しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年6月28日木曜日

説教#16:「喜び溢れる交わりへの招き」


先日、学園教会のペンテコステ礼拝で説教の奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『喜び溢れる交わりへの招き』
聖書 ヨハネの手紙一 1:1〜4
日時 2012年5月27日(日) ペンテコステ礼拝
場所 日本ナザレン教団・学園教会


【生命の言を伝えたい】
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの(Ⅰヨハネ1:1)
ヨハネの第一の手紙はとても印象的なフレーズから始まります。
この手紙は、手紙の中でもかなり異質なものです。
この時代、手紙を書いている人の名前を明らかにして、挨拶文を書くのが一般的な手紙の書き方でした。
しかし、この手紙の著者ヨハネは、どういうわけか自分の名を名乗りません。
読み手にとっては、誰がこの手紙を書いたのだろうか、という疑問が起こります。
しかし、そんなことお構いなしに、
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。(Ⅰヨハネ1:1)
というように、この手紙を始めるのです。
命の言、私はこれをあなたたちに伝えたいのだ。
生命の言とは、キリストの福音のことです。
それは初めからあったものであり、
私たちがこの耳で聞いたものであり、
この目で見たものであり、
よく見て、この手で触れたものなのだ。
自分が信じているキリストの福音について、
この手紙の著者ヨハネは、実に、生き生きと語り始めるのです。

【初めからあったもの】
ヨハネは命の言、つまりキリストの福音について、それは「初めからあったもの」だと語り始めます。
この「初め」という言葉は、ヨハネによる福音書の1章を読み手に思い起こさせます。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)
まるで、手紙の著者がこの手紙の挨拶代わりに、ヨハネによる福音書を読者に思い起こさせているかのようです。
福音書は、キリストを信じていない人が、信じるようになるために書かれたものです。
「イエスは神の子キリストである」(ヨハネ20:31)と声高らかに宣言し、福音書の内容を読者に思い起こさせるのです。
それはまるで、あなたたちの抱いている信仰の「基本を思い起こせ」と言っているかのようです。

【ヨハネ共同体の直面した現実】
しかし、ヨハネはなぜそのように言う必要があったのでしょうか?
それは、この手紙を受け取った、共同体が直面した現実に関係があります。
この手紙の読者は、恐らく異邦人社会の中で生きる、ユダヤ人のキリストを信じる共同体だったと考えられます。
著者ヨハネは、その共同体の牧師のような立場にあったのでしょう。
この共同体はとても過酷な状況下にありました。
当時のユダヤ人社会は、キリストを信じるだけで異端宣告をされたからです。
ヨハネの共同体は、異邦人社会の中で生きていました。
異邦人社会の中で自分たちの信仰を保つだけでも、大変なことでした。
その上、彼らは同胞であるユダヤ人の交わりから、キリストを信じているという理由で、追放されてしまったのです。
今まで共に生きてきたユダヤ人たちの交わりから追い出されてしまった。
ヨハネ共同体の人々は、悲しみを抱えていました。

【にせ教師たちがもたらした混乱】
そのような中で、新たな問題が起こったのです。
ヨハネ共同体の中に、にせ教師たちが現れたのです。
彼らは、キリストが人としてこの世に来られたことを否定しました。
そればかりでなく、彼らは自分たちは他の人々より高い知識を持っている、
特別な信仰の知識を持っていると言って高ぶっていました。
彼らの考えは、教会がその「初めから」抱いてきた信仰を歪めるものでした。
彼らは自分たちと同じ考えを持たない人や、
自分の目から見て相応しくない人たちを見下していました。
そこに、同じ共同体に集う人々へ対する愛はありませんでした。
愛していると口では言いながら、同時に、人を見下していたのです。
実に冷たい愛です。
いえ、彼らが抱いたものは、愛とは程遠いものでした。
この手紙に記されていないので、私たちは詳しい事情を知ることはできませんが、
最終的にそのような考えを抱いたにせ教師たちはヨハネ共同体から出て行きました。
しかし、共同体に残った人々は、にせ教師たちとの関わりの中で、
戸惑い、心が揺れ動き、不安と悲しみ、そして痛みを抱えました。
このような出来事を経験し、痛み、悲しみ、混乱を覚えている共同体に対して、ヨハネがこの手紙を書き送ったのです。
私がかつて福音書を通して伝えたキリストの福音を思い出して欲しい。
私たちが何を信じているのかを。
私たちキリストを信じる者たちの交わりとは、どのようなものなのかを。

