説教#24:「しかし、イエスは受け止める」

浦和教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。


『しかし、イエスは受け止める』
聖書 マルコによる福音書14:66〜72
日時 2013年11月10日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【「あなたのことは知らない」】

「あなたのことは知りません。」
もしも直接、人からこのように言われたら、私達はとても傷付きます。
たとえそれが最近知り合ったばかりの人であったとしても、
ちょっぴり傷付いている自分がいます。
でもそんな時は、知り合ったばかりなのだから仕方がないと思って、
これからこの目の前にいる人との関係を築いていこうと、努めることでしょう。
しかし親しい人から言われたとしたら、話は違ってきます。
「あなたのことは知らない」というこの言葉は、拒絶へと変わっていきます。
自分たちがこれまで築いてきた関係を否定するかのような意味を持ち始めるのです。
たとえ、顔と顔とを合わせて言われなかったとしても、その意味は変わりません。
この人は私との関係を否定している。
私という存在を拒絶している。
そのような現実を突きつけられるのは、大きな痛みを伴います。
その相手と親しい関係であればあるほど、
相手と過ごした時間が長ければ長いほど、
拒絶されていることに、深い悲しみを覚えます。

【ペトロの最初の否認~知らないふり】
今日私達に与えられたテキストで、
ペトロは3度、イエス様と自分の関係を否定しています。
ペトロは捕らわれたイエス様の後について行き、
大祭司の屋敷の中庭で火にあたり、暖をとっていました(14:54)。
そこで出会った女中は、彼を見つめて「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」(14:67)と語り掛けてきました。
ペトロの目の前にいるのは女中、大祭司に仕えている女性です。
そのため、イエス様と自分の関係が彼女に知られたところで、ペトロは危険な目になどあうはずがありません。
それにも関わらず、彼は彼女の言葉に対して、このように答えるのです。
「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」(14:68)
自分の命を脅かすはずもない一人の女性に対して、
彼は知らないふりをするのです。
そうやって、自分がイエス様と関係がある者として見られることを、彼は避けようとするのです。
火にあたっていたペトロでしたが、
彼は女中に答えるとすぐに、庭の出口の方へ向かって行き、逃げ出します。
焚き火の光が当たらない暗い方へ。
そう、自分に注目が浴びることのない場所へと向かって行ったのです。
自分がイエス様の弟子であるということを、
他の人々に知られることがない場所を求め、
彼は女中のもとから逃げていくのです。

【ペトロの二度目の否認~仲間であることの否定】
しかし、この女中はペトロの後をついてきました。
そして、そこに居合わせた人々に向かって言うのです。
「この人は、あの人たちの仲間です」(14:69)
ペトロはこの言葉も否定します。
彼は女中のこの言葉を否定することによって、
イエス様の仲間であることと、一緒にいた弟子たちとの関係を否定したのです。
このペトロの否定の仕方ですが、
元のギリシア語の言葉を見てみると、「打ち消し続けた」という言い方をしています。
この女中は、周囲の人々に向かって、
「この人は、あの人たちの仲間です」(14:69)と、ただ一度だけ伝えただけでした。
それに対してペトロは、多くの言葉で彼女の言葉を打ち消そうとするのです。
「自分はナザレのイエスなど知らない。
 自分は彼らの仲間でもない。
 この女性はきっと、何か勘違いをしているんだ。」
そんな風に、嘘に嘘を重ねて、ペトロは彼女の言葉を「打ち消し続けた」のです。
彼はこの二度目の否定の場面で、
多くの言葉を重ねて、イエス様と自分の関係を否定したのです。
しかし、彼が否定すればするほど、周囲の人々の疑惑は深まっていきました。
そして、ペトロのイエス様に対する拒絶もまた深まっていったのです。

