しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2013年8月25日日曜日

説教#23:「キリストに結ばれ、神の民は喜び生きる」

尾山台教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。
*口語訳聖書を使用

『キリストに結ばれ、神の民は喜び生きる』
聖書 ピリピ人への手紙1:1〜2
日時 2013年8月25日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・尾山台教会

【私たちは様々なものに結び合わされて生きている】
私たちは様々なものに結び合わされながら生きています。
たとえば、私たちは場所と結び合わされて生きています。
何処に住み、どのような環境の中で生活するかによって、
私たちの生活のあり方は変わってきます。
生活する場所が違えば、関わる人達も変わってきますし、
話す言葉も少しずつ変わってきます。
私たちは場所と結び合わされて生きていて、その結びつきから影響を受けています。
その場所で生きているから、出会う人たちがいて、
その場所で生きているから、今の生活の仕方をしているのです。
その他にも、経済状況、人間関係、与えられている時間、過去の経験、
抱いている信念、怪我や病気などといった肉体的な制約など、
私たちは様々なものに結び合わされながら生きています。
それらとの結びつきによって喜びを見出すこともあれば、
反対に、その結びつきによって、喜びを見出せないこともあります。
その結びつきが私たちの行動に何らかの制約をもたらし、自分の思い通りにさせないからです。
その結びつきによって、不自由さを感じるからです。
私たちは、自分が結び合わされているものに喜びを見いだせない時、
その結びつきが、まるで自分自身を縛り付ける鎖のように思えてくるのです。

【鎖に繋がれた(結ばれた)パウロ】
今日私たちに与えられたテキストで、パウロはそのような鎖に繋がれています。
彼はエペソで牢獄に入れられていました。
その時に、彼はこの手紙をピリピの教会へ宛てて書き送ったのです。
パウロは監禁され、鎖に結び合わされ、自由を奪われている状態でした。
彼の願い、そして彼を突き動かす情熱は、キリストを宣べ伝えることでした。
「イエス・キリストは主である」(2:11)と多くの人々に伝えたい。
そう願っているパウロが牢獄に入れられているのです。
私たちは、パウロが牢獄に入れられている状態であると知る時、
彼の宣教の働きが妨げられているのではないかと感じます。
しかし、ピリピ人への手紙を最初から読み進めてみると、パウロは自分の状態を嘆くどころか、喜んでいることがわかります。
彼はこの手紙で一貫して喜んでいるのです。
パウロは、この状況でも喜べた理由について、12節にこのように書いています。
さて、兄弟たちよ。わたしの身に起ったことが、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。(1:12)
今、自分が監禁されることは、
キリストを宣べ伝える宣教の働きを妨げることはなかった。
それどころか、この福音を前進させたと、パウロは言うのです。
だから、パウロは喜ぶことができたのです。
しかし、それ以上に喜ぶ理由が彼にはありました。
彼が喜んでいるのは、もっと根本的な理由があったからです。
その理由について、私たちはこの手紙の冒頭の言葉から知ることができます。
パウロはこのような言葉から、この手紙を始めています。
キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。(1:1)
パウロは自分のことを「しもべ」と呼んでいます。
もっと直接的な言い方でこの言葉を訳すならば、「奴隷」でしょう。
奴隷。それはまったく自由のない状態です。
彼は、自分が置かれている状態と重ね合わせて、このように書いているのでしょう。

【キリストに結ばれている、キリストの奴隷であるパウロ】
しかし、彼は「エペソで鎖に繋がれている奴隷パウロ」とは名乗りませんでした。
そうではなく、彼はこのように名乗るのです。
自分は「キリストの僕」、キリストの奴隷である、と。
この奴隷という言葉は、正直あまり良い意味で使われるものではありません。
しかし、パウロはそれを敢えて使うことによって、キリストとの結びつきを強調しているのです。
キリストの奴隷であるということ、それは私たちから自由を奪うものではありません。
そうではなく、私たちを真の意味で自由にするものだ、とパウロは確信しているのです。
マタイ福音書で、イエス様はこのように語られています。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。(マタイ11:28)
毎日様々なものに結び合わされ、
時にそれらのものに支配され、自由を奪われ、
時に疲れを覚える私たちに対して、イエス様はこのように語られているのです。
あなたは自分に結びついているその様々な重荷によって疲れている。
だから、「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と。
イエス様は、私たちを縛り付けて、自由を奪うような方ではありません。
彼は、私たちから自由や喜びを奪うのではなく、
自由と安息、そして、喜びを与えてくださるのです。
そのような方であるキリストに結ばれることを、
パウロは「キリストの奴隷」と表現しているのです。
ですから、パウロはそのように表現することによって、
この手紙を読むすべての人々に宣言しているのです。
今自分は鎖で繋がれている状態かもしれない。
しかし、それは決して永遠のものではなく、いつかは解かれるものである。
鎖以上に強い結び付きがある。
しかしそれでいて、決して鎖のように私たちを縛り付けて、自由を奪うことのない結び付きがある。
それは、キリストに結ばれて生きることなのだ。
私はキリストの奴隷、キリスト・イエス以外の誰のものでもないのだ、と。
そのようにパウロは確信しているのです。

