しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2013年1月14日月曜日

説教#20:「『きょう』、私たちは神の声を聞いて生きる」


昨日、青葉台教会のユース礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
*今回は新改訳聖書第三版を使用。

『「きょう」、私たちは神の声を聞いて生きる』
聖書 ヘブル人への手紙3:7〜15
日時 2013年1月13日(日) ユース礼拝
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会


【新しき年ごとにする決心】
2012年という1年は過ぎ去り、
2013年という新しい年が始まってから、もうすぐ2週間が経とうとしています。
それぞれ、どんな思いを抱きながら、一年間過ごしてきたでしょうか。
嬉しいことも、悲しいこともあったでしょう。
自分の計画通りに出来たことも、出来なかったこともあったことでしょう。
もしかしたら、計画通りに出来なかったと思うことの方が多いかもしれません。
だからこそ、新しい年を迎える度に、私たちはこう思うのでしょう。
「今年こそは…。この1年こそは…!」と。
事実、思いを新たにして歩み出すのに、1年の始まりは絶好の機会です。
しかし、私たち人間の決意というものは、時に、実に弱々しくなります。
忙しさに追われたり、
思いがけない悲しいことがあって心を奪われたり、
自分の怠けっぷりに負けたりして、
気付けば、自分の決心がまったく意味のないものになってしまう時もあるでしょう。
今日は面倒だから「明日から」、いや「来週から」。
ちょっと最近は忙しいから「来月から」、いや「来年から」、と言った具合に。
決心は揺らぎ、その時々の自分の思いに簡単に流されてしまったり、
するべきことを先延ばし、先延ばしにするときが何と多いことでしょうか。

【「きょう」と言われる日に神の御声を聞け!】
今日、私たちに与えられたテキストは、私たちにこう語り掛けてきます。
「きょう、もし御声を聞くならば、
 荒野での試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。…」(ヘブル3:7〜8)
ヘブル人への手紙の著者は、徹底的に「きょう」に拘っています。
大切なのは、「きょう」なのだ、と。
彼の言う「きょう」とは、カレンダー上での「今日」ではありません。
彼は、私たち人間が経験している「今」という現在の時を指して、「きょう」と言っているのです。
著者にとって、「きょう」という日は、信仰にとって決定的な瞬間を指している言葉なのです。
あなたたちが今する決断は、あなたたちの信仰に関わってくるのだ!
だから、今、今日、この時に、あなたたちは神の声を聞くのだ!
と、非常に切迫した言い方で、私たちに語りかけているのです。
「御声」つまり、神の声を聞くということについて、
著者の頭の中には、昨日も、明日もないのです。
彼にとって、毎日が、「きょう」という日が、私たち人間にとって重要な時なのです。
私たちは問い掛けられています。
今、この時、あなたは神の声を聞いているのか、と。

【私たちの基準は何か?】
私たちはこの問いを通して、
今、この時に、神の声を聞いているか、どうかが問われています。
しかし、問われているのは、それだけではありません。
「きょう」という日に神の声を聞く時、あなたはどのように生きるのか、と問われているのです。
「きょう、もし御声を聞くならば、
 荒野での試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。…」(ヘブル3:7〜8)
この言葉を通して、私たちは生き方そのものが問われるのです。
一体何を自分の生き方の、判断基準としているのか、と。
何を自分の基準とするかで、私たちは生き方そのものが変わってきます。
たとえば、自分が他人からどう見られているかが気になって、人に合わせて生きる。
他人を基準とした生き方です。
しかし、このような生き方は、付き合う人や人の考えが変われば、基準が変わってしまいます。
また、目の前の事柄が、自分にとってどれだけ得なのか。それとも、損なのか。
と、損得勘定で生きる生き方。
自分にとって必要のないものは切り捨てていく、愛の欠けた悲しい生き方です。
しかし、そのような基準は、誰の内にもあります。
自分の人生だ、自分の生きたいように生きればいいじゃないか。
そんな声が私たちの内から沸き起こってくるのです。

【神の声を聞いて生きよ!〜心をかたくなにしてはならない】
このような声に従って、神の声に従わずに生きる生き方を、
著者は「心をかたくなにして」(3:8)いると言っています。
その姿はまるで、旧約聖書の時代、エジプトを出て荒野を彷徨い歩いていたイスラエルの人々のようだ、と。
イスラエル人は、神がカナンの地を与えるという約束を信じて、荒野を旅していました。
しかし、彼らはその旅の途中で、神を「試みて証拠を求め」(3:9)るのです。
神の声を信じきれず、疑うのです。
エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。(出エジプト14:11)
飢えや渇きで苦しむ時、彼らはこう叫びました。
「ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚(うお)を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」(民数記11:4〜6)
そうやって、神の約束を信じきれず、不満が彼らの心を支配したのです。
そして、証拠を求めたのです。
神が自分たちを見捨てていない証拠を見せてみろ、と。
神がイスラエル人を養っているという、愛のしるしであるマナが目の前にあったにも関わらず、彼らは証拠を求め続けたのです。
このように、イスラエル人たちは「心をかたくなにして」いたのです。
彼らは、自分の今経験している現実が厳しいから、
神の言葉を信じないで、自分の目を信じました。
神が私たちに語り掛ける声は、私たちに対する愛に満ちたものです。
私たちを愛しているから、神は私たちに語り掛けておられるのです。
私はあなたを愛している。
だから、私はあなたに語り掛け、
あなたを約束の地へと導こうとしているのだ、と。
しかし、この愛で溢れる神の言葉を信じないで、彼らは自分の目を信じました。
神の約束が実現しない、と。
神は自分たちをカナンの地へ連れて行くつもりなどないんじゃないか、と。
そう、彼らは神の声を聞いて生きることができなかったのです。
神が約束してくださった時を待てなかったのです。
「心をかたくなに」した彼らの生き方は、「常に心が迷い」、「神の道を認めない」ものでした(3:10)。
著者は言います。
そうではなく、神の声を聞いて、それに従って生きよ!と。
私たちに対する愛に満ち溢れた、この神の言葉こそ、私たちの生き方の基準なのです。

