1:1〜2:3、ローマの信徒への手紙12:1〜2
日時 2012年6月10日(日) ユース礼拝
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会


【結婚とは何だろうか?】

ホセア書は、預言者ホセアが語った預言が書かれています。
預言者とは、神様の言葉を預かって、人々に伝える人たちのことです。
預言者ホセアは、神様が語った言葉を、人々に語り伝えただけではありませんでした。
ある時、彼は、神様からとても過酷な命令を受けます。
行け、淫行の女をめとり淫行による子らを受け入れよ。(ホセア1:2)
「淫行」。それは、性的に乱れていることです。
つまり、結婚している関係以外で、異性と肉体関係を持つことです。
イスラエルの人々にとって、結婚をしていない人が、異性と肉体関係を持っていないということは、当然のことでした。
それは律法に記されているからです。
申命記22:20〜21にはこのように書かれています。
しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。(申命記22:20〜21)
そう、結婚以外の関係で、肉体関係を持つことは、死刑に値することだったのです。
なぜそれが禁止されているのかというと、神様がそれを喜ばれないからです。
結婚には神様の計画があるからです。
創世記1〜2章には、神様がこの世界を創造したことが書かれています。
それは、まだ罪がなく、神様が「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)といった世界です。
この神様の創造の中に、結婚は含まれています。
結婚は決して罪の結果生まれたものではありません。
創世記2:24に、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記されています。
私たち人間は互いに愛し合う事によって、お互いの人格的成長を表現するために、性の働きが備えられています。
そして、ほとんどの場合、その持続的な愛を一人の人格としての異性と共に交わしながら、相互に深め合っていくように招かれているのです。

【淫行の女をめとれ〜愛する決断】
しかし、神様の目から見たら、決して喜べない生活をしているゴメルという女性と結婚をするように、神様はホセアに命令するのです。
行け、淫行の女をめとり
淫行による子らを受け入れよ。(ホセア1:2)
正直、拒否したくなるような命令をホセアは神から受けました。
もしかしたら彼女は結婚してからも、他の男性のもとへ行こうとするかもしれない。
そのような不安がホセアの内にはあったことでしょう。
神の命令と、自分の思いに挟まれ、彼は葛藤したことでしょう。
しかし、その葛藤の中で、彼は彼女を愛することを決断したのです。
人を愛するということは、自分の感情によるのではありません。
自分の意思によるものなのです。
「敵を愛」せ(マタイ5:44)というイエス様の言葉を聞いた時、
私たちは感情では、その敵を愛せないことに気付くでしょう。
しかし、それでも愛そうという意思を持つ時、
私たちは敵を愛する者へと変えられていくのではないでしょうか。
愛することは、意思なのです。
ホセアはゴメルを愛そうという決断をします。

【イスラエルの現実】
しかし、なぜ神様はホセアをゴメルと結婚させたのでしょうか。
男女が結婚し、互いに愛し合う。
自分のパートナーただ一人を、一人の女性として、一人の男性として愛し続け、
その交わりを深めていくことを喜ばれる神様が、
なぜこのような結婚をするようにホセアに命令したのでしょうか。
その理由は1:2に書かれています。
この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。(ホセア1:2)
その理由は、イスラエルの人々が神様から離れているから。
これがホセアをゴメルと結婚させる理由でした。
一体、イスラエルが神様から離れることと、ホセアがゴメルと結婚することに、どういう関係があるのでしょうか。
聖書は神と人との関係を結婚にたとえて描写する時があります。
男女が互いに愛し合っている姿を通して、神と人とが愛し合う関係を表しているのです。
パウロは、エフェソ5章で夫と妻の関係をキリストと教会の関係にたとえて話しています。(エフェソ5:25)
そして、夫のいる女性が他の男性のもとへ行く姿を描くことによって、
神から離れていくイスラエルの姿を描くのです。
ホセアがゴメルと結婚する姿に、私たちは神様とイスラエルの姿を見るのです。
ホセアの結婚を通して、神様は語ります。
今、イスラエルは私のもとではなく、他の神々のもとへ行っている。
結婚していない人でも、その苦しみはきっとわかるでしょう。
結婚し、愛を誓い合った仲だったにも関わらず、相手は自分から離れていく。
これほど悲しいことはありません。
ホセアは、この結婚における愛は偽りだったのか?と問いかけたくなったことでしょう。
しかし、それでも人々を愛し続けることを神様は決断し続けました。
人々を愛する故に、どれほどの苦しみがあったことでしょうか。
ホセアがゴメルに対して抱く愛は、神様が同じようにイスラエルに対して抱いているものです。
そして、ホセアがゴメルに対して抱く葛藤は、神様が同じようにイスラエルに対して抱いているものなのです。
そして、それらの感情は神様が私たち自身にも抱いているものです。
神様は変わらず、私たちを愛してくださっています。
それにも関わらず、私たちの心は神様から離れる時があります。
いや、私は神様を愛しているとこの口で言いながら、この心で誓いながら、他のものに心を向けるのです。
「淫行」という言葉は、偶像崇拝も意味している言葉です。
旧約聖書の偶像礼拝の考え方は、聖書の語る神様以外の神を拝むことです。
新約聖書は、それと共に、私たちの心を神様以外のところへ持っていくものを偶像と呼んでいます。
マタイによる福音書6:19〜21にはこのように書かれています。
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 (マタイ6:19〜21)
「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」とイエス様は言っています。
普段の日常において、私たちの心は一体何処へ向いているでしょうか。
私たちの心を神様以外の場所に置くことは、あまりにも簡単です。
そして、神かそれ以外のものか、という単純な構造ではありません。
神様を信じながら、他のものに心を寄せる。
これが偶像礼拝の現実なのです。

