しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2012年8月11日土曜日

説教#18:「ひとつの大きな変化」

先日、広島教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。

『ひとつの大きな変化』
聖書 ヨハネによる福音書2:1〜11
日時 2012年8月5日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・広島教会

【ぶどう酒の必要性】
今日開かれた、カナの婚礼の記事にはひとつの大きな変化があります。
水がぶどう酒に変えられた、という変化です。
2:3にある、「ぶどう酒がなくなりました」という、イエス様の母マリアの言葉で、読者である私たちはこの結婚式で事件が起きたことを知ります。
当時のユダヤ人の結婚式は、一日以上の時間を掛けて行われるのが普通でした。
結婚したふたりは、一週間自分たちの家を解放し、多くの人を呼びます。
そこで王と王妃のように振る舞うことが許されたのでした。
貧困と重労働の連続であった人生において、お祝いと喜びに溢れるこの1週間は、
人生における最上のときのひとつでした。
そのような喜びの席で、結婚するふたりは結婚式に来てきてくれた人々に食事と飲み物を用意したのです。
これが当時のユダヤ人たちの習慣でした。
もしも、この用意した食事や飲み物を切らしてしまったら、
結婚するふたりにとって、この結婚式は一生の恥になってしまったのです。
人生における最上の時が、食物や飲み物を切らすだけで、最悪のものになってしまったのです。
だから、母マリアの「ぶどう酒がなくなりました」という言葉には、危機感と焦りが伴うものだったのです。
一生の思い出となる、喜ばしい席だからこそ、どうにかして、この事態は避けなければならない。
結婚するふたりを救うために、ぶどう酒がどうしても必要だったのです。

【イエスの方法】
そのような状況から彼らを救い出すため、
イエス様の取られた方法は、水がめを水で満たすことでした。
イエス様は、こう言われました。
「水がめに水をいっぱい入れなさい」(ヨハネによる福音書2:7)
「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(ヨハネによる福音書2:8)
この2つの命令を通して、イエス様は水をぶどう酒へと変えられました。
必要としていたぶどう酒は与えられ、無事に結婚式を終えることができたのです。
しかし、イエス様は、結婚するふたりを救い出すためだけに、この奇蹟を起こされたのではありません。
11節にあるように、この奇蹟は「最初のしるし」として行われました。
しるし。
それは、イエス様の栄光と人々の救いのために示された、驚くべき愛です。
ぶどう酒とは、イエス様が私たちの罪のために、十字架上で流された血を指し示すものです。
そう、十字架の上で流されたキリストの血によって、私たちは罪赦されたのです。
この血によって、私たちの罪は洗い清められたのです。
私たちにとって、どうしても必要なものが、この血だったのです。

【私の時はまだ来ていない】
「このしるしは、十字架に示された神の愛を指し示すものである」ということを、私たちが知る時、2:4のイエス様の言葉の意味が明らかになります。
そこにはこう書かれています。
イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネによる福音書2:4)
「わたしの時」。
それはイエス様が十字架に架かる時のことです。
「私が十字架に架かるときはまだ来ていません」ということをイエス様はこの時言ったのです。
イエス様は自分が十字架に架かるときはまだ来ていないという事を伝える時に、なぜ母マリアに「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と言ったのでしょうか。
このとき、イエス様は「婦人よ」と呼びかけることによって、母マリアとの間に距離をおいています。
親子関係という、人間的な結びつきに距離をとるのです。
自分の母親が頼んできたから、それに応えるために奇蹟を起こしたのではありません。
そう、イエス様は親子関係をこの奇蹟を起こした理由にはしなかったのです。
もちろん、このしるしが指し示す十字架も、親子関係が理由ではありません。
その理由はただ愛のみです。
イエス様は、イエス様自身が私達を愛したから、この奇蹟を起こされたのです。
神が私達を愛されているから、この奇蹟を起こされたのです。
ここにあるのは、私達に対する神の一方的な愛なのです。
「わたしの時はまだ来ていません」とイエス様は言うことによって、
私達の目を、私達の救いのために神が計画された十字架へと向けさせるのです。

