説教#28:「ここにいのちは溢れ出る」

4月から日本ナザレン教団の浦和教会で牧会をしています。
説教原稿は、浦和教会のホームページにも掲載されていますが、
こちらにも投稿しようと思います。

『ここにいのちは溢れ出る』
聖書 出エジプト記12:21-28、ヨハネ福音書19:28-37
日時 2014年4月6日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【私たちは毎日、完成を目指している】
私たちは毎日、何かの完成を目指して生きています。
小さなことから、大きなことに至るまで、私たちは様々な物事の完成に関わっています。
たとえば、モノづくりや料理、その後片付け、掃除、
仕事で自分の関わっているプロジェクト、試験勉強などがあげられるでしょう。
私たちの取り組むそのひとつひとつのことが、終わりを目指して行われているのです。
もちろん、終わりが見えにくいものもあります。
しかし、それでも、確かに私たちは完成に向かって、日々歩んでいます。
そして、何かが完成した時、喜びの声を上げるのです。
「やった、完成した!」
「ようやく終わった!」というように。
大きな仕事を終えた時は、疲れきってしまうこともありますが、
それでもその仕事が終わったことに対する安心と、達成感があることでしょう。

【「成し遂げられた」】
今日私たちに与えられたテキストで、イエス様はこのように言われました。
「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
どうやら、イエス様も何かの完成に関わっていたようです。
しかし、この言葉をイエス様は十字架の上で語り、そのすぐ後に死なれました。
「死」を見つめる時、そこから何かを見出すのはとても困難なことに思えます。
死は、私たちから多くのものを奪います。
そして、何かを完成させるどころか、私たちがこれまで積み上げてきたもの、作り上げてきたものを、
いとも簡単に破壊し、否定しているようにも思えるのです。
しかし、そのような死を目前としたとき、イエス様は言われたのです。
「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)
死によって、イエス様の働きが無駄になったわけでも、破壊されたわけでもないのです。
そうではなく、この死によって、イエス様の働きは成し遂げられた、
完成させられた、と言うのです。
イエス様の死によって、喜びも希望も失ってしまったかのように思えます。
しかし、そうではないのです。
死によって、すべてが無駄になってしまったという、敗北の声ではなく、
この死によって、「成し遂げられた」という勝利の声が、
十字架の上のイエス様から聞こえてくるのです。

【イエスの死によって、溢れ出るいのち】
では、イエス様の死によって、一体何が成し遂げられたのでしょうか。
ヨハネは、あるひとつの出来事を書き残すことを通して、
イエス様の死によって、成し遂げられたことが何であるかを示しています。
19:34-35を見てみましょう。
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。(ヨハネ19:34-35)
兵士がイエス様の脇腹を刺した時、「血と水とが流れ出た」というのです。
この出来事が、イエス様の死の意味を証していると、ヨハネの目に写ったのでしょう。
イエス様の血は、私たちのために流されたものです。
互いに愛し合うのではなく、傷つけ合い、憎しみ合うことを選び、
神の前に喜ばれない生き方を続けてしまう私たちがいます。
互いに赦し合って生きることより、
争い合い、批判し合い、罵り合うことが何と多いことでしょうか。
このような神の思いとはかけ離れた生き方、
神が愛しているすべての人々を愛することの出来ない生き方を、聖書は罪と呼びます。
このような罪を抱えて生きる私たちに赦しを与えるために、
イエス様は十字架の上で死なれたのです。
イエス様の流した血によって、私たちは赦しを確信するのです。
イエス様の流した血が、神と私たちの交わりに回復をもたらし、
私たちにいのちを与えるのです。
また、水はいのちを与えるものとして、ヨハネ福音書では描かれています。
たとえば、サマリヤの女に対して、イエス様はこのように言っています。
わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)
ですから、槍を刺されたイエス様の脇腹から、血と水が流れ出たという出来事は、
イエス様の内からいのちが溢れ出ているということを示しているのです。
イエス様の死を通して、私たちにいのちが与えられているのです。

【過越祭と聖餐式】
新約聖書の時代の信仰者たちは、自分たちがキリストの死によっていのちが与えられていることを、
旧約聖書に記されている過越祭と結びつけて考えていました。
過越祭は、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエル人たちが、
神の働きによって、エジプトを脱出したことを記念する祭りです。
この過越祭は、エジプトを脱出した後、荒野で祝われました。
命の危険もある荒野で、イスラエル人たちは過越祭を守り続け、
神の救いのわざと、神からいのちが与えられていることに感謝したのです。
そして、私たちも聖餐式を通して、神の恵みに感謝をします。
キリストの死によって罪が赦され、いのちが与えられていることを思い起こすのです。
イスラエルが約束の地に辿り着く前から、荒野で過越祭を守っていたように、
私たちも、天の御国へと向かうその途上で、聖餐を守るのです。
キリストにあって、今や私たちの内に、いのちが溢れている。
そのことを、私たちはパンと杯を通して、確信するのです。

【キリストにあるいのちを携えて、私たちは荒野を歩んでいる】
さて、イスラエルの人々がそうであったように、私たちも日々、荒野を歩んでいます。
もちろん、それは文字通りの荒野ではありません。
しかし、誰もが日常で、荒野のような場所を通る経験をすることでしょう。
私たちのいる場所は、荒野のように、私たちを追い詰め、私たちから命を奪おうとする場所かもしれません。
また、荒野のように、何もなく、
何の喜びも希望も見いだせないような場所かもしれません。
しかし、そのような場所にいたとしても、「あなたにはいのちが与えられている。
キリストにあって、いのちが与えられている」と神は私たちに語り掛けるのです。
イエス様から血と水が流れ出ました。
そう、イエス様の死によって、いのちが流れ出てきたのです。
死という希望を持てないところからです。
イエス様を受け入れた者には、いのちが与えられているのです。
このいのちを抱いて、私たちは天の御国を目指して歩んでいます。
ですから、喜びと感謝をもって日々歩んで行こうではありませんか。

【いのちを分け与える生き方】
私たちはキリストにあるいのちを携えて歩む時、ひとつ忘れてはいけないことがあります。
それは、私たちに与えられているいのちは、
自分ひとりで楽しむためにあるのではない、ということです。
私たちのいのちは、周囲の人々と分かち合うためにあるのです。
それが、イエス・キリストの生き方であり、
彼によっていのちが与えられている私たちの生き方なのです。
ですから、私たちは自分のことにのみ目を向けるのではなく、
周囲の人々に目を向け続けようではありませんか。
荒野のような場所に佇み、悲しみを覚える経験をしている人が、
私たちのそばにいるかもしれないのですから。
「ここにいのちがある、イエス・キリストこそ私たちの希望である」と、
この希望の言葉を伝えに行きましょう。

私たちは、キリストにあるいのちを携えて生きているのですから。

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