しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2013年2月10日日曜日

説教#21:「私たちの見つめる先にあるもの」


今日、青葉台教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
*原稿、及び音源は青葉台教会のwebページにも掲載されています

『私たちの見つめる先にあるもの』
聖書 ヘブライ人への手紙12:1〜3
日時 2013年2月10日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・青葉台教会

【疲れを覚える日常】
「あなたは一体何を見つめて歩んでいるのか」
今日のテキストは私たちにこのように語り掛けています。
私たちは、様々なものをこの目で見ています。
そして日々、この目に映る物事に喜びを感じたり、悲しみや憤りを感じたりします。
それらの物事をただ見るだけでは済まず、私たちが実際にそこに関わっていかなければいけないときも数多くあります。
私たちが関わる多くのことに戦いがあるのです。
目に映る現実に、目の前にある戦いに、私たちは疲れを覚えることがあります。
自分の理想通りに生きられない。
神の愛が実現されない身の周りの環境。
神が喜ぶように歩めず、かえってしたくないことをしてしまう自分自身。
そして、人々が憎しみ合う現実。
私たちはこの目に映る現実に疲れを覚えることが何と多いことでしょうか。

【疲れを覚える人々への励まし】
ヘブライ人への手紙が書かれた当時、この手紙を読んだ人々は疲れを覚えていました。
現実の物事にいくら関わっても、物事が良い方向に進まない。
いくら頑張っても、何も変わっているように思えない。
かつて喜んでキリストを信じたが、今は信仰を持って生きることがとても辛く感じる。
このように、彼らは信仰を持って生きることに疲れを覚えていたのです。
だから、彼らの現状を知った手紙の著者は、この手紙を書き送りました。
彼らが疲れ果てて、信仰を失ってしまわないように励ますのです。
彼は決して、このようには言いませんでした。
「君たち、元気を出すんだ。世の中悪いことばかりじゃない。
良いことだってたくさんあるんだ。ほら、物事の明るい面を見つめようじゃないか」と。
著者は真剣に彼らの置かれている状況を受け止めていました。
だから、このようなその場凌ぎの言い方で、人々を励まそうとはしませんでした。
彼はこのように語ります。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ人への手紙12:1〜2)

【ゴールのある競走】
著者は読者が疲れを覚えている毎日を、「競走」と表現しています。
著者に言わせれば、信仰を持って生きるすべての人々は、走っているのです。
走れば、当然のように疲れを覚えます。
しかし、競走に参加する人々は、疲れたからといって簡単に諦めようとはしません。
彼らには目指すべきゴールがあるからです。
もし、この競走を途中で諦めたら、彼らは失望し、最後まで走れなかったことに後悔します。
しかし、最後まで走り切って、ゴールに辿り着いたときには喜びと栄光があるのです。
たとえ、その走っている姿がどんなにかっこ悪い姿だったとしても、
どんなに醜い姿だったとしても、
その走りがどんなに泥臭いものだったとしても、辿り着いた時、喜びに溢れるのです。
そう、この競走は見つめるべきゴールがあるから、走り続けることができるのです。
ゴールにあるものが魅力的なものであればあるほど、そこへと向かって走るこの足を強くするのです。
ゴールで待っているものを思い起こす度に、
疲れた者は力を、勢いを失っている者は大きな力を与えられる(イザヤ40:29)のです。

【私たちが向かうべき場所】
では、私たちにとってのゴールとは一体何なのでしょうか。
著者はこの手紙の11章で向かうべきゴールが何処なのかを既に示しています。
彼は11章で、旧約聖書の時代に神への信仰をもって歩んだ人々について、印象的に、そして力強く語っています。
信仰によって、彼らはこのように生きたのだ、と。
そして、彼らが何処を目指して「自分に定められている競走」を走ったかを伝えるのです。
彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。(ヘブライ人への手紙11:16)
そう、この競走は天の故郷を目指して走るものなのです。
私たちは決してゴールの分からない、ただ疲れるだけの空しい競走をしているのではありません。
しっかりと向かうべき場所が示されているのです。
その上で、著者は人々にこのように語るのです。
自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ人への手紙12:1〜2)
天の故郷におられる主イエスを見つめながら、この競走を走ろうではないか。
私たちの愛するイエス様がそこに待っているのだから。
しっかりと彼を見つめて、彼から目を離さずに走って行こうではないか。
著者はこのように人々に訴え掛けるのです。