【それぞれの名前の意味】
悲しいことに、結婚した後もゴメルの淫行は続きました。
彼女の淫行によって、3人の子どもたちが生まれるのです。
この子どもたちの名前は、神様が付けました。
それはイスラエルの未来がどのようなものであるのかを預言するものでした。
この国の将来を担う子たちの名前が、この国の将来を預言しているのです。
主は彼に言われた。「その子をイズレエルと名付けよ。間もなく、わたしはイエフの王家にイズレエルにおける流血の罰を下しイスラエルの家におけるその支配を絶つ。(ホセア1:4)
最初に生まれた子の名前は、イズレエル。
この名前は北イスラエルの地名で、「神は植える」、「神は集める」という祝福された名前です。
しかし、このイズレエルという名前は、かつてイエフという王によって虐殺があった場所の名前でした。
その事件以来、このイズレエルという名前は、人々にその悲惨な事件を思い出させるものとなってしまったため、祝福ではなく呪いの名前となってしまったのです。
そして、将来、イエフ王家が途絶えるという預言でした。
イスラエルには王がいなくなるという預言でした。
王がいなくなる。
それはその国の人達が散らされることを意味しています。
そう、イズレエルのもうひとつの意味は「散らされる」です。
彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず
彼らを決して赦さないからだ。 (ホセア1:6)
そして、次に生まれた子はロ・ルハマ。
「ロ」というのが、否定の言葉で、「憐れまれぬ者」という意味の名前の子でした。
イスラエルが偶像礼拝を続けるならば、イスラエルは神に憐れまれないという預言です。
彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。主は言われた。「その子を
ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく
わたしはあなたたちの神ではないからだ。」 (ホセア1:8〜9)
3番目の子はロ・アンミ。
「我が民でない者」という絶望的な意味の名前でした。
ロ・アンミについて書かれる前に、「ロ・ルハマを乳離れさせると」とわざわざ書かれています。
乳離れしてから、身ごもって、男の子を産む。
その期間は2, 3年です。
その間、神様は待ったのです。
イスラエルが神の憐れみを求めるのを。
しかし、イスラエルは求めなかった。
だから、こう預言されたのです。
もはや、イスラエルは私の民ではない。神の民ではない、と。
私たちは、本来このような状態であるということを、どれほど知っているでしょうか。
私たちの内に巣食う罪のために、本来、私たちは神の憐れみを受けられず、
神の民と呼ばれるのに相応しい者ではないということを。