【福音のリアリティ】
ヨハネは、この痛み、悲しみ、混乱を覚えている共同体に対し、
自分たちが受け取っているものである命の言を思い起こさせます。
この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。(Ⅰヨハネ1:2)
そう、ヨハネは言っています。
この命は私たちの内に確かに現れたではないか。
キリストは、観念上のものでも、抽象的な理念でもない。
彼は確かに人となってこの世に、そう、私たちの内に来られたのだ。
私たちは聞き、よく見て、触れたではないか。
彼の教えを聞いたではないか。
彼が十字架に架けられ、苦しんだ。その姿を見たではないか。
私たちの罪を背負い、あのゴルゴタの丘で、十字架に架けられたキリストを。
私の罪が、彼の腕に釘を刺し、彼を苦しめた。
彼は私のすべての罪を背負われ、死なれた。
そして、復活された主イエスに触れたではないか。
自分を見捨てて、逃げ出した弟子たちを、
彼は赦され、そしてその腕で優しく包み込まれた。
私たちは、彼のその愛に触れたではないか。
神は、独り子さえ惜しまずに与えられるほどに、私たちを愛してくださったのだ。
キリストを通して、私たちは神の愛を知り、確かに感じたではないか。

ヨハネはにせ教師たちの考えに真正面から向かい合って、
自分たちに与えられている信仰を思い起こさせるのです。
そして、ヨハネは高らかに宣言しています。
この方によって、イエス・キリストによって、
私たちには永遠の命が与えられているのです。
永遠の命とは、父なる神とその子イエス・キリストと交わりをもつことです。
この交わりが既に与えられている、と伝えているのです。
それだけではありません。
ヨハネにとって、この交わりは「私たちの」交わりなのです。
神との交わりに根ざして、私たち、つまりキリストを信じる兄弟姉妹たちとの交わりがあるのだといっているのです。

【交わりと喜び】
3〜4節で、ヨハネはこの手紙を書いた目的も明らかにしています。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。…わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。(Ⅰヨハネ1:3〜4)
この手紙はにせ教師たちの考えに反論する為だけに書かれたのではありません。
ヨハネがこの手紙を書いた目的とは、交わりと喜びでした。
痛みと苦しみの中にある、この共同体に集う人々が、
再び、キリストにある交わりとその交わりに生きる喜びに溢れるようになることを願ったのです。
愛してやまないこの群れに集う一人一人が、
今自分が抱いている信仰に確信を持って生きて欲しいと願ったのです。
そして、神を信じる者たちの交わりの中で、互いに愛し合い、喜びに溢れて欲しいと。

【互いに愛し合う、喜び溢れる交わり】
ここで、ヨハネがこの手紙の冒頭で語ったことの理由が明らかになります。
…わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの…(Ⅰヨハネ1:1)
そう、この交わりこそ、私たちの五感で感じることができるものなのです。
キリストの福音を受け入れた私たちの交わり、
それこそ、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものなのです。
ヨハネは3章でこう言っています。
子たちよ。言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう(Ⅰヨハネ3:18)
言葉や口先だけでなく、行いをもって愛し合うとき、
愛は私たちの耳に聞こえ、目で見えて、手で触れることができるものとなるのです。
私たちに与えられた命の言、つまり、この福音とは、
決して、血の通わない、冷えきったものではありません。
それは、神から愛されているというしるしです。
この命の言を受け取っている交わりが、喜びに溢れないわけがありません。
神から愛されているように、私たちは互いに愛し合うのです。
この命の言を信じる人々の交わりの中で、私たちが愛し合うとき、
互いに愛し合う兄弟姉妹を通して、私たちは知り、そして実感するのです。
愛し合う時、私たちは喜びに溢れます。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:11〜12)
私たちは互いに愛し合いましょう。
キリストがまず私たちを愛してくださったのだから。
彼は、ののしられ、傷付けられながらも、最後まで私たちを愛してくださったのだから。

【喜び溢れる交わりへの招き】
今日はペンテコステ、教会の誕生日ともいわれる日です。
イエス様はこう言われました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒言行録1:8)
そう、キリストにあって互いに愛し合う交わりにおいて、溢れるこの喜びが、
エルサレム、ユダヤ、サマリアの全土、そして地の果てに至るまで広がっていくのです。
その始まりの時として、教会が産声をあげました。
今、命の言が私たちのもとに届けられています。
そして、それを受け取った私たちは交わりへと招かれています。
その交わりとは、互いに愛し合う、喜び溢れる交わりです。
今日、私たちはこのことを共に喜び、感謝しましょう。

そして、この交わりは決して内向きであってはいけません。
ヨハネはこう言っています。
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。(Ⅰヨハネ1:3)
この手紙を読んだ人々に対して、自分たちのこの交わりへ招いているのです。
私たちは与えられている喜びを、自分たちだけで楽しむべきではありません。
命の言が与えられている私たちの交わりは、喜びが溢れ出ているのですから。
この耳で聞こえて、この目で見えて、手で触れる、愛がそこにあるのですから、溢れでているのですから、
地の果てまで、私たちはこの喜びを共に伝えに行きましょう。
互いに傷つけあう世の中に対し、キリストの愛を伝える証人となるのです。
互いに愛し合う、喜び溢れる交わりへ招くのです。
命の言葉を携えて私たちはこの世へと出て行きましょう。
共に祈りましょう。