【ペトロの三度目の否認~イエスを拒絶する】
それからしばらくして、今度はその場所に居合わせた人々が、
ペトロを見てこのように言いました。
「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」(14:70)
それに対して、ペトロはこう答えます。
「あなたがたの言っているそんな人は知らない」(14:71)
一体、これまでのペトロとイエス様との関係は何だったのでしょうか。
このペトロの言葉は、これまでイエス様との間に築いてきたものを、ペトロの側から一気に崩す発言でした。
漁師であったペトロは、「わたしについて来なさい」(1:17)というイエス様の言葉を聞いて、
仕事道具の網を捨ててまで(1:18)、イエス様に従ってきました。
彼は弟子の中でも、特にイエス様と親しい関係にありました。
これまで多くの時間を一緒に過ごしてきました。
また、多くの言葉も交わし合ったことでしょう。
しかし、彼はそのすべてを否定したのです。
「あなたがたの言っているそんな人は知らない」(14:71)
【鶏の鳴き声によって気付く自分の姿】
そんな時、鶏の鳴き声が聞こえたのです。72節。
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(マルコ14:72)
ペトロはイエス様の言葉を思い出して、泣き崩れます。
彼は、自分がイエス様を拒絶していたことに気付き、自分に失望するのです。
それと同時に、自分がイエス様に言った言葉を思い出したことでしょう。
「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(14:30)とイエス様がペトロに言ったときに、自分が答えたあの言葉を。
「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」(14:31)
イエス様に向かって、自信をもってこのように答えたことを、彼は思い出したのです。
それにも関わらず、彼はイエス様のことを「知らない」と言ってしまった。
そんな自分の姿を見つめて、彼は涙を流し続けました。
ペトロの名前の意味は、「岩」という意味です(マタイ16:18)。
しかし、堅く、動かされることのない「岩」とは全く正反対の自分の姿に彼は出会ったのです。
脆く、弱い自分の姿です。
彼は鶏が鳴いたとき、イエス様の言葉を思い出すことによって気付いたのです。
イエス様を否定する歩みしかできない自分がここにいるということを。

【イエスを否定して歩む現実】
このペトロの姿は、決して私たちにとって無関係なことではありません。
ペトロが直面した現実は、私たちの現実でもあります。
このペトロの3度の否定を前にして、
私たちは自分自身のこれまでの歩みを振り返るとき、
どれほどイエス様を否定するような歩みをしてきたのだろうかと、問われざるを得ません。
この口では「私はイエス様を信じている」と言いながら、
まったくそれに相応しくない生き方をしてしまう。
人を愛することではなく、人を憎むことを選び取ってしまう。
そんな私がここにいるのです。
イエス様を否定し続ける私です。
大祭司の庭でイエス様を「知らない」と否定するペトロの姿こそ、私たちの姿なのです。
そして、脆く、弱い自分の姿に出会い、泣き崩れるペトロの姿こそ、私たちの現実の姿なのです。

【イエスの裁判~あなたのために、私はここに立つ】
さて、この物語は、ペトロの涙で終わっています。
しかし、このペトロの3度の否定の記事を挟み込むような形で、
イエス様の裁判の場面が描かれています。
イエス様は、ペトロが自分のことを知らないと言って、自分との関係を否定したことを知りながらも、
ご自分の十字架刑という判決が決まる裁判の席に、立ち続けているのです。
「ペトロ、あなたの罪を赦すために、私は十字架に架かる。
 あなたのその拒絶さえも受け止めて、私は十字架に架かる。
 あなたを愛しているからだ。」
イエス様のことを「知らない」と言ったペトロに向かって、
イエス様は「私もあなたを知らない」とは決して言わないのです。
ペトロに拒絶されたイエス様は、それでも彼を愛されたのです。
そして、同じように、イエス様を拒絶する私たちをも、イエス様は愛してくださっているのです。
イエス様を否定し続ける歩みをするような私がここにいます。
しかし、それでもイエス様は私たちを受け止めて、愛してくださるのです。
愛されている私が、愛されている私たちが、ここにいるのです。

【キリストの愛を抱いて生きる】
ですから、私たちはこの愛を自分のものとして握り締めるだけではいけません。
イエス様はヨハネ福音書で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)と語られました。
これこそ、イエス様の愛を受け取った者である、私たちの生き方です。
イエス様が私たちを愛したように、私たちも出会うすべての人々を愛するようにと、私たちは招かれているのです。
それはこの世の原理とは違う生き方です。
この世は、気に入らなければ、無視をして、私たちを仲間外れにしようとしてきます。
「知らない、関係ない」と。
また、何らかの基準に合わなければ、私たちを切り捨て、排除しようとします。
そして、「あなたのことは、知らない」と、私たちが存在する価値を否定してきます。
そのような、この世の原理に従って生きることは、イエス様の生き方とは正反対の生き方です。
私たちは、このようなこの世の原理に従って生きるのではなく、
イエス様の愛に基づいて生きるように招かれています。
私たちはイエス様に愛されたのだから、イエス様と同じように、出会う一人ひとりを愛そうではありませんか。
イエス様を知らないと言い続けてきた私たちに対して、
「しかし、あなたを愛する」とイエス様が語り掛けて、私たちを愛されたように。
それこそ「私はイエス様を知っている」と証する生き方です。
私たちのこの口で、この身体で、この生き方によって、
そう、私たちが与えられているものすべてによって、
私たちは「しかし、あなたを愛する」と語り掛けてくださった主イエスを宣べ伝えるのです。
「私はこの方を知っている」と。
このキリスト・イエスにある愛を抱いて、
この愛に基づいて、私たちは日々歩んでいこうではありませんか。

このブログの人気の投稿

Macじゃないよ、アルバムだよ

説教#162:「子ロバでありたい」