しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年3月17日月曜日

説教#27:「主イエスは私たちのために進み行く」

浦和教会の礼拝で説教奉仕をさせて頂く機会を与えられました。
祈りに覚えてくださった皆さん、感謝致します。


『主イエスは私たちのために進み行く』
聖書 イザヤ書52:13〜53:12、ヨハネによる福音書18:1〜11
日時 2014年3月16日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【私たちは恐れや不安を抱く】
恐れや不安が、私たちの心を支配することは数多くあります。
たとえば、人との関係の中で、私たちは恐れを抱きます。
相手と自分の関係を考える時、「このままで大丈夫なのか」と不安になることがあります。
また、「この先どうなるのか」と、将来に対して恐れや不安を、誰もが抱くことでしょう。
全く知らない未知の場所に足を踏み出すと決めた時、不安が私たちの心を支配します。
試験の結果や、人が下す判断を待つことは、大きな恐れや不安が伴います。
その結果や判断が、私たちのこれからの歩みを決めることにもなるからです。
その他にも、私たちは様々な形で恐れや不安を抱きます。
皆さんは、恐れや不安をどのようなときに覚えるでしょうか。

【園という「いつもの場所」】
今日私たちに与えられた聖書テキストである、ヨハネ18章から、
ヨハネによる福音書の受難物語は始まります。
イエス・キリストの受難物語を、ヨハネはこのように書き始めています。
こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。(ヨハネ18:1)
イエス様が弟子たちと共に、園へ入って行ったということから、
ヨハネはイエス様が十字架に向かって歩む姿を書き始めています。
この園は、イエス様や弟子たちにとってどのような場所だったのでしょうか。
2節にはこのように記されています。
イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。(ヨハネ18:2)
イエス様は、弟子たちと共に、度々この園に集まっていました。
彼らにとって、この園は、いつもの場所だったのです。
彼らはこの園を度々訪れて、共に語り合い、神に祈っていたことでしょう。
そして、今日もいつものように、彼らはこの園で語り合い、共に祈っていたのです。

【突然訪れる不安や恐れ】
そこに突然、イエス様を捕まえるために、ユダが兵士を連れてやってきたのです。
彼らの手には、松明やともし火、そして武器がありました。
武器を持った兵士たちに取り囲まれる。
想像してみただけでも、恐ろしいことです。
兵士たちが松明やともし火をもっていたので、きっと辺りは暗くなっていたのでしょう。
その暗闇がますます弟子たちの心に恐れを植えつけました。
これから自分たちはどうなるのだろうかと、
弟子たちは恐れ、不安を抱いたことでしょう。
このようにして、恐れや不安がいつもの日常に、いつもの場所に、突然訪れたのです。
このようなことは、私たちの日常にも起こり得ることです。
文字通り敵に囲まれることはあまりないでしょうが、
気が付くと、敵に取り囲まれているかのような状況に立たされているときがあるのです。
自分の力では何もできない。何をしても解決できそうもない。
そのような問題が、突然私たちのもとにやってきて、
私たちの心を恐れや不安で支配するのです。

【イエスは何もかも知っておられ、進み出た】
イエス様と弟子たちは、突然、武器をもった敵に囲まれました。
彼らの生命の危険さえも感じます。
しかし、福音書記者ヨハネは、敵に囲まれて恐れや不安を抱いている弟子たちには、あまり注目していません。
ヨハネは、読者である私たちの目を、弟子たちではなく、イエス様に向けさせるのです。
4節を見てみましょう。
イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。(ヨハネ18:4)
イエス様は、「何もかも知っておられ」たのです。
イエス様だけが、その不安や恐れの正体をすべて知っておられたのです。
そう、これから何が自分の身に起こるのかを知っていたのです。
それは十字架へと向かう苦難の道でした。
これから目の前にいる人々に連れて行かれ、ムチを打たれ、
人々から罵られ、十字架に架けられ、そして死を迎える。
そのすべてを知って、そのすべてを受け止めて、イエス様は進み出たのです。
十字架の死へと進む、その一歩を。
そして、イエス様はこう言うのです。
「だれを捜しているのか」。
あなたたちが捜しているのは、この「わたしである」と。
そうやって、ユダと兵士たちの前に、イエス様は進み出たのです。

【イエスが進み出た理由】
この時、イエス様は自分の命のことよりも、
その場にいた弟子たちのことを気遣っています。
イエス様はこのように言われました。
「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」(ヨハネ18:8)
「あなたは私を捜しに来たのだろう?
それならば、私と共にいる弟子たちには用はないはずだ。
決してその手に持つ武器で彼らを傷つけてはならない」。
イエス様は兵士たちに向かってこのように言っているかのようです。
そして、弟子たちを身体を張って守るかのように、
イエス様は、弟子たちのために前に進み出たのです。
弟子たちが抱いている恐れや不安をすべて引き受けて、進み出たのです。
あなたたちが捜しているナザレのイエスとは、「わたしである」と。
そして、同じように、イエス様は私たちの不安や恐れも引き受けてくださいます。
すべて引き受けて、進み出て行かれるのです。
その不安も、恐れも、苦しみも、痛みも、すべて受けるのは「わたしである」と言って。
イエス様は私たちのために、十字架への道を進んで行ったのです。
私たちの不安や恐れの原因となっている、人間の罪をすべて背負い、
私たちに赦しを与えてくださるために。
イエス様は、私たちを愛してくださっているゆえに、
私たちのために、この十字架への道を歩んでくださったのです。
このイエス様の姿は、イザヤ書に記されている「苦難の僕」といわれている人の姿そのものです。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって  わたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ53:3-5)

イエス様は、私たちに癒やしをもたらすために、進み出て行かれたのです。
私たちが無傷でいるために、イエス様は進んで行かれたのではありません。
私たちが既に傷付いているから、イエス様は進み出たのです。
人間の罪は、多くの傷をもたらします。
私たちは、隣人を愛したいのに、憎んでしまいます。
すべての人と手を取り合って生きて行きたいのに、自分に都合の良い人としか手を取り合えません。
神に喜ばれるように生きたいのに、寧ろ自分の欲望に従って生きてしまいます。
この世界のあらゆるものを、自分の欲に従って、利用してしまうのです。
そのような傷付いているこの世界にいやしを与えるために、
お互いに傷つけ合う私たちにいやしを与えるために、
イエス様は進み出て行かれたのです。
私たちを苦しめる罪に他する勝利をもたらす十字架に向かって。

【主イエスは私たちのために進み行く】
このように私たちのために、私たちの前を進み行く主イエスがいるのです。
イエス様は、私たちの恐れや不安、痛み、そして罪をすべて引き受けてくださいました。
もはや罪に支配されて、恐れや不安を抱いて生きる必要はないのです。
主イエスによって、罪が赦され、神の子とされている喜びが私たちにはあるのです。
ですから、この方に希望を置いて、私たちは歩んで行こうではありませんか。
そして、恐れや不安に溢れているこの世界に、私たちは告げ知らせようではありませんか。
主イエスこそ、私たちの希望である、と。
互いに傷つけ合うこの社会の中にあっても、
人を傷つける生き方をするのではなく、愛と憐れみをもって歩んで行こうではありませんか。
主イエスこそ、私たちの救いである。
この方にこそ、真の癒しがある、という確信を抱いて。

主イエスは私たちのために、十字架への道を歩んでくださったのですから。