【キリストに結ばれることへの招き】
この確信は、決してパウロだけのものではありません。
というのは、彼は「奴隷」という言葉を単数形ではなく、複数形で用いているからです。
そう表現することによって、彼はすべての人々を「キリストの奴隷」として招いているのです。
「あなたはキリストのものである」と。
パウロは「キリストの奴隷」であると宣言することによって、
手紙のすべての読者に問いかけているのです。
時代を越えて、今を生きる私たちに対しても問いかけているのです。
あなたたちは何に縛られて生きているのか?
何に結びついているのか?
何に支配されているのか?と。

【フィリピで、キリストに結ばれる】
ところで、パウロはなぜ、キリストとの結びつきを強調するような挨拶で、この手紙を書き始めたのでしょうか。
それはピリピの教会の人々の毎日が、戦いで満ちていたからです。
パウロは1:30でこう書いています。
あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。(1:30)
かつてパウロはキリストをピリピの人たちに伝えていた時、
町を混乱させている(使徒16:20)と訴えられ、
一緒にいたシラスと共に投獄され、鞭打ちの刑に耐えなければなりませんでした。
そのような政治的な状況にある場所で、ピリピの教会の人たちは暮らしていました。
そして、彼らもパウロと同じ苦闘を続けているのです。
それは、ピリピの教会の人たちにとって、
キリストとの結びつきを失わせようとする戦いでもありました。
正直、キリストとの結びつきがない方が、彼らには遥かに楽だったでしょう。
ですから、キリストとの結びつきを忘れて、まるでそれがないかのように生きることは、彼らにとって誘惑でした。
この町で生きること自体が、彼らにとって戦いだったのです。
だから、パウロはピリピの教会の人たちのことを、こう呼ぶのです。
ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち…(1:1)
パウロはピリピの人たちに対して、
ピリピで生きているあなたたちは、キリストに結ばれて生きている。
この町で、あなたたちはキリストに結ばれて生きるのだ。
そのことを決して忘れてはいけない、と語っているのです。
そう、キリストに結ばれているという生き方は、教会の中でだけのものではないのです。
私たちは、いついかなる時も、何処にいても、キリストに結ばれている者であり、キリストにある聖なる者、神の民なのです。

【それぞれの場所でキリストに結ばれて生きる】
このような戦いがあるのは、ピリピの人々だけではありません。
私たちも、それぞれの場所において、戦いがあります。
そして、キリストに結ばれているという事実を忘れて生きる、という誘惑に絶えずさらされています。
多くのものが私たちに結びつき、私たちを支配しようとしてきます。
キリストとの結びつきを忘れさせ、他のものに結び合わせようとします。
しかし、パウロの言葉は、私たちがキリストに結ばれている者であるということを思い起こさせるのです。
…ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち…(1:1)
そう、この町で、あなたたちはキリストに結ばれて生きるのだ。
そのことを忘れてはいけない、と私たちも語り掛けられているのです。
キリストに結ばれているという生き方は、教会の中でだけのものではないのです。
学校、家庭、職場、趣味のサークルなど、
私たちは、いつ、いかなるときも、何処にいても、
キリストに結ばれている者であり、キリストにある聖なる者なのです。
そのようなわけで、私たちは何に結び合わされて生きているのかと、日々問われているのです。

【祝福の祈り~恵みと平安があるように】
そのため、このような戦いの毎日にあるピリピの教会の人たちへ、パウロは祝福を祈るのです。
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(1:2)
キリストに結ばれている者たちには、
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が与えられているのです。
恵み。それは神から一方的に与えられるものです。
私たちがどのような人間かは関係ありません。
「わたしはあなたを愛する」と言ってくださる、神の一方的な愛です。
この神の恵みによって、私たちを苦しめる罪という鎖は取り去られ、私たちはキリストに結び合わされました。
私たちがどれほど頑張ってキリストとのつながりを振りほどこうとも、
神は私たちをキリストに結び合わせ続けるのです。
そして平安とは、神との関係における平和と、人との関係における平和を意味します。
キリストに結ばれている者たちは、キリストの愛を抱いて、すべての人々との関係を築くのです。
キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも出会うひとりひとりの人を愛するのです。
パウロは、キリストに結ばれている私たちに対して、
このような恵みと平安を携えて、それぞれの場所へと出て行くようにと励ましているのです。
どうか私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。(1:2)
【恵みと平安を携え、喜び抱いて出て行こう】
さて、キリストに結ばれている私たちが恵みと平安を携えて生きるとき、
私たちの生き方は、私たちが出会うすべての人に対する、問い掛けへと変えられてゆきます。
私はキリストを信じている。キリストに結ばれて生きている。
では、あなたは何に結びついている生きているのですか?
あなたは何に縛られ、何に支配されているのですか?と。
しかし、問い掛けで終わってはいけないでしょう。
私たちは、自分たちに与えられているこの恵みと平安を分け与えに行こうではありませんか。
キリストに結ばれるようにと、招くのです。
ここに自由がある。
ここに喜びがあると、声を上げようではありませんか。
キリストに結ばれているという喜びを抱いて。

私たちは、この恵みと平安を携えて、またそれぞれの場所へと出て行きましょう。