【溢れる神の愛】
さて、この結婚式の裏でこのような事があったのを知っていたのは、きっと、ほんの僅かの人だったことでしょう。
婚礼に出席しているだけの人は、この場所で起こったこの大きな変化には気付きませんでした。
そう、多くの人にはわからなかったけども、確かに大きな変化はありました。
水がぶどう酒へと変えられたのです。
それも、良質なぶどう酒に。
世話役はこのぶどう酒を飲んだ時、こう言いました。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネによる福音書2:10)
この水がぶどう酒に変わったことを目撃していない世話役をうならせるほどのぶどう酒へと変えられたのです。
水を入れた水がめは約80リットル、もしくは120リットルのものでした。
それが6つもあったということは、きっとたくさんのぶどう酒が余ったことでしょう。
すべて飲み切れないほどのぶどう酒があったのです。
足りないと言っていたのにも関わらず、十分に満たされたのです。
イエス様はマリアの「ぶどう酒がありません」という言葉を聞いた時、
きっと人々の内にある、飢え渇きを見つめたのだと思います。
私達の内にある愛に対する飢え渇きを見つめたのです。
愛されたい、愛されたい。
そうしきりに思うのに、愛されない。
いや、愛されたいと心から願っているのに、自分は人を愛せない。
そんな現実が私達にはあります。
結婚式は神と人との前で愛を誓い合う時です。
この時、互いに愛を誓い合う結婚式の場で聞いた、母マリアの「ぶどう酒が足りません」という言葉に、
イエス様は人々の心の内にある愛への欠乏を重ね合わせたのでしょう。
このように愛に飢え渇く私達の内に、イエス様は確かに、愛を注いでくださっています。
この婚礼の席に与えられたぶどう酒があり余って、汲みきれなかったほどに、
その愛は私たちの内に溢れます。
その愛は溢れるほどのものなのです。
十字架を通して、御自分の命を差し出されるほどのものだったのですから。
そこに神の愛が示されているのです。
キリストの十字架。ここに愛がある(ヨハネの手紙一4:10)のです。

【常に主を覚えてあなたの道を歩け】
イエス様と出会い、十字架に示されたこの愛を知るとき、私達の内に変化が与えられます。
水がぶどう酒に変わるような大きな変化です。
キリストを信じるすべての者に与えられている一番の大きな変化は、
私たちが罪の奴隷から神の子どもとされた、ということです。
ヨハネは1:12でこのように書いています。
その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハネによる福音書1:12)
このような大きな変化があったにも関わらず、
私たちはすべての場所、すべての時において、イエス様を受け入れることを拒んだりします。
教会ではイエス様と共に歩むことができるけど、それは家庭では難しい。
家庭ではイエス様と共に歩むことができるけど、働いているときはそんなの無理だ。
学校や職場にいるときはイエス様と共に歩むことはできるけど、あの人といるときだけは難しい。
という具合に、積極的にイエス様を拒むことはしないけども、
結果的にはイエス様を拒んでいる歩みをしていることもあります。
イエス様と出会った時、水とぶどう酒に変わるような大きな変化があったにも関わらず、
すべての場所、すべての時において、イエス様と歩むのを拒むのです。
なぜ、私たちは「常に主を覚えてあなたの道を歩け」(箴言3:6)という主の命令に従って、生きることが出来ないのでしょうか。
それは、キリストと共に歩むのではなく、自分のために、自分の行きたい方向へ歩むことを好む、私達の内にある罪がそのようにさせるのです。
だから、私たちは願いましょう。
すべての時、すべての場所において、イエス様を受け入れて、歩むことができるように。
そして、イエス様を受け入れる時、私たちの内で、確かに水がぶどう酒に変えられるような大きな変化が与えられることを信じましょう。

【主イエスと出会う時に与えられる、大きな変化】
婚礼の世話役は知りませんでした。
このぶどう酒がどこから来たのかを。
しかし、召使いたちと母マリア、そして弟子たちは知っていました。
このぶどう酒がどこから来たのかを。
そして、結婚した二人の救いがイエスから来たことを。
そう、カナの婚礼の奇跡によって示されているように、
私達の救いは主イエスから来るのです。
私達がどこにいようとも、水がぶどう酒に変えられるような変化が起こされるのです。
私たちはその変化の目撃者です。
私たちは、主イエスに出会って変えられた自分自身の目撃者です。
そして、主イエスに変えられ、共に教会に集っている人々を目撃しています。
この変化は、その変化の起こる瞬間を目撃していない人にも感嘆の声を上げさせます。
世話役が「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(2:10)と言ったように。
それほど大きな変化をイエス様は私達に与えようとされています。
だから、私たちはあらゆる時、あらゆる場所で、イエス様と出会わなければなりません。
私達の救い主、イエス・キリストに。
マリアのように、主の前に進み出るのです。
「ぶどう酒がなくなりました」(2:3)と言って。
私たちは神の前に祈り求めましょう。
私達が行く先々で愛の欠乏を感じる時、主の前に進み出て、祈るのです。
主よ、この場所には人々の愛が足りません、と。
いや、欠乏を感じるときだけではありません。
私達が人と関わる時、彼に対する愛を失っていることに気づいた時、主の前に進み出て、祈るのです。
主よ、私には愛がありません、と。
「主の祈り」で祈っていることを、絶えず祈るのです。
主よ、みこころが天で行われるように、この地上でも行われますように。日々必要な糧を今日も与えてください、と。
私達が主イエスとあらゆる時、あらゆる場所で、出会う時、
確かに主は私達の日常において、水をぶどう酒へと変える変化を起こされるはずです。
願わくば、私たちが主イエスの力に信頼し、
すべての場所において主イエスを受け入れることができますように。
そのとき、確かに私たちの内で大きな変化が起こされますのです。
水がぶどう酒に変えられたように。