【私たちの足に絡みつく罪】
しかし、そうは言ってもイエス様を見つめることができずに、他のことに心奪われることが多くあります。
天の故郷を見つめて歩めない時が何と多いことでしょうか。
「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」走るようにと著者が勧めるように、
私たちは必要以上に多くのものを背負い込んでしまうのです。
多くの重荷を背負い、苦しむ私たちがイエス様を見つめるとき、彼は言われます。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイによる福音書11:28)
そして、何より問題なのが、私たちに絡みつく罪です。
罪は、私たちの足に絡みつき、私たちを苦しめ、自分に失望させ、疲れさせるのです。
自分に絡みついてくる罪を見つめれば見つめるほど、私たちはこの競走を、信仰をもって生きることをやめてしまいたくなるのです。
私たちは様々な罪に苦しみます。
人を愛したいと心では思っているのに、傷付けてしまう。
今あるもので満足できず、まだ足りない、まだ足りないと貪る心がある。
愛の原理で行動するのではなく、憎しみの原理で行動してしまう。
どうしても神が喜ばれるように生きることができない。
どこまでも、どこまでも自己中心に生きようとする自分がいるのです。
これまで犯してきた罪を思い起こす度、その罪が絡みつき、私たちは苦しみ、呻き、叫びます。

【主イエスの忍耐〜苦難の先に望みを見つめる】
私たちはこの罪の問題に直面するときにこそ、イエス様を見つめなければなりません。
それは、イエス・キリスト、彼にこそ救いがあるからです。
イエス様は「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」んだと2節に記されています。
彼は私たちの罪を背負い、十字架に架けられました。
そして、十字架の上で恥を受け、苦しみ、死なれたのです。
イエス様が十字架に架かる時、ある人は彼を憐れむような目で見つめました。
またある人は彼を裁くような、罵るような目で見つめました。
神の子であるイエス様が、罵られ、つばを吐きかけられ、その弱さを笑われたのです。
イエス様はそのすべてを耐え忍ばれました。
それは、私たちの罪を赦すためです。
私たちがもがき苦しむ、この罪を取り払うためです。
私たちに絡みついて離れない、この罪を取り除くためです。
十字架の死によって私たちの罪が赦され、私たちが罪の奴隷から神の民へと変えられる。
そのことを、イエス様は十字架の苦難の先に望み見ていたのです。

【忍耐〜希望を見つめて走る】
さて、著者は「忍耐」という言葉をとても重要な言葉として使っています。
イエス様が十字架の死を忍耐したように、
私たちも自分に定められている競走を「忍耐」強く走り抜こうではないか、と言うのです。
忍耐とは、自分が目指す方向へ目を向けて、そこに希望を抱いて、今の苦しみを耐える状態です。
たとえ今が辛くても、物事がなかなか良い方向に進まなくても、諦めずに、辛抱強く、自分が抱いている希望を信じ続けている状態です。
ヘブライ人への手紙の著者は、きっとこのように説明するでしょう。
忍耐強く、自分に定められた競走を走り抜くとは、
その競走の中で、イエス・キリストを見つめるということだ、と。
というのも、イエス様にこそ、私たちの希望があるからです。

【イエスは共におられる】
しかし、私たちは、毎日自分に定められている競走を走る中で、
時にこのような疑問を抱くときがあります。
私たちの競走を、私たちの日々の戦いを、イエス様は神の右の座にただ座って見ているだけではないのだろうか。
私たちが毎日戦い、傷付き、疲れ果て、失望する中で、イエス様はただ遠い場所から見ているだけではないのだろうか、と。
私たちはゴールで待っているだけのイエス様を見つめて、
先のことだけを考えて、今の苦しみを我慢して走らなければならないのでしょうか。
信仰者の競走とは、そのような辛く、悲しいものなのだろうか、と。
このような思いが強くなればなるほど、私たちは自分に定められているこの競走を前にして、失望し、疲れ果ててしまいます。
しかし、著者は言うでしょう。
絶対にそんなことはない。
イエス様はただ私たちを遠い場所から見ている方ではない。
ただ私たちを待っているだけの心の冷たい方では決してない。
彼は天の故郷というゴールで待っているだけでなく、私たちのもとに来てくださったではないか、と。
クリスマスのとき、私たちは神の子イエス・キリストがこの世に来られたことを共に喜びました。
そうです。彼は私たちのもとに来て、共に生きてくださったのです。
人間として生き、私たちと苦しみを共に経験されました。
イエス様は私たちをひとりで走らせることはなさいません。
イエス様が共にいてくださるのです。
私たちが苦しみ、涙し、疲れを覚える日常において、共にいてくださるのです。
罪に塗れる私たちの現実に、救いをもたらすために彼は来られたのです。
私たちが見つめるイエス・キリストとはそのような方なのです。
だから、私たちは彼にこそ希望を抱いて、イエス様を見つめ続けて、走り続けることができるのです。

