しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年7月20日金曜日

説教#16:「キリスト者のアイデンティティ」


先日、青葉台教会のユース礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
*今回は新改訳聖書第三版を使用

『キリスト者のアイデンティティ』
聖書 創世記12:8、ローマ人への手紙12:1〜2
日時 2012年7月8日(日) ユース礼拝
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会



【礼拝とは?】
毎週のように私たちはこの教会に集い、神様を礼拝しています。
旧約聖書、そして新約聖書の時代から、同じ神様の前に人々は集い、礼拝をしています。
なぜ、私たちは礼拝をするのでしょうか。
そして、みんなにとって、礼拝とはどのようなものでしょうか。

【神の憐れみのゆえ】
今日の聖書箇所で、手紙の著者パウロは礼拝について語っています。
パウロは言います。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)
パウロはこの命令をする前に、「そういうわけですから…神のあわれみのゆえに…お願いします」(12:1)と書いています。
パウロはこの箇所に辿り着くまで、11章もかけて、
私たちクリスチャンに与えられている救いがどのようなものなのかということを書いています。
そして、この神に愛され、恵みによって救われている私たちクリスチャンが、
どのように生きればいいのか、ということを12章以降でパウロは語るのです。
手紙の前半で何を信じているのかについて語り、後半でクリスチャンの倫理観を語る。
この順序はとても重要です。
私たちは何か良いことをしたから、神様に救われたというわけではないからです。
神様が私たちを憐れんでくださって、私たちを愛してくださったのです。
私たち自身の行いが私たち自身を救うのではありません。
神の憐れみによって、私たちは神様に愛され、救われているのです。
だから、神に愛されている者としてどう生きるかを考えるのです。
そのようなわけで、パウロは「神のあわれみのゆえに」読者に願っているのです。

【礼拝はキリスト者のアイデンティティ】
パウロが倫理的な面を取り扱う上で、一番最初に語ったのは、礼拝についてでした。
他のどんなことよりも優先して、礼拝についてパウロは語っています。
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い」(12:10)なさいとか、
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(12:15)とか、
「絶えず祈りに励みなさい」(12:12)といったような命令よりも前に、
パウロは礼拝について語るのです。
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)
「それでは、救われた者はどう生きるべきか?」という問いに対して、
パウロが最も重要だと考えるのが礼拝でした。
しかし、なぜ、これほどまでにパウロは礼拝を強調しているのでしょうか。

私たちの内には、自分自身の内に根深く巣食う罪があります。
罪を抱える私たちは、神を必要とせず、神を否定し、自分を神とする、自己を絶対化して生きる生き方を好みます。
人を自分の都合に合わせて愛する。
いや、人を愛することより、人を利用することを得意とします。
私たちの内に巣食う罪は、私たちを罪の奴隷とし、時に現実逃避させ、私たちの心を麻痺させます。
自分の罪に気付けば気付くほど、神の救いを受けるに値しない者だということに気付かされ、絶望します。
しかし、私たちは神様の憐れみによって、恵みによって、救われているのです。
神様は罪のないイエス様を十字架に架けて、私たちの罪を許してくださいました。
そこにあるのは、神様の一方的な愛です。
礼拝とは何か?という問いに答える時、何よりもまず第一に、神様への感謝が礼拝だということができます。
神の一方的な憐れみによって、私たちは救われた。
その事実に対する感謝が礼拝の本質です。
今日一緒に開いた創世記12:8で、アブラハムも祭壇を築いて、神様に礼拝をささげています。
彼は旅で赴くその先々で礼拝をしました。
神様が自分たちと共に歩んでくださることを覚えて、感謝をささげたのです。
私たちもアブラハムと同じように、礼拝を通して、神様に感謝をささげるのです。
そして、この一週間の旅路を歩んでいくのです。
礼拝を通して、私たちは自分たちが神に憐れまれ、恵みによって救われた「神の民」、「神の礼拝の民」であるということを確認するのです。
そういう意味で、礼拝こそ、キリスト者のアイデンティティなのです。
礼拝を通して、私たちは自分が何者なのかを知るのです。