【淫行による子らを受け入れよ】
それにも関わらず、「淫行による子らを受け入れよ」(ホセア1:2)という神様からの命令が書かれています。
ホセアは、妻ゴメルが結婚後、淫行によって生む3人の子たちを受け入れなさいと言われたのです。
それは、彼女を赦し続けなさいということも意味していました。
正直、結婚したにも関わらず、他の男性のもとに行く女性を赦すことなど、自分の感情に従ったら出来ない気がします。
しかし、それでも彼女を赦し、彼女を愛しなさいと神様は言っているのです。
ホセアとゴメルの関係に、神様とイスラエル、そして神様と私たちの関係を重ね合わせて見るならば、
私たちは神様の愛がどれほど深いものであるのかということに気付くのです。
あなたは私の前に確かに罪を犯した。
それでも、私はあなたを赦し、あなたを愛し続ける。
そのように神様は私たちに語られているのです。
ホセア11:8〜9にはこのように書かれています。
ああ、エフライムよ
お前を見捨てることができようか。イスラエルよ
お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。(ホセア11:8〜9)
私たちの罪を見る時、その罪に対して、神様は怒りを覚えるのでしょう。
しかし、それ以上に、私たち自身を思う愛故に、神様は葛藤します。
罪が私たちの日常に、深く関わり、私たち自身を蝕んでいる現実に、
神様は悲しみを覚えています。
私たちを憐れみ、その憐れみに胸を焼かれるのです。
その愛ゆえに、神様は独り子であるイエス様を十字架に架けました。
イエス様にすべての罪を背負わせ、十字架に掛けたのです。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(ローマの信徒への手紙3:23〜25)
イエス様が十字架に架けられ、この私の罪のために死んで下さった。
それこそ、神が私たちを憐れんでくださり、愛してくださった証拠なのです。
十字架にこそ、私たちに対する神の愛が示されているのです。

【回復のメッセージ】
2:1〜3には、回復のメッセージが書かれています。
イスラエルの人々は、その数を増し
海の砂のようになり
量ることも、数えることもできなくなる。(ホセア2:1)
2:1は、かつてアブラハムが神様と交わした約束を更新するものです。
王家は途絶え、神の憐れみを受けることが出来ず、もはや神の民ではないと言われるに値する者たちに対する回復のメッセージです。
ユダの人々とイスラエルの人々は
ひとつに集められ
一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。(ホセア2:2)
イズレエルという名は、希望の言葉に変えられます。
北イスラエルと南ユダ、かつてひとつの国だったこの2つの国がひとつに集められる約束が与えられているのです。
何によって一つとなるのか?
それはキリストによってです。
キリストは私たちの平和なのです。
だから、私たちはこう言うことができます。
あなたたちは兄弟に向かって
「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって
「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。(ホセア2:3)
神様に愛されている者同士が互いに愛し合い、互いに愛を響かせるのです。
その愛は神様から来ているのです。
キリストに愛されたように、私たちは互いに愛し合うのです。
そして、子どもたちの名前から「ロ」という否定語が取り払われています。
彼らはアンミ、ルハマと呼ばれる者になるのです。
神は憐れまれるのです、イスラエルを。
そして、イスラエルを神の民と呼ばれるのです。
私たちはこの「ロ」という否定の言葉を取り除かれたのです。
憐れみを受けるに値しない罪人が、神の憐れみを受ける者とされているのです。
そして、神の罪の奴隷とされていた私たちが、神の民として生きるものへと変えられたのです。

【神の愛に共鳴する生き方】
では、私たちは神に愛されている者、神の憐れみを受け、神の民と呼ばれる者として、
どのように生きれば良いのでしょうか。
ゴメルがホセアから離れていったように、神様から離れていく生き方を神様は喜ばれません。
パウロはこう言っています。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 (ローマの信徒への手紙12:1〜2)
パウロはローマ書で、私たちの救いがどのようなものかを確認した上で、「こういうわけで」と語っています。
こういうわけで、神の憐れみを受け、神の民とされているあなたたちはこのように生きるべきだ、と。
パウロは言います。
この世に倣ってはいけないと。
新改訳ではこの世と「調子を合わせてはいけません」と訳されています。
この世と調子は合わせてはいけない。
そうではなく、神に調子を合わせなさい。
響き渡る神の愛に共鳴しなさい。
この世とではない。
神の愛と共鳴するのです。
憐れまれた者として、神の愛と私たちの愛が共鳴する。
その愛に生き、愛を共鳴させるのです。
そして、神の愛を受け取っていたホセアは言葉だけでなく、行動で預言をしました。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(ローマ12:1)たのです。
ホセアという一人の人間の生き方を通して、神を証ししました。
神の愛がどのようなものなのかを、その生き方で示したのです。
自分自身の姿を通して、私たちは神を証できているでしょうか。
私たちは求めましょう。
「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」(ローマ12:2)なることを。
私たちがすべきなのは、この世と共鳴する自分と、神の愛と共鳴する自分の二重生活ではありません。
私たちの生活のすべてが神の愛に共鳴するのです。
これこそ、私たちのなすべき礼拝なのだから。