【自分に定められている競走を忍耐をもって走り続ける】
さて、私たちはこの礼拝を終え、日々の日常へと帰って行きます。
それぞれに定められている競走があるのです。
それは時として、疲れを覚えるほど辛いことかもしれません。
また、それは忍耐を必要とするものといえるでしょう。
私たちの目の前には、解決が困難な問題があるかもしれません。
しかし、私たちのためにこの地上に来られ、苦しまれた方がその問題に関わってくださらないはずはありません。
彼は私たちの一番の問題である、罪の問題に関わってくださったのですから。
私たちは、どのような時でもイエス様を見つめ続けて行きましょう。
彼にこそ、希望を置いて、走り続けて行きましょう。
そう、主イエスを見つめ、祈り続けるのです。
イエス様が教えてくださった主の祈りで、私たちはこのように祈っています。
みこころが天で行われるように、この地でも行われますように、と。
私たちの競走とは、そのように祈り続けるものなのです。
私たちが関わるすべてのことに対して、神の働きかけを忍耐強く祈り求めるのです。
主よ、この場所には愛がありません。
どうかあなたが来て、ここに愛をもたらしてください。
主よ、憎しみばかりのこの世の中に、愛を教えてください。
私にはどうしようも出来ないこの問題に、あなたが関わってください、と。
そして、私たちの競走とは、この祈りに生きようとする生き方なのです。
神の愛がない場所に、神の愛を実現しようと願うのです。
そして、この神の愛に基づいて生きる生き方こそ、私たちの競走なのです。
私たちは、自分自身の日常を見渡す時、一体何がこの目に映るでしょうか。
争いでしょうか。平和でしょうか。
絶望でしょうか。希望でしょうか。
分裂でしょうか。一致でしょうか。
不正でしょうか。真理でしょうか。
憎しみでしょうか。愛でしょうか。
私たちは自分の目に映る、定められている競走に、祈りながら関わっていくのです。
主よ、私をあなたの平和の道具として用いてください、と。
憎しみのあるところに愛を。
いさかいのあるところにゆるしを。
分裂のあるところに一致を。
疑惑のあるところに信仰を。
誤っているところに真理を。
絶望のあるところに希望を。
闇に光を。
悲しみのあるところに喜びをもたらす者として、私たちを遣わしてください、と。
このように主イエスを見つめて、祈りながら、私たちはそれぞれの場所へと、それぞれに定められている競走へと遣わされていくのです。
神が私たち自身を通して、そこに愛と平和とをもたらそうとしているのです。
私たちは、その時を忍耐強く待ちながら、この競走を走っていくのです。

【キリストを見つめながら、私たちは走る】
それぞれの場所に神は私たちを遣わす、と言いました。
しかし、それにも関わらず、この競走を走る時、私たちは決して孤独ではありません。
私たちは孤独な戦いをしているのではないのです。
それは、イエス様が共にいてくださるというだけではないのです。
教会という、キリストにあってひとつに結ばれた共同体として私たちはこの競走を走っているのです。
何と喜ばしいことでしょうか。
絶望するときには、手を取って共に走りだそうと励ます兄弟姉妹がいるのです。
誰かが怪我をした時には、背負って、少しずつ歩を進めていくでしょう。
少し遅れている人がいたら、その人に合わせて走ろうとするでしょう。
そうやって、共に天の故郷を目指して走っていくのが神の民の競走なのです。
実際、私たちは日常において、物理的には距離が離れているかもしれません。
しかし、祈りによって、私たちは今苦しみながら走っている人々と共にいることができるのです。
私たちはまさに祈りにおいて、共に主イエスを見つめるのです。
主イエス・キリストこそ、私たちの救い、私たちの希望なのです。
さぁ、私たちは祈り合って互いに励まし合って、この競走を走り抜こうではありませんか。
自分たちの目の前に定められているこの競走を、忍耐強く走り続けて行こうではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者である主イエス・キリストを見つめながら。
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。(詩編121:3)