【私たちの生活のすべてが神への礼拝】
パウロは、そこから更に踏み込みます。
これは私たちの礼拝観、礼拝の考え方を革命的に変えるような言葉です。
パウロにとって、礼拝とは「からだをささげること」なのです。
それは、私たちの信仰は心や魂だけの問題ではないということを意味しています。
神を礼拝するということは、このからだをささげること、
「私」という一人の人間をささげることなのです。
それは、礼拝は教会でのみ行うものではない、という事を意味しています。
私が行くところ、どこにおいても、神を礼拝することが求められているのです。
「からだ」が関わっているすべての事柄を神様にささげるのです。
つまりそれは、この「からだ」を使って行うすべてのことです。
話すこと、食べること、飲むこと、働くこと、遊ぶこと、考えること、眠ること、笑うこと、怒ること、泣くこと、
そうした私たちの生き方のすべてに関わる事柄を通して神を礼拝するように求められているのです。
パウロはこのからだについて「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(ローマ12:1)と言っています。
話すこと、食べること、飲むこと、働くこと、遊ぶこと、考えること、眠ること、笑うこと、怒ること、泣くこと、
そうした私たちの生き方のすべてに関わる事柄、そのすべてを、
神に喜ばれるように用いるように求められているのです。
コリント人への第一の手紙10:31にはこう書かれています。
あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)
パウロにとって、これが霊的な礼拝なのです。
この霊的な礼拝とは、筋の通った礼拝とも訳すことができます。
クリスチャンとして、神に愛された者として、筋の通った礼拝なのです。
クリスチャンとして、すべての場所において、すべてのことにおいて、神を礼拝することこそが、筋の通った礼拝なのです。
私たちは問われます。
私たちの日々の生活は、神に喜ばれるものでしょうか。
私たちの日々の生活は、神の前に聖い生活なのでしょうか。
私たちの日々の生活は、神の前に生きた供え物としてささげることができるものなのでしょうか。
神様は教会でだけでなく、私たちが行くところどこにおいても、礼拝をするように願っておられます。
私たちはあの学校で神を礼拝できているのでしょうか。
勉強をしながら、礼拝できているでしょうか。
あのバイト先で、お皿を洗いながら礼拝をできているのでしょうか。
いつも帰るあの家で礼拝をできているのでしょうか。
そして、私たちが関わるすべての事においても、礼拝をするように願っておられます。
私たち自身を神様の前に差し出して欲しいと。
私たち自身のからだは、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物となっているのでしょうか。

【この世と調子を合わせやすい自分】
ここでひとつの疑問が沸くでしょう。
では、自分の生活すべてで神を礼拝することが私たちに求められているのならば、
敢えて日曜日に教会に来て礼拝する意味はないのではないか、という疑問が沸くかもしれません。
パウロ風に言うならば、絶対そんなことはありません。
そう、決してそんなことはない。
この世と調子を合わせてはいけません。(ローマ12:2)
とパウロが言うのは、私たちはこの世と同調しやすい体質があるからです。
この世の中は、こう主張しています。
「人生における正しい姿勢とはあらゆるすべてのものから何かを得ることである」と。
そう、この世界は貪りで満ちています。
少しでも、少しでも自分にとって良い物を手に入れようと、貪り続けるのです。
まだ満たされない、まだ満たされないと叫び続けるのです。
そして、自分の益とはならないものは、切り捨てていくのです。
この考えが、少しずつ少しずつ、自分の内に浸透してはないでしょうか。
いや、私たちは気づかぬ内に、そのような価値観にどっぷりと浸かっているのかもしれません。
そして、まわりの人達とはGive and Takeの関係を築いていきます。
心のどこかで、すべてのことに対して見返りを求めている自分がいます。
見返りを求める愛。
それが私たちと神様との関係に入り込んでくる時、私たちは神様と取引をしようとしだします。
自分のニーズに応じて、教会や礼拝に関わるような意識や行動が、知らず知らずの内に、染み付いていくのです。
この世と調子を合わせる時、私たちの日々の礼拝が少しずつ、少しずつおかしなものとなっていくのでしょう。
だからこそ、私たちは主日礼拝を通して、原点へ帰る必要があるのです。
私たちは神に愛されている。
その感謝をもつ者へと、礼拝を通して私たちは回復されていくのです。
本来あるべき、人間の姿に。
だから、主日礼拝は、神を信じる者に原点として備えられた恵みの贈り物なのです。
そして、本来の私たち自身を取り戻すための恵みのときなのです。
この礼拝を通して、変えられた私が、日常でも礼拝するのです。
あくまでこの礼拝で受け取っていくものを元に、私たちは日常で礼拝をささげていくのです。
この世と調子を合わせるのではなく、神に愛されている者として、神に喜ばれるように生きる。
そのことを通して、私たちは周囲の人々に福音を伝えるのです。

【神のみこころを求める】
続けて、パウロはもっともっと積極的な命令をしています。
いや、むしろ、神のみこころは何か…をわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)
心の一新によって、自分を変えなさい。
神によって変えられることを願うと共に、私自身を神様の前に差し出していくのです。
それは私たちが神のみこころを知るためです。
私たちの日々の礼拝において、神様のみこころを求めていくのです。
神のみこころとは何か。
それは、神様に対して何が良いことか、何が神様に喜ばれることか、
何が神様の前で完全なことなのか、ということを識別できるようになるためです。
だから、心の一新によって自分を変えなさい、とパウロは強く願うのです。
私たちは心が新しく作り変えられる必要があるのです。
そうすることによって、私たちの礼拝がより相応しいものへと変えられていくのです。

正直、そんなの無理だ。と思うことがあると思います。
実際、すぐにすべて完全となって生きられるわけではありません。
少しずつ、少しずつ、神様に変えられていくのが、私たちの人生の歩みなのでしょう。
私たちが神様にあって、変えられていくその過程において、
私たちは自分が神様によって変えられたということに気付きます。
変えられていくその自分の姿に気付く時、私たちは神に感謝をささげるのです。
だから、私たちが少しずつ、少しずつ変えられていくその過程も、神への礼拝なのです。
それが私たちの日々の礼拝です。
願わくば、私たち一人ひとりが、どんな時も、どんな場所においても、
神のみこころを求めて、神に受け入れられる、
聖い、生きた供え物として、自らをささげることができますように。
それこそ、私たちの霊的な礼拝なのですから。