【待つ時間】
さて、私たちが「きょう」という日を生きる時、「待つ」ことが強いられます。
正直、「待つ」時が一番辛い時でしょう。
決断をするときは興奮と感激があります。
また、目的を達成したときには栄光と満足があります。
しかし、その中間の期間は何も起こっていないように思える時があります。
この時にこそ、私たちの信仰が試されるのです。
私たちが神の声を聞き続けることが出来ているかが。
そして、何も変化のないように見えるかもしれないけど、
確かにそこに神が働かれると信じて、神の声に従う。
そのような生き方が出来ているかどうかが問われるのです。
しかし、私たちはそんなに強くありません。
簡単に、心をかたくなにします。
目の前に見える現実に圧倒され、
神の約束を信じることができなくなってしまうときがあるのです。

【「きょう」、互いに励まし合い、神の声を共に聞く交わり】
だから、12節以降で、このように勧められています。
兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。(ヘブル3:12〜14)
「きょう」という、私たちの信仰が問われ続けているこの毎日において、
互いに励まし合いなさい!
神の声を聞き続けよう!
神の言葉を、神の約束を信じ続けよう!
神の言葉を握りしめて、神の声に従った歩みをすることができるように、お互いに祈り合おう!
そうやって、互いに励まし合いなさい!
著者は切実に私たちに訴えています。
それは明日や明後日ではいけないのです。
昨日やったからいいや、ではないのです。
まして、来月から、来年からという思いであってもいけないのです。
「きょう」、今、この時に求められているのです。
あなたたちは、きょう、互いに励まし合いなさい!と。
そんな交わりが私たちのこの教会において、形成されていくことを願って行きましょう。
特に、ユースの私たちは変化の多いときを過ごしています。
大学まで進むならば、3年毎に環境は大きく変わります。
そして、やがて訪れる就職や結婚。
この変化には相応しい時を待つことが伴っています。
進学、就職、結婚。
どれもその時が来るのを待ち続けるものです。
私自身、今後10年でこれらの大きな変化を経験すると思います。
今待っているのは、あと約1年後に迫った神学校の卒業、
そして牧師として何処かの教会へ遣わされていく時です。
この変化はわかっていてもすぐには訪れません。
待ち続けるのです。その日が来るまで。
この待ち続ける時が、「きょう」という日です。
この時に向かって歩むとき、自分の信仰が問われてきます。
「きょう」という毎日において、神の声を聞き続けているかを。
その声に従って生きているかを。
しかし、時に私たちの心は弱ります。
ひとりで待ち続けることはとても困難なことです。
だから、私たちは互いに励まし合うのです。
神の声を聞き続け、
神の言葉を、神の約束を信じ続けるのです。
神の言葉を握りしめて、神の声に従った歩みをすることができるように、お互いに祈り合うのです。
そうやって、互いに励まし合うのです。
やがてやってくる大きな変化を、喜びに溢れて待ち続けることができるように。
信仰をもって乗り越えていけるように。

【「きょう」、一歩一歩神の約束へと近付いて行く歩み】
さて、イスラエルの人々は、神の約束したカナンの地に、最終的にたどり着くことが出来ました。
神を疑い、試み、証拠を求めた彼らでしたが、
40年の時を通して、罪の奴隷から神の民へと変えられて行きました。
そして、最終的にはその時を待ち望み、「きょう」という日に、神の言葉を聞き続けて歩んだのです。
そうやって、一歩一歩、少しずつ約束の地へと近づいて行ったのです。
待っている時、この目には何の変化も映らないかもしれません。
しかし、確かに、一歩一歩、その約束の実現に向かって歩んでいるのです。
だから、私たちも神に信頼して、神の声に聞きしたがって生きていこうではありませんか。
神の声を聞き、神の声に従って生きる者として、
私たちは「きょう」という日をどのように生きるべきでしょうか。
そう、互いに励まし合いながら、歩んで行きましょう。
最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、
私たちは、キリストの約束にあずかる者となるのです(3:14)から。
「きょう、もし御声を聞くならば、
 荒野での試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。…」(ヘブル